第18話

 お母さんが食事の支度を始めたので、あたしもそれを手伝う。透明なお湯の中にだしの素を少々。それから大根と薄揚げを入れてぐ香りが食欲を刺激する。


「ねえ、梅。央ちゃんと喧嘩でもしたの?」


 お母さんはきゅうりを手際よく切りながら、突然そんなことを言ってきた。央ちゃんという名前を聞いた瞬間に、おたまから手を離してしまった。あの日以降央ちゃんとは顔を合わせるどころか、電話でもメールでも話が出来ていない。

 というより、どうしてお母さんからそんなことを訊かれるんだろう。もしかしてあの日見てたとか?


「野良さんがね、最近央ちゃんの元気がないんだって話してたの。央ちゃんの元気がなくなるのは部活でなにかあったときか、梅ちゃんと喧嘩したときくらいだからって」


 そう。央ちゃんは感情の起伏が比較的緩やかな方で、すごく落ち込んだりだとか、底抜けに喜んだりということがない。嬉しくても控えめ、悲しくても控えめ。央ちゃんが目に見えて元気をなくすのは年に片手で数えるくらいなものだ。


「し、知らない……」

「そっかあ……心配よね。梅、央ちゃんのこと慰めに行ってあげなよ」

「う、うん。後でメールでもしとこう……かな?」


 ──原因は間違いなくあたしなんだけど。


 年に二回くらいあたしと央ちゃんは喧嘩をする。それは些細な言い合いとかで、央ちゃんのひと言にあたしがカチンときて強く言い返す。もしくはその逆もある。

 当然だけど、喧嘩をするとお互いに落ち込む。央ちゃんはましてその落ち込み方が半端ない。小学校三年生くらいまでは、「梅と喧嘩しちゃったよう」なんて、野良のおばちゃんに泣きついていたらしい。


 央ちゃんは基本的にビビリなので謝るのにも結構な勇気がいるらしいけど、それに対してあたしは寝れば八割くらいは忘れてしまうので、次の日の朝は何事もなかったかのように央ちゃんに話しかけ、なんとなく仲直りしてしまう。


 が、今回ばかりはそうもいかない。昔よりは会う頻度も少ないし、何よりあたしが寝れば忘れられる魔法を失いつつあるから。央ちゃんの電話を通した『きもー』は少し時間が経った今でもはっきりと再生されてしまう。あたしはあたしをキモいと思わないようにしているけど、思い出すとやっぱりきつい。


 とはいえ、お母さんからそんな話を聞いてしまった以上は……。思い起こせば、一方的にバカと怒鳴りつけたのはあたしの方だ。


「央ちゃん、なんだかんだで梅のこと大好きだもんねえ」

「うーん、幼馴染だからね。あたしだって央ちゃんのこと大好きだけどさあ……」


 ──だけどなあ。


 あたしはテーブルに料理を並べて、夕食の準備をする。小夜に声をかけると不機嫌そうに返事を寄越した。


 お父さんは仕事で遅くなるらしく、三人で食卓を囲む。あたしが作った味噌汁は完璧な味つけ。そしてお母さんが作ったきゅうりのごま塩サラダが夏の疲れた身体に染みる。このごま油と塩の加減が絶妙なバランスを保っていて、何度教えてもらってもあたしはこの味を再現出来ずにいる。

 うまっ、と漏らすとお母さんは「おいしい、でしょ」と言いながら頬を膨らます。お母さんは言葉づかいに厳しい。


「お姉ちゃん、遅かったんだね。そんなに補習受けないとやばいの?」

「ううん。音楽室でピアノ弾いてきたから」

「……別に練習しなくたっていいんじゃない? 出るの、秋のコンクールだけでしょ」


 小夜の無意識な嫌味が刺さる。確かに小さなコンクールなら、小夜だったら大して練習しなくてもいいかもしれない。でもあたしは練習をそれなりにする必要があるわけで、家では小夜がピアノを独占してるからどこか別の場所で弾かないといけない。


 ──なんてことは勿論言えない。あたしの方がピアノも下手だし、努力の才能もないことはよくよく分かっている。所詮は能力が高い方の言うことが正しいんだ、残念ながら。


 どうして上だとか下だとか、そういうものができてしまって、下はいろいろと抑えこんで生きていかないといけないんだろう。

 お母さんがちらりとあたしの方を見た。小夜を注意しなくちゃいけない、というような雰囲気を察したのであたしは先に口を開いた。


「一応コンクールだもん。それに、グランドピアノなんて音楽室でしか弾けないから弾きたくて。うちがベルサイユ宮殿だったらさ、お母さんはグランドピアノくらい買ってくれたんだろうけどねえ、うちは3LDKのマンションだしなあ」


 お母さんはあたしのパスをしっかりと受け取ってくれた。やだあ、と言いながらけらけらと笑っている。小夜も「ベルサイユ宮殿って」と言いながら口元を歪ませた。

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