第6話
梅雨がやっと通り過ぎようとした頃、桜田先輩は第二音楽室にいつものカメラと一緒にやって来た。今日は機嫌が悪いのか、この前みたいな笑顔はなくて平行眉も動くことなくまっすぐなまま。一度あの笑顔を見てしまうと、あたしに対して少し心を許してくれたのかと思っていたけど、そうでもなかったようだ。
──梅は勢いがあるからさあ、引かれてるんじゃないかって心配で。
ふっと央ちゃんの言葉がよみがえる。桜田先輩はあたしに引いているのかもしれない。そうだとしたら、悪いことした。
「遅くなってごめんね。この前の写真、現像できたの」
「わあ、ありがとうございます」
そこには思っていたよりも多い枚数の写真があった。いつの間にそれだけシャッターを切っていたんだろうか、せいぜい五枚くらいかと思っていたけど、先輩は十枚以上の写真を渡してきた。
同じような写真に見えるけど、細かい表情とか動きとかが微妙に違う。こんな細かいものを桜田先輩はひとつひとつ切り取って、こうやって形にしてくれたのかと思うと、やっぱり引いてなんかいないんじゃないかっておめでたい思考が生まれてくる。
「それでね、コンクールにはこの写真を出そうと思うの」
先輩は一枚の写真を指差す。これは確か、『気分が上がりすぎたジャズピアニストものまね』をしたときのものだ。口を思い切り開けて左右に首を振り、髪の毛が掃除用のハタキみたいに広がって、写真を見るだけであのときに弾いた曲が頭の中に流れてくる。しかしあれだけ動いたのにブレていないなんて、桜田先輩はすごい人だ。
「これが一番素敵かなって。躍動感もあるし」
桜田先輩はふざけてそういうことを言っているようには見えない。柔らかそうな平行眉はあまり動かないし、口元だって緩むこともない。この人はマジだ。
桜田先輩は三年生だから、高校生活最後のコンクールになる。そんな大事なものにあたしなんかの写真でいいのかとも思うし、桜田先輩がいいと思って選んだものならいけそうな気もする。
「へへ、じゃあコンクール頑張ってくださいね」
「うん、ありがとう。高校生活の集大成に相応しい写真だって自信がある。ええと……」
桜田先輩は話しながら口元に人差し指を当てた。先輩の人差し指は少し骨が目立つけど長くて真っ白で、小鳥の足みたい。柔らかそうな唇に触れるその様は小鳥が赤い花で羽を休めているよう。
──って、あたし我ながらキモいな。
それはさておき、目の前の桜田先輩は気まずそうな様子だ。先輩は多分そんな言葉遣いしないと思うけど、「ヤッベ」って顔に書いてある。
「……えーと、写真を撮っておいて今更申し訳ないんだけど……あの、名前を聞いてもいいかな」
──確かに今更だ。あたし、自己紹介もせずにものまねなんて披露したのか。
申し訳ないのはあたしの方だ。あたしは梨沙子から先輩の名前を聞いていたから知っていたけど、先輩はあたしのことなんて知る由もない。
「えーと、中林梅っていいます。梅は梅干しの梅」
「梅ちゃん、って変わった名前だね。可愛い」
「そうですか? うちのお母さんがあたしを妊娠中に梅干しばかり食べてて、『梅干しちゃん』ってあだ名をつけてたから、ってのが名前の由来ですよ。なんかもうちょっとひねってほしいですよねえ」
もっと綺麗な理由があったら素敵だったのに。この話をお母さんから聞いたときはがっかりしたものだ。
ちなみにお姉ちゃんは、妊娠中に赤ちゃんって呼んでたから赤という漢字を入れた赤絵(あかえ)という名前だし、妹の小夜はお母さんが産気づく前にサザエさんを見ていたら波平さんが『さよう』って言ったのが頭に残っていたから、だ。中林家の三姉妹の名前の由来は、どれもいかれている。
その話をしたら桜田先輩は一気に破顔する。やっぱりこの人は笑いのツボが浅い。ごめんね、と言いながらも目の下を指で押さえている。そのぷっくりした涙袋にはまだ笑いを溜め込んでいそうなので、もうこの際遠慮なく
「ふふ、名前の由来があるって素敵だよ」
「桜田先輩はないんですか? ひばりさんなんて、変わった名前だし由来がありそう」
「うーん、私の場合は……母親が入院中にヒバリの鳴き声が聞こえて、ひばりにしようって思ったんだって。面白くもないよ」
「名前の由来に面白さっていらないですよお」
梅干しを食べまくっていたから梅、と、ヒバリの鳴き声が聞こえたからひばり、では美しさが違う。せめて梅の花が綺麗だったから梅、とだったらいいのに。いや、あたしは夏生まれだから梅の花なんてあまり関係なかった。
「じゃあ、この写真をコンクールに出させてもらうね。ありがとう。写真は全部あげる」
桜田先輩は先ほど音楽室に入ってきたときと同じ顔になり、写真を封筒に入れるとあたしに差し出す。この封筒を受け取ったら桜田先輩はこのまま音楽室を出ていってしまうことがはっきり分かると、写真を受け取りたくなかった。
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