第四章

 1   深川警察署長 秋場礼二の依頼


 綾乃は、翌日加賀町署に立ち寄ると、保管庫に行き、S&W sakura をバックホルスターに、そして手錠と特殊警棒をバックの中に携帯した。車は、MAZDA6にした。

綾乃は、都内に入ると、清洲橋通りを走り和倉橋方面に向かった。。

最初に調べたい場所は、朝倉の免許証に書かれていた、江東区冬木である。

門前仲町駅から程近い、『深川不動尊』の裏手にあたる首都高速9号深川線の高架下近くの一帯がその地域であるらしい。

 書かれていた住所は、『冬木マンション』であった。目的の4階にある部屋のインタフォンを押したが、返事はない。人が住んでいるような気配もないのである。

1階にはテナントが入っており、店名は『craft pasta Torino』となっている。昼時が

近いせいかシェフらしい人物が忙しそうに働いているのが、見てとれた。

綾乃がドアに手を掛けるのと同時に「すみません、まだ開いていないので・・・」と、中から若い男の声がした。

「ごめんなさい…、ちょっと聞きたいことがあって…」綾乃が遠慮がちに返した。

「手を動かしながらなら、いいですけど・・」まだ若いシェフが製麺機を操作している。これがいわゆる『クラフト・パスタ』と名乗る所以なのであろうか…。

店内の天井が高く感じられるのは、あえて天井などを張らずに空調設備などをオブジェとして見せる構造によるものかも知れない。気軽な普段使いに重宝しそうな店である。


「4階の倉田さん、お留守のようなんですけれど…」『手帳』は出していない。

「この一か月ぐらい、二人とも見てなくて・・・、」

「えッ、二人ともですか? 二人ともって、言いますと…」

「もちろん、奥さんもですよ」

「妻がいた…」心の中で呟いていた。 綾乃の危惧していたとおりの結末である。


「何方に行かれたか、ご存じですか?」

「いえ、奥さんは、やり手で手広く商売をやっていたようだし、旦那さんは、例の通り深川警察の刑事でしょ。どこかで張り込みでもしてるのかと、妻と噂していたところなんです」

