Ⅵ.泡沫の恋愛抒情詩(ナスィーブ)
迫りくる別れ
アル・シャンマールの煌びやかな王都・ハイヤート。つい先日までは、新たな王と王妃の誕生に街中が浮足立っていた。けれども現在は、打って変わった静寂が訪れていた。美しく磨かれた王宮の金細工の門も、規則正しく並ぶ優美な柱にも、どこか暗い影が落ちていた。
ザイドは、その一室で気もそぞろに立ったり座ったりを繰り返していた。艶やかな口元に、いつもの余裕はない。憂いを帯びた目の下には、ひと際濃い隈がこしらえられていた。褐色の肌は心做しか土気色に近い。うなじにかかる直ぐな黒髪は、色艶を失っていた。誰がどう見ても、彼がまともに休めていないのは明らかだった。
その隣には、ベッドに横たわるプラチナブロンドの少女がいた。瞼は閉じられ、開く気配はまるでない。薄い唇はすっかり血色を失っている。それでもかろうじて呼吸をしているのが、せめてもの救いだった。
「いつ目覚めるんだ? ……どうして目覚めない?」
自問自答のような独り言に答えてくれる者は、誰もいない。彼の苦し気な声は、虚しく室内に響いただけだった。何の気なしに天を仰ぐと、天井に彫られたレリーフと目が合う。星と花が幾重にも重なった壮麗さも、今は何の慰めにもならなかった。
「……俺と出会ってから、あなたは不幸なばかりだな。」
彼女が目を覚ましたら、何と答えてくれるのだろう。きっと「まったくその通りだ」と頷いて、青緑の釣りがちな目でこちらを睨んできたに違いない。そんなことまで妄想している自らに気付くと、ザイドは自嘲するように唇を歪めた。
「全て、俺の甘さが招いたことだ。あなたを利用してやる、などと……初めから間違っていた。自由を与えるなどと大口を叩いた結果……やつらに付け入る隙を与えてしまった。全部、俺の落ち度だ。」
彼が詫びた次の瞬間にでも、その瞼が開くのではないか。淡い期待を胸に見守ったところで、白金の睫毛は一本たりとも動く気配が無い。らしくない弱音を吐いても、つんと口を尖らせた彼女に応戦されることはないのだと悟る。
「姫君がもし目覚めなかったらと思うと……気が狂いそうだ。あなたを守りきれなかった自分にも腹が立つ。もしかすると……俺は」
独り言でありながらも、その先のことを口にするべきか躊躇する。言葉にすればその通りになってしまいそうで、思いあぐねる。いつしか、もう何度目になるかもわからない深いため息が出ていた。ザイドがおもむろに彼女の手を取ると、ひやりと冷たい感触が伝わった。これ以上、熱が失われてはいけない。そんな固い決意を込めて、自らの体温を分け与えるように強く握りしめる。褐色の手のひらに収まる白い手は、だらりと力なくこちらへ重みを預けてきた。
「だからせめて償わせてくれ。俺のことは好きなだけ罵ってくれて構わない。だから……頼むから目を開けてくれ、シエナ。」
あの時を思い出す度に、身体中を掻きむしりたくなるような自責の念に苛まれる。確かに、直前まで手を伸ばせば届く距離にいた。にも関わらず、そばを離れたのは他ならぬ自分なのだ。そう思うと、彼は見通しの甘かった己に腹が立って仕方なかった。
無我夢中で花瓶を投げつけた瞬間、舞い散った赤い花。そして、セシルが凶器をとり落としたのもつかの間。シエナに突きつけられたナイフを見て、頭が真っ白になった。今にも彼女が切り裂かれんとした刹那。ザイドはもがくように駆け寄ったものの、伸ばした手は虚しく空を掴んだだけだった。
幸い、ひと足早く近づいていたリュシアンが、セシルのナイフを持つ手をひねりあげ、床へと押さえつけた。解放されたシエナは、若き王へと託された。投げ出されるように支えを失った彼女の身体は、今にも床に崩れ落ちようとしていた。
『おい、聞こえるか? 目を開けろ。しっかりしろ! シエナ! シエナ!』
すんでのところで受け止めると、ずっしりとした重みが両腕に加わった。無我夢中で呼びかけてもまるで反応せず、彼女は人形のようにぐったりとしていた。赤いドレスの首元は無残に裂け、破れたレースの間から白い喉が見えた。そこにつう、と流れる血の雫を見るやいなや、さっと血の気が引いた。
『ゼフラはどこだ! 何をしている、早く呼んでこい!』
動揺のあまり狂ったように叫んでいると、リュシアンが取り押さえている青年と目が合った。ぐしゃぐしゃになり、どこからどこまでが癖毛なのかもわからなくなったダークブロンド。日に焼けて赤くなり、煤に汚れた肌。その顔を見ただけで、一瞬で全身の血が沸騰した。いつのまにか、ザイドは躊躇いなく腰の剣を引き抜いていた。
