謎に包まれた令嬢

 彼らが王の間を出るや否や、指先からつま先まで張り巡らされていた緊張の糸がぷつりと切れた。許されるのなら、今すぐにでもその場に倒れ込みたい誘惑に駆られる。岩のように凝り固まった肩には、どっと疲労感が押し寄せてきた。


「はあ~……。何とか無事に生きてますね~……。よ、良かったあ~……。」


 砂漠を旅した時でも、これほどまでに疲労困憊しただろうか。よろめいたセシルが壁に寄りかかると、緊張の解けたリュシアンも青ざめた額に光る汗を拭った。


「ああ……何とか、な。」

「もう、あんな風に陛下に突っかかるなんて聞いてませんでしたよ~! 本当に、本当に、冷や冷やしたんですからね?!」


 今しがたまでの針のむしろから一転すると、童顔の青年の膨れ顔は小動物が怒っているようでいまいち迫力がない。対する騎士は、これから待ち受ける困難を思うと気もそぞろに腕を組んでいた。


「しかし、これから……どうするか」


 謁見の間に入る前後で何が変わったかと言えば、最初の目的であるシエナ奪還に加え、「次期アル・シャンマール王の暗殺」という新たな重荷を背負わされたことであった。シエナの生存を王に認めさせたのは大きな収穫だが、かえってややこしいことになってしまった。


「陛下の仰っていた物資は、後日僕の家まで届くようですが……ブラッドリー卿はどうされますか? せっかく王都へ戻ってきたんですし、お家に帰られても―」

「いや、結構だ。ブラッドリー領は王都から遠いのもあるが……今は、時間が惜しい。一刻も早く、次の作戦を立てねば。」 


 それに、と彼は苦々しく嘆息した。兄は任務に失敗し、弟は無謀とも言える任務に付いたと知れば、体裁を気にするブラッドリー家の両親は何と言うだろうか。今はひとまず、便りがないのは良い便りということにして、顔を合わせるのは落ち着いてからにしておきたい。

 リュシアンの精悍な顔が苦虫を嚙み潰したようになっているのを見て、セシルはふと思いついたように手を打った。


「それもそうですね。では、僕は王立図書館で何か役に立つ書物は無いか調べてみます。幸いにも以前、教育係として入室許可は貰ってますので。ブラッドリー卿は、先に僕の家で休んでいてくださいね~。それでは、また後ほど!」


 新たな知識を吸収できるのがよほど嬉しいのか、セシルは返事も聞かずに一方的にまくし立てると、慌ただしくその場から去って行ってしまった。


 一人残されたリュシアンは、ゆっくりと謁見の間を振り返った。途端に目に飛び込んできたのは、アレスの国章が刻まれたタペストリーである。赤薔薇を背にした獅子は、彼を鼓舞しているのだろうか。あるいは、威嚇しているのだろうか。その答えがわかるのは、きっとすべてが終わった時に違いない。


 謁見の間から続く回廊は、延々と続くかと思われるほど長かった。相変わらず趣味を疑う金色の壁に、重々しいシャンデリアが眩いばかりの輝きを放っている。廊下の上方に点々と飾られているのは、歴代の王の肖像画と思しき絵画だろうか。ぱっと見、どこが違うのかと首をかしげたくなるほど、似たような風貌の男たちが並んでいる。白の毛皮に金の王冠を戴いた歴代の王たち。その険しい目は、総じて野心にぎらついていた。


(「アル・シャンマールの若き王を殺せ」、か―。)


 そのまま、彼は無意識のうちに下された命令を反芻していた。無数の目に見つめられていると、先刻までの居心地の悪さが蘇ってくるようだ。

 改めて考えてみると、そのような重要な使命をたった一人の騎士に下すなど、およそ正気の沙汰とは思えない。それでも、この国の最高権力者の前では疑いを持つことすら許されなかった。


(姫様も、ご自分のお父上である陛下のことを恐れられていた。陛下に従ってご結婚されることも、大層嫌がっておられるように見えた……。)


 シエナが自身を捨て駒だと揶揄したように、皮肉にもその護衛騎士もまた、同じ「王の捨て駒」になろうとしているのではなかろうか。ふつふつと沸き起こる疑念は、彼の強い意志をもってしても打ち消すことはできそうになかった。

 加えて、彼の気がかりは他にもあった。王の口から「シエナを寄越す」と言われたところで、彼女本人の意志はないがしろで、手放しに喜べるはずがない。


(仮に、陛下のご命令通りに、蛮族を殺し姫様を救えたとして―婚姻の相手が俺と知られたら、どうなるか……。)


 忠実なる騎士は、主君と結ばれることに対して後ろめたさすら感じていた。あの場では頷くほかなかったものの、任務を達成できたその時にはシエナを自由にしよう、とリュシアンは心に決めていたのだった。


(いや、考えていても仕方がない。まずは、万全の準備を整えなくては)

 