「確認しますけど、あなたの言っている倉田さんって、この方で間違いないですよね?」綾乃は、免許証をコピーし拡大した写真を見せた。

「ええ、確かに・・・」

「でも、警察官にしては、随分あか抜けた印象ですけれど…」

「それは、警察官になった20代の頃、研修のためにNYPD(ニューヨーク市警察)に3年間いた影響だと、本人が言っていましたけど・・・」

「あなたは、警察事情に詳しそうだけど…」

「分かります? 実は、門前仲町交番で巡査をやっていたんですが、店を開く夢を捨てきれずにこうして・・、この店も倉田さんの口利きで借りることが出来たのです」

「そうだったのね」

「あなたも、警察の方ですよね」と、シェフは言った。 話すほどに、分かるものらしい。

「…、 ……」 綾乃はあえて、肯定も否定もしなかった。

「顔見たら、何か伝えておきますけど・・・」 商売柄か、気さくな人物であった。

「ありがとう。参考になったわ」

店を出たが、喉は驚きで乾ききったままである。ワインセラーに入った冷たいワインをあおりたい心境であった。

綾乃が、初めて朝倉に会った時の同じ匂いがするという印象は、間違いではなかったのである。


時間は、まだ昼前の11時半であった。このまま、深川警察署に向かうことにした。

5分と掛からない距離である。三つ目通りに出ると、木場公園前にある妙に目立つ赤いタイル張りの6階建ての建物を目指した。


「倉田刑事さんのことで、お話しを伺いたいのですが?」

「倉田? うちには、そんな刑事いないけどな・・。あんた誰?」噂通りのぶっきら棒な受付である。到底捜査など出来ない頭の悪さであろう。

「わたくし、加賀町署の成宮綾乃です」上着から手帳を取り出すと、目の前に突きつけた。

「残念だけど、該当者なしです」

「では、秋場礼二署長をお願いします」

「あんた、何者なんだ?」

「今、言ったとおりですが…」

定年まじかの受付が、面倒くさそうに取りついでいる。

「会ってくれるそうだ、6階だよ」

「ありがとう。もっと、愛想良くしないと民間じゃ通用しないわよ」

綾乃は、皮肉の一つでも言いたくなった。


「どうぞ!」綾乃がノックすると、中から野太い声が掛かった。

内側からドアが開かれると、ベテランと思える女性警官が立っていた。秘書役も兼任しているらしい。

「ありがとう…」綾乃は、感謝を示した。

「いいえ、」何処と言って特徴のない顔ではあるが、しっかりとした口調である。

「秋場署長、お忙しいのに申し訳ありません」

「いやいや、今のところ大して忙しくないので構いませんよ。あなたが、成宮刑事ですか。お噂は、加賀町署の中村署長から聞いていますよ」

秋場礼二は、ノンキャリアではあるが警視の役職にあった。温厚そうな人柄ではあるが、たたき上げらしく眼光は鋭い。

「ところで、どうしましたか?」

「率直にお伺いしますが、失礼があったらお許し下さい」

「どうぞ、遠慮なく聞いて下さい」

「署長は、朝倉耕平なる人物、または、倉田圭吾刑事をご存じですか?」

「・・・、また直球で来ましたね」

「実は、朝倉と名乗る人物と湘南市の和食の店で偶然知り合いまして、食事が終わり一緒に店を出たところを、元反社と名乗る人物に発砲され、運悪く朝倉さんが負傷してしまったのです」

「朝倉さんの怪我の程度はどのくらいなのですか?」

「一時は、意識不明でしたが、今は、持ち直しています」

「そうでしたか・・・、良かった・・」

「署長は、朝倉さんをご存じだと?」


「成宮刑事、これからの話はオフレコになりますが・・、いいですね・・」

「山下くん、しばらく席を開けてもらえるかな?」

「承知しました」巡査は、静かに退室して行った。


「これからは、倉田圭吾で良いでしょう。倉田君は、身分秘匿捜査官なのです。

この本署のね。所属は警務課、階級はまだ警部補ですが、何れ警部が約束された優秀な警察官ですよ」

「そんな方が、どうして湘南市に?」

「それは私にもわかりません。彼が探っていたのは、大きく言えば政治家と金の問題でしょうか?事の発端は、(株)レオ・エンタープライズの会長北村清吉氏の依頼によるものなのです。レオ・エンターは、この江東区で手広くマンション開発を行っていましてね。社長を娘婿の山下和樹に譲ってからのこの10年、飛躍的に業績を伸ばしたのです。確かに優秀ではあるが、反社との付き合いが深いらしくあまりいい話を聞かないのです。レオ・エンターの前身は、北村不動産という地元に密着した良心的な会社だったのですが・・・。創業者でもある会長の北村氏の持論は、『企業は誠実であれ』と、いうことですから必然的に山下和樹社長と経営方針でぶつかることが多くなっていったのです・・。


 そこで、噂の真偽を確かめるために、私が倉田君を会長の秘書という名目で送り込んだのです。これが半年前のことなんだ。しかし、三か月ほど前にこの秘匿捜査から降ろして欲しいと言って来たのですよ。彼にしては、非常に珍しい事です。

任務を途中で投げ出すことになるのでね。警察官としての経歴に傷がつく恐れもある。それ以来、定期的にあった音信が不通になってしまった・・・。私は、正直非常に危惧していたところだったのですよ。そこに、きみが現れたという訳です・・」