『―お前!』
『……イド! だめだ……今は、抑えて―』
背後でアイシャの止める声が聞こえたような気もしたが、彼には届かなかった。すぐにでもこの男の息の根を止めてやりたい。衝動に突き動かされるがままに、三日月のような剣を振り上げる。セシル・オルコット―その正体は、シエナの教育係でありながら、彼女を殺そうとした外道だ。この能天気で人の良さそうな童顔が、血溜まりの中でもがくのを見たら、少しは溜飲が下りるだろうか。
『……!』
柄を握る指に渾身の力を込め、力任せに空を切る。剣を下ろす直前、セシルと目が合った。大きな空色の瞳は虚ろで、諦めにも似た悟りが滲んでいた。その一瞬で、剣筋に迷いが生じた。頭の片隅に残った理性が、この場で彼を殺したところで何にも益はないと言っている。ここは剣を収め、彼を捕らえてすべてを明らかにした方が賢明だ、とも。
『……っ!』
辺りに響いたのは、肉を断つ音ではなかった。金属のぶつかるガキン、という鈍い音が耳を劈く。ザイドの下ろした刃の衝撃を受けたのは、敵の落とした筒型の武器だった。彼は、冷えきった眼差しを歪んだ筒へ向けた。深い青の目は、剣を振るってもなお有り余る憎悪に漲っていた。
『……勘違いするな。お前たちのことはいつでも殺せる。今は、姫君を救うのが先決なだけだ。』
意識して剣を収めようとしなければ、またしても頭上高く振り上げてしまいそうだった。彼は矢継ぎ早に二人の捕縛とシエナの救護を命じた。とにかく、今は一刻も早くその場を離れたかった。
それからというものの、彼の脳内で絶えず繰り返されていたのは、悔恨だった。カティーフで騎士団長に剣を向けられた時も今回も、自身が傍にいなかったせいでシエナが狙われた。ならば、ほんの少し目を離した隙に彼女が死んでしまうのではなかろうか。そんな突飛な強迫観念は、彼をシエナの傍へと駆り立てた。
(俺に覚悟はあったのか? 何を犠牲にしてでも彼女を守り抜くという―)
頭に浮かぶのは、騎士たることも捨て、卑劣な武器を手にすることも厭わなかった騎士リュシアンの姿だった。果たして、自分には己の志をかなぐり捨てられるほどの覚悟はあっただろうか。結果的にその場を収めたにもかかわらず、ザイドはえも言えぬ不甲斐なさを感じていた。
「……ザイド。いるか?」
そうこうしていると、部屋の外から野太い声が飛んできた。確かめなくてもわかる。返事をする気も起きずに俯いていると、突如扉が開いた。
「いるんだろ? 悪いが、入らせてもらうぜ。」
ずかずかと入ってきたのは、第二の父親とも言える大男ラジャブだった。彼は鼻先の丸い鷲鼻をくしゃりと歪め、困ったような笑みを浮かべていた。
「……んと、調子はどうだあ? なんて言うのもおかしいか。随分とこっちに入り浸ってるようだが、その……大丈夫なのか?」
豪傑は筋骨隆々とした腕を組み、アッシュグレイの髭を所在なさげに引っ張っている。明らかに気を遣われているようだ。この男は思っていることがすぐ顔に出るのが玉に瑕だ。少々の居心地の悪さを感じながらも、若き王は努めて冷静に返した。
「見ての通りだ。ゼフラが言うには、傷は浅いから身体に異常はない。目を覚まさないのは精神的な理由かもしれない、と。」
「ああ、そうか。……うん、そうだな。いや、俺が言いたいのはだな……。って、おいおい。お前さん、ひでえ面じゃねえか。ちゃんと寝てんのか? 」
「……。」
ラジャブはオリーブ色の小さな目をこちらへと向けた途端、大きな顔をしかめた。
「……俺のことはどうでもいいだろ。」
シエナが息をしているのをそばで確かめなければ、気が済まない。そんな答えでは心配されるに決まっているので、いささか投げやりになる。すると大男は眉間に皺を寄せ、いかつい肩をすくめてみせた。
「んなこたねえだろ。おひいさんが心配なのもわかるが、何もお前さんがここにずっといる必要はねえんだ。ここはどーんとゼフラに任せて―」
ラジャブの言っていることは正しいと、ザイドも頭ではわかっている。だが、平静さを失った彼は、苛立ちをぶつけるように拳を床へ叩きつけた。
「―俺が近くにいないせいだったんだ!」
悲痛な叫びは、張りつめた空気をびりびりと震わせる。節くれだった指に鈍い痛みが走るのも、構わなかった。彼の瞳は、嵐で荒れ狂う海のように激しく揺れていた。
