染み渡る静寂

 ここ数日で、シエナの元には急に静寂が訪れた。一日一回は必ず顔を見せていたザイドが、忙しさのためかこちらへ来なくなったのだ。


 初めはやっと落ち着けると安堵したものの、彼女はすぐに誤算に気付いた。情報を引き出せる相手が居なくなったため、アレス王国の動きがわからないまま、日々を過ごすこととなってしまったのだ。


(やっと利用価値がないことに気付いたのかしら?)


 喜んでいいのか、それとも危機感を持った方がいいのかわからずに、シエナはため息をついていた。

 運ばれてくる食事は変わらず妙ちくりんなものばかりだが、慣れればどうということは無い。むしろ最近は美味しいと思うことすらある。そんな自分に気付くと、彼女は何を蛮族に絆されているのかと、自らに嫌気が差していた。人間はぬるま湯に浸かれば浸かるほど、楽な方へ流されていくのだと身をもって実感する。このまま飼い殺しにされるのかと思うと、ぞっとした