「奥様が行方知らずであることは、ご存じですか?」

「いや、知らない・・・」

「署長、行きがかり上この捜査、私に任せてもらえませんか?」

「成宮刑事、逆に私からお願いしたい。やって貰えるかな? きみのところの中村署長には私から事情を説明しておくから」

「分かりました! 早速これから、北村会長に会って来ますので…、」

「きみも腰の軽い人だね」

「署長、だから、私はいつも一人行動なのです」

「じゃあ、会長にも連絡しておくから!」

「お願いします!」

「そうだ成宮くん、念のためにこれを持っていきたまえ。きっと、何かの役に立つだろうから・・」 それは、箱に入った指輪だった。

「署長、これはどういうお気持ちで?」

「誤解してもらっても結構だが、説明書をよく読んでおくように・・」

「では、ありがたく頂きます」



 今日も、ゆっくりと昼飯を食べている暇はなかった。

(株)レオ・エンタープライズは、錦糸町駅前にある京葉通り沿いの10階建てのモダンな建物である。綾乃は、会社の地下にある駐車場にMAZDA6を入れた。

一階の受付で、会長への面会を申し出ると、難なく会長室に案内をされた。

秋場署長からの話が通っているようである。

「あなたが、加賀町署の成宮警部補ですか?秘匿捜査も面倒くさいものですね。

倉田刑事が顔を見せなくなってから、3カ月が経つというのに代わりの刑事も来ないのですから・・・。」 やはり、北村は、義を重んじる性格のようである。



 2   山下和樹との対決


「正直、倉田さんは、流石に優秀な刑事さんらしく慎重な捜査ぶりでしたよ。最初のまる1カ月間は、秘書として仕事を覚えるために時間を使うほどでしたからね。 社長の山下も、最初は喜んでいましたよ。私にいい話相手が出来たとね。しかし、3カ月目に入ったころ、山下の倉田さんに接する態度が変わったのです。まるで、敵意が丸出しとなってしまった」

「それは、山下社長に倉田刑事の本来の捜査目的が知られたと?」

「そうだと思いますよ。彼もしきりに内通者がいると言ってましたからね」

「倉田さんは、内通者の目星が付いたと言っていました?」

「それは、私には分かりません」


秘匿捜査であることから、署内でもごく限られた人間でしか知り得ない情報のはずである。署長の秋場は論外であるとしても、あとは、倉田の上司である警務課長であろうか?自分の職を賭してまで密告するとは思えない。そこには、何らかの利害が山下社長との間に存在しなければならないのである。


 残りは、一人しか思い当たらない。

「会長、山下社長には妹さんがいるのではありませんか?…」

「成宮さん、何を藪から棒に言うんのですか。確かに、いますがね・・」

「年齢は、私と同じくらいの40歳前後の?」

「今だと、そのくらいの歳になるのかな。20年前に森下で巡査をやっていたと聞いたことがあるからね」

「会長、たぶん内通者はその妹さんだと思われます。今、深川警察で署長秘書をしている……」

「う~ん、山下が、情報を取るために計算づくで妹を送り込んでいたとでも・・」

「偶然かも知れませんが、その立場を利用したことには代わりないでしょうね」

「成宮さん、あなたも随分大胆な推理をする方なのですね~。御見それしました」


「と、いう事は、もうすでに山下社長は、私の今日の目的を掴んでいるはずですから、無駄な時間の使い方はしたくはありません。これから、山下社長の任意の聴取に切り替えますけど、会長!許可を願えますよね」

「良いでしょう!真実を知るためなら大いに結構です。やって下さい」

「会長、最後にお聞きしますが、倉田さんが最後に残した言葉はありませんか?」

「・・・、確か横浜に行くと言っていたような・・・」

「なぜ、横浜なんですか?」

「奥さんの件のようだったが、詳しくは私にも分からない・・・」

「そうですか…、でも、足掛かりにはなりそうです。ありがとうございました。  では、社長は、何方に?」

「5階にいると思いますよ。隠れるような男ではありませんからね」

綾乃は、5階に降りると秘書と思われる女性に告げた。


「警察ですが、山下社長にお会いしたいのですが……」

秘書は、慌てた様子で社長室に消えると、落ち着いた男の声が聞こえて来た。

「どうぞ、お入り下さい」

山下社長は、40代後半、背の高い痩せ型の男であった。温和な印象ではない。

「これは珍しい、女性の刑事さんですか・・・、それも、お一人でね」

「ええ、私は腰の軽い女ですから」綾乃は名刺を差し出す。

「成宮刑事、尻が軽いの間違いでは?・・・」

「山下社長、あなたも下手な冗談がお好きらしいわね」

「いえいえ、私はいたって真面目な人間ですよ」

すでに、戦いは始まっていると言えた。


「これから私の話すことは、単にあなたとの雑談でないことを分かって下さい。

これは、任意聴取ですから答えたくないことは答えなくてもいいです。でも、結局はあなたには不利になってしまう可能性もあります。いいわね」

「良いでしょう。なんでもお答えしましょう」

「あなたは、すでに私が今日ここに来ることを予め知っていた…。違うかしら?…」

「驚きましたね。これは、yesですかね」

「正直でいいわ。それなら、知っていた理由はあえて聞かないでおくから、その人によろしく伝えて下さい」

「優しいんですね。私は、あなたを見くびっていたようだ・・」

「誉め言葉なんていらない。真実を話して欲しの…」

「それで、何を知りたいのですか?」

「半年前のこと…。倉田圭吾さんが、会長の秘書として入社したことは、事実として認めるわね。そして、3カ月ほど前に突然姿を消すことになった…」

「確かに、会長が倉田の居所を知らないかと、聞いて来たことは覚えていますがね」

「はっきり言うわ。あなたは、倉田の真の目的を知っていたわけね!?」

「・・・、刑事さん、あなたはどこまで知っているんですか?」

「ほんとうのことを言って!」

「ああ、知っていましたよ。倉田は会長に頼まれて、このレオが反社や政治家とつるんで、甘い汁を吸っているという謂れのない噂話を打ち消してくれるためだったそうですよ。結局、噂話は噂話に過ぎず、安心して戻って行ったと聞いていましたが、」