 鳶色の短髪をかき上げる。傷だらけになった手のひらには、まだうっすらと剣で切り裂かれた跡が残っていた。指先でなぞると疼く傷跡も、異国に一人取り残されたあるじを思えば痛くもかゆくもない。肖像画を睨むように見上げたリュシアンは、再び歩き出そうとして、ふとこちらへ歩みを進める一組の男女の姿に気付いた。


 一人は貴族の令嬢だろうか。王宮では時折、貴族を集めた茶会や会議が催されているため、若い令嬢がいたとしても不思議はない。

 華奢な体躯に、幾つものフリルと刺繍で彩られた淡いピンクのドレスを纏っている。まるで妖精が花を纏ったような可憐さだ。あどけない顔立ちは、まだ少女と言っても差し支えないだろう。燦然と輝く金髪の巻き髪に、陶器のように白い肌に映える大きな碧眼。まるで愛らしい人形が命を吹き込まれて動いているようで、はっと惹きつけられる。

 リュシアンはここ数年王宮に出入りしていないことを差し置いても、貴族令嬢などまるで関心がなかった。にも関わらず、彼女を見た瞬間なぜかどきりと心臓が跳ね上がった。シエナと初めて会った時ともどこか違う、底知れぬ胸騒ぎを覚える。ありきたりな口説き文句ではないが、どこかで会ったことはなかろうか、と彼は立ち止まったまま瞬きを繰り返した。


 それから、彼の視線が令嬢の後ろに控えた男へ移った途端、目を疑った。可憐な乙女に付き従っていたのは、背が高く威圧感のある男。騎士団の白い制服に、見覚えのある鳶色の長髪を束ねている。恭しく顔を伏せていようとも、その男がよく見知った者なのは明らかだった。


「……兄上?」


 唖然とする。アルヴィンが王都に戻ったことは知っていたものの、ここで再会を果たすとは予想だにしていなかった。何より、騎士団長ともあろう者がなぜ貴族の令嬢の付き人をしているのだろうか。次から次へとひっきりなしに押し寄せる疑問に混乱を覚えながらも、彼の瞼には未だシエナへと剣を振りかざす兄の姿が焼き付いていた。あの釈然としない行動を思うと、どう声を掛けたものかと躊躇する。


 そのうちに、彼らはすぐ傍まで迫ってきていた。令嬢は長いまつ毛を伏せるようにさっと扇子で顔を隠したので、リュシアンは兄と対面する他なかった。


「……お久しぶりです。」


 そこで初めて、前方を見据えていた鋭い灰紫の目がこちらへ向いた。先程までの王の間とはまた違った類の凄味に圧されると、額に汗が浮かぶ。


「……貴様か。こんな所にいるとはな」


 冷徹な眼差しに厳しい声は、相変わらずと言ったところか。アルヴィンとの対峙はカティーフへの出撃以来だっただろうか。リュシアンははやる鼓動を落ち着けながら、鋭い一太刀を浴びせるように言い放った。


「カティーフでの一件……陛下から、お咎めがあったとか。」


 そして、素早く厳格な騎士団長の顔を盗み見る。相手の次の行動は、読めない。リュシアンは丸腰であるにも関わらず、剣を交えているような錯覚に陥っていた。

 しかしながら、アルヴィンは力強い眉ひとつ動かさなかった。こちらが卒倒しそうなほどの威圧を纏った男は、さほど動揺した素振りもなく、憮然と弟を一瞥しただけだった。


「……そうか」


 思わず、拍子抜けする。懲罰対象なら、もっときまり悪そうにしても良さそうなものを、この男からは悪気など微塵も伝わってこなかった。もしや、プライドの高さゆえ、己は悪くないと信じきっているのだろうか。リュシアンは普段と全く変わらぬ兄の態度に、すっかり当惑していた。


「……ご納得、されているのですか?」

「成果を得られなかったのは、私の失態だ。」


 対するアルヴィンは、淡々と何の感慨もなく答えた。元々感情を露わにする男ではないが、あまりにも変わり無さすぎることに恐怖すら覚える。


「では、先を急ぐので失礼する」


 これでは、聞きたかったことの半分も聞けていない。そして、伝えるべきこともまだ伝えられていない。リュシアンは慌てて遮るように一歩近づいた。


「……なんだ」


 視線を向けられただけで、目鼻の先に刃を突きつけられているかのよう。ピリつくような緊張感が走るや否や、ひやりと肝が冷える。だがその威圧を払うように、彼は負けじと真っ直ぐな目で見つめ返した。


「俺は再びアルシャンマールに行きます。姫様を救うため……そして、蛮族の王を暗殺するよう、王令を賜りました。」

「……そうか」


 それを聞いても、兄の表情は変わらなかった。険しい顔つきからは、何も読み取れない。重要な任務を弟に取られた悔しさも、令嬢の付き人をしている不本意も、何も。

 一度は同じ屋根の下で暮らしたにも関わらず、今のリュシアンには兄の考えが何一つわからなかった。年が離れているせいもあってか、他人のようによそよそしいのは今に始まったことでは無い。それでも、せめて他に言うことは無いのかともどかしくなる。