「俺のせいで……姫君を危険な目に遭わせた。あの時も今もだ。あれほど近くにいながら俺は……何も出来なかった。……あの騎士のほうがよほど、彼女を守っていた。」
ラジャブは面食らったように小さな目をぱちくりさせたが、やがて静かに口を開いた。
「お前さんのせいだと? 馬鹿野郎、そりゃ背負い過ぎってもんだ。お前さんは神でも何でもねえ。おひいさんのことは、しょうがねえで終わることじゃねえのはわかってるよ。けど、うじうじ過去を考えるより、未来であの子のためになること考えればいいだろ。違うか?」
「……。」
言葉を失う。これから、シエナにできること―ふと彼の頭をよぎったのは、ハイヤートへ向かう途中で交わした、彼女との会話だった。
『姫君にとっての正義とは何だ? これだけは譲れない、大切にしたい望みでもいい。』
『私の、正義……望み? 私は……しがらみのない場所に行きたいわ。誰かに利用されるのはもううんざりなの。……だから、そうね。まずは、この人質生活から早く自由になりたいものだわ。』
その望みを叶えるためには、と逡巡する。自分の傍に居ても、危険が付きまとう。ならば、どこか安全な場所へ彼女を逃がすべきだろう。
「……そうか。そうだよな。わかっている。……すまない、ラジャブ。」
例えもう二度と会えなくなるとしても、シエナから離れるべきだ。その単純明快な答えは、初めから用意されていたようにすとんと腑に落ちた。けれども何故か、彼の胸の奥はざわついた。あれほど情を抱かぬようにしていた。にも関わらず、彼女の傍にいなければと思うのは、同情か、あるいは義務感か。そこまで考えたところで、ザイドはかぶりを振った。己の感情に目を向ける必要は無い。この国を守るための決定に、私情はいらないのだから。
「……って。おいおい、何だよ思いつめた顔して。ほんとお前さん、どうかしちまったみてえだぜ? ……あー、いや。うん、そりゃあそうだよな。お前さんが落ち込む気持ちも分かる。俺も昔、かみさんと別れた時は、そりゃあこの世の終わりみてえに思ったもんだ。……ええと。まあ、今はんな昔話はどうでもよくってだな。あー、なんて言ったらいいのか……。」
「……?」
ラジャブの口数が多いのはいつもの事だが、今日は何かを隠しているかのようにわざとらしい。つぶらな瞳はあちこちへせわしなく動いている。もしや、と思い当たる。この部屋には人払いをしていたが、にも関わらず来たということは、ただ単に説教を垂れにきただけではなさそうだ。
「ああ、悪い。何か用があって来たのだろう?」
「……あー。んーと、こんな時に言うべきかも迷うんだが……。」
「構わない、言ってくれ。」
そこまで口にして、ようやく覚悟が決まったのだろう。大男はぎゅっと分厚い唇を引き結んだ後、きまり悪そうに続けた。
「……言いにくいんだけどよ。親父さんが、危篤らしいんだ。もしかすると、今夜が峠かもしれねえってよ。おひいさんのことが気になるのもやまやまだが……今は、親父さんの傍に付いててやってくれねえか?」
「―父上が?!」
途端に、脳天を貫かれような衝撃が走った。おぼつかない足取りで、彼はふらふらと立ち上がる。
「……すまんな。なかなか言い出せなくってよ。一人で行けそうか?」
「危篤、だと……? そんなに悪いのか……? まさか、式で何かあったのか?」
「ひとつ言っとくが、おひいさんの件とは全く関係のねえことだ。そこだけは勘違いすんじゃねえぞ? それにお前さんのせいでもねえ。……早く、行ってやってくれ。」
「―っ!」
ザイドははっと息を吞んだ。大男の真剣な面持ちを見れば、冗談でないのは明らかだった。彼は勢いよく扉を開けると、わき目もふらずに走り出していた。
父王の身体の調子が悪いのも、いつ病状が悪化してもおかしくないというのも理解はしていた。それでもいざ目の当たりにすると、彼の心臓はぎゅっと縮み上がった。
疾走に合わせてガチャガチャと鳴る剣も、足に当たる鞘も忌々しい。息が弾む。喉の奥までひきつれる痛みに耐え、等間隔で並ぶ柱の角を曲がる。噴水のある回廊を抜け、すれ違う者たちに目もくれず、ひたすら駆け続ける。
そうして、彼は見慣れた部屋の前へたどり着いた。幾度も対面した父の部屋に入るのがもどかしくもあり、ひどく恐ろしかった。
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