「いい加減なこと言わないで! 彼の目的は、この会社が犯罪に手を染めている証拠を見つけるためだった。彼が、姿を消したのは、あなた達の罠に落ちたからだと思う。違っているかしら?」

「刑事さん、私が紳士的に応対しているのにかかわらず、随分決めつけた言い方をしてくれるじゃないですか? 刑事だからって、人を侮辱していいとは限りませんよ。言った以上、覚悟をお持ちなのでしょうね?」

「あなたは、会長の言う『企業は誠実であれ』という言葉の意味を、もう一度考えてみたらいい。会長のいう理念と随分かけ離れた実態を持つガリバー会社になってしまっているわ。自分で動かしていると自負していても、すでにこの会社は、闇の中に巣食う巨悪の餌食になっていることを知るがいいわ」

これは、あえて相手を怒らせ実態に迫る捜査手法の一つであった。に

「もうお帰り下さい。あなたには、これ以上何もお話する必要はなさそうですな。充分に分かっていらっしゃるようですから・・・。」

「最後に、もう一つ良いかしら。この会社と横浜が何処で繋がるのかしら?」

「答える必要もない!今度来るときには、令状を持って来てください」

山下は、退出する綾乃の肩越しに、どこかに携帯で指示を出している。

「丁寧に、刑事さんをお送りしてやってくれ!」



 3 闇のなかへ



 案の定、綾乃が社長室を出ると、三人の男たちが待っていた。

「大丈夫よ。私一人で帰れるから…」

綾乃の声を無視するように、エレベーターのドアが閉まるのと同時に乗り込んで来た。綾乃は、三人の男達に囲まれるような形になった。身動きが取れない。

無言の脅迫であろうか、男たちの手は、綾乃に触らないように後ろ手に組まれている。綾乃は、この場所で男三人を相手に戦う段取りを考えていたが、さすがにこの狭い空間では勝ち目などないことを瞬時に判断していた。

男達の生臭い息が首筋に掛かる。ドアが開くと何事もなく解放された形となった。

「刑事さん、社長からの伝言です」中の一人が言った

「何かしら?」

「無事に、お帰り下さい、とのことでした」

「そう、ご親切にありがとう…」

本気で言っているはずもない。明らかな脅迫なのであろう。

綾乃は、地下から地上に出ると急激な空腹を覚えた。

しかし、空腹を満たすより見知らぬ土地を離れ、横浜に戻りたい気持ちが勝っていたのである。


 箱崎ICから首都高速に乗ると、羽田線を通るコースを取ることにした。渋滞に巻き込まれなければ1時間以内で帰れるはずである。

綾乃は、朝倉の容態も気になった。自分は、朝倉の何を知ろうとしているのか自問は尽きないのである。ある意味過酷な一日であったといえよう。朝倉に、妻がいると知った今でも一つだけ言えることは、朝倉を『愛している…』という事実であった。


順調に走っていたはずであるが、気が付くと、芝浦JCT手前で二台のベンツに前後を挟まれる形となっていた。スピードを上げて逃げることも、ICから降りることも出来ないのだ。諦めて導かれるままに走ると、いつしかコースを離れレインボーブリッジを渡っていた。案の定、『無事に、お帰り下さい』の言葉が皮肉に聞こえてくる。 従うしか道はなさそうである。無駄に抵抗をして、車を失う可能性も捨てきれなかったのであった。映画のカーチェイスのようにはいかないのが、現実である。


行きつく場所が想像できない。三台の車は、闇に引きずり込まれるように、葬列を作りながら走り続けていた。



第五章へ続く



 *『craft pasta Torino』は、江東区冬木に実在する『イタリアンバル』です。深川不動堂や富岡八幡宮にほど近く、門前仲町に来られた際に周辺を散策されるのも、物語にリアリティを感じられる楽しみの一つになるかも知れません。

また、ストリートビューなどの活用も面白いと思います。













 


 





 





 

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