4 夏の終わり
第20話
実に晴れ晴れとした気分であたしは補習授業に向かった。外の天気は残念ながら恵みすぎるほどの大雨だけど。
近所の雑貨屋で新しく買った傘をばさっと広げる。目の前には鈍色の空とは対照的な明るいブルー。それを差していると夏の青空が頭上に広がっているような気分で、傘に描かれた白い花がまるで雲のよう。先輩がよくカメラを向けている空みたいだ。
先輩は今日も登校しているだろうか。ピアノを弾いていたらひょっこりと現れたりして。そんな淡い期待を抱き、あたしは補習授業に集中出来ずにいる。英語のリスニング用音声が子守唄に聞こえてきて、かくんと夢の世界へ何度か落ちそうになった。
授業が終わった後、梨沙子が右隣から人差し指であたしの二の腕をつつく。むにっ、という指が食い込む感触で振り向くと梨沙子は「寝てたでしょー」と言ってきた。そんなことはない、危なくはあったけど。
「今日もピアノ弾きに行くの?」
「うん。秋にコンクールあるからねえ。家じゃ練習出来ないし」
「家にピアノないの? ピアノ習ってる子ってもれなく家にピアノがあるもんだと」
「あるにはあるけど、一台しかないから。うち、ピアノ権は妹にあるんだよね。妹の方がピアノ上手だから」
梨沙子の顔に分かりやすくはてなマークが浮かぶ。交代で使えばいいのに、とか、お姉ちゃんなのに、とかそういうことを含む顔だ。こういう顔は何度も見ているから知っている。そんなことを考えていたら、梨沙子はあたしの思考をなぞるように口を動かした。
「妹より上手くなってやるとか、梅にはそういうのないの?」
──そりゃあ昔は思っていたけど、小夜にはどうあがいたって敵わない。
実力の差というやつと、目指すものの違いを痛いほど感じてしまってから、あたしにはあのピアノを弾く権利などないと思っている。別にあたしがコンクールで失敗しようと、誰も何も困らないのだから。あたしが「あの子下手だなあ」とでも言われるくらいだ。
小夜はずっと先を見ていて走っている。それに対してあたしは曲がりくねった道を寄り道しながら散歩しているだけ。どちらが優先されるかというのは、一目瞭然。あたしには走り続ける力はないし。
「もっと頑張ったらいいのに」
「あはは……梨沙子の言う通りだ。あーあ、あたしの指がピアノと大親友だったらなあ。あ、それか飲んだら天才ピアニストになる薬とかないかな」
「そんなのあったら苦労しないわー。梅って面白いね」
梨沙子は弁当箱の蓋を開けていつものように笑っている。あたしは内心穏やかではなく、玉子焼きをつついている気分でもない。
ああ、桜田先輩に会いたくなってきた。あの柔らかい黒髪が揺れるのを眺めながら癒されたい。
「あっ、そうだー。そういえばさあ、桜田先輩の噂を先輩から聞いたんだけど」
梨沙子が突然そんなことを口にしたので、梨沙子は本当にあたしの思考を覗き込んでいるのではないかとヒヤッとする。飲んでいたお茶が気道へ入ってしまい、あたしは鼻水を噴射しながら咳き込んだ。汚いなあ、と梨沙子が鞄からティッシュを取り出してくれる。
──ああ、びっくりした。
「んー、あんまりあの人関わらない方がいいかも。いろいろ噂ありすぎて、やばい」
「例えば?」
「えーっとね、あの人レズで後輩のこと食い散らかしたりとか、伊藤先輩と付き合ってたりとか、実は化学のアキラくんとできてるとか」
「伊藤先輩って、あの生徒会長で、宝塚の男役みたいな人? へえ……。んで、レズなのにアキラくんとできてるの?」
アキラくんとは化学の男性教師、
──その辺り矛盾が生じてない?
「どこまで本当か分からないけどね。あと、えげつないいじめで同級生を自殺させたとか、退学に追いやったとか、二回りくらい年上の彼氏がいるとか、あと……梅のことも遊ぼうとしてるとか……」
──噂がありすぎてよく分からなくなってきた。
梨沙子は他にいろいろと先輩の噂を教えてくれたけど、子ども用洗面器くらいの容量のあたしの頭では、全部覚えられなかった。しかもそのうちの噂は絶対に嘘が生じる。
だって女の子が好きなのに男の先生とできてたり、二回り以上年上の彼氏がいるっていうのも整合性がないし。先輩が両方いける人ってことであれば話は別だけど。
伊藤先輩と付き合っているというのはなんだか信憑性がある。ふたりが並んでいるのを想像すると宝塚の男役と娘役みたい。
他の生徒をいじめて自殺や退学に追い込んだ、というのも信じがたい。少なくともあたしに接している先輩は、春のひだまりみたいな微笑み方をするし、そういう人に見えない。というより、いじめどころかそもそも人に積極的に関わるようなタイプでもない。いい意味でも悪い意味でも。
あと、あたしで遊ぼうとしているというのも嘘だろう。それなら早々にあたしはどうにかなっているはずだ。現時点ではあたしがひとりで妄想を拗らせているだけだ。
今のところすんなり信じられるというか、そうであってほしいのは桜田先輩が女の子を好きだということ。それはつまり、あたしへの可能性をほのめかせていることになる。先輩があたしのことを好きでないにしても、だ。
しかしどれを信じて、どれを疑えばいいのか分からない。ひとつ信じれば他の噂が嘘になるし、逆も然りだ。
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