「兄上は……陛下のご命令を聞き違えたのですか?」


 あの時、確かにアルヴィンから「シエナを殺せと」いう命令を受けた、と言われた。一方で、それは王本人の口から、騎士団長である彼の独断によるものだと聞かされたばかりでもある。二つの矛盾した事実に、半信半疑のリュシアンはまだ真相がつかめずにいた。


「愚かなことを聞くな。私は陛下のご命令を間違えるはずがなかろう」

「……? では、陛下から兄上へのご命令は―」

「―貴様には、関係の無いことだ。」


 一方的に話を切り上げようとする剣幕に気圧され、口を噤む。そして、気付く。例え行き違いがあったとしても、アルヴィンが認めるはずがない。仮に認めてしまえば、信奉する王が大嘘つきということになりかねない。ならば、と焦る騎士は先程からその場で顔を伏せたままの令嬢へと視線を向けた。


「ところで、そのお方は?」

「……高貴なお方だ。貴様が知る必要は無い」

「あなたは騎士団長のはずでは? なぜご令嬢の付き人を―」


 彼女は金色のまつ毛を伏せたまま、扇子で顔の大半を覆ったままだ。貴族の女性としては不自然な仕草では無いものの、リュシアンにはなぜか他の理由があるように思えてならなかった。


「私は、もう団長ではない。」


 衝撃的な事実も、アルヴィン自身はとっくに受け入れているのだろう。落胆も悔恨もなく平然と告げられ、リュシアンの頭はたちまち疑問符で埋め尽くされる。


「………? それは、なぜですか? 懲戒があったからですか?」

「……」


 だが、それに対する答えはない。どういうつもりなのか、苛立ちを覚える。いつしか彼の怒りは、無機物を相手に憤っているような虚しさに変わっていた。


「……なぜ、何も答えようとなさらないのですか。」

「先を急ぐので、失礼する。」


 しかしながら、これ以上口を割る素振りもない兄を引き留めたところで埒が明かない。リュシアンは呆然としたまま、令嬢と連れ立った広い背を見送る他なかった。


 そんな彼らの様子は、近くにいた数人の貴婦人たちに見られていたらしい。暇を持て余した貴族たちのひそひそ話は、聞き耳を立てるまでもなく耳に入ってきた。


「聞きました? あのお方、もうすぐデビュタントされるとか……」


 よくある噂話だろうか。馬鹿馬鹿しくなったリュシアンはすぐに立ち去ろうとしたが、あの令嬢のことを言っているのだと気づくと、知らず知らずのうちに足を止めていた。


「ええ、何でも静養から戻られた殿だとか。」


 出し抜けに、よく知っているはずの肩書きが耳に飛び込んできて硬直する。第十三王女シエナは敵国アル・シャンマールに囚われているというのに、何を勝手なことを抜かしているのだろうか。憤慨した騎士はすぐさま訂正しようと口を開きかけたが、すんでのところで踏みとどまった。


 もしかすると、民への混乱を防ぐために、シエナのことは公にされていない可能性もある。そう考えると、無闇に口を出して、噂話好きの貴族へ格好の餌を提供しては、百害あって一利なしだ。それに、リュシアン自身も先ほどの令嬢の素性などよく知らない。もしや兄からは得られなかった有益な情報が得られるかもしれない、と彼は知らず知らずのうちに耳をそばだてていた。


「あら。わたくしは、没落した子爵令嬢が玉の輿に乗ると伺いましたわ。」

「まあ、あたくしはオルコット公爵の養女と聞きましてよ。ご存じの通りあの家は養子しか取られないとか……。」


 またしてもよく知った家名に、眉をひそめる。所詮は根も葉もないうわさ話に過ぎない。しかし、普段なら聞き流せそうな戯言も、今の彼はいちいち引っかかりを感じた。


「奥様はお子様に恵まれなかったものですものね。お可哀そうに。わたくしなら、血の繋がらない子なんて御免ですわ。」

「あらあら、そう言ってやるのは失礼ですわよ。誰が聞いているかわかりませんもの。」

 

 かつての騎士団でも、その場にいないものはこき下ろされていたが、貴族社会でも似たようなものかと、彼は吐き気を覚えた。このまま出所もわからぬ噂に付き合っていても、時間の無駄だ。リュシアンが唐突にずんずんと歩き出すと、貴婦人たちは驚いたように振り返ったが、構わずその横を通り抜けた。


 アルヴィンも、あの令嬢のことも気になるが―今は、シエナを救う手立てを見付けなくては。そして……あの男―ザイド・アル=サレハを、殺さなければ。カティーフでは皮肉にも一度シエナを救われた恩があるが、元よりあの蛮族がシエナを攫わなければ、事は起こらなかったのだ。異国の男の涼しげな顔を思い出すと、シエナを奪われた屈辱のあまり、彼の腸は煮えくり返りそうだった。

 強迫にも似た王令は、じわじわとリュシアンの脳内を占め、いつしか彼を乗っ取るように重くのしかかっていた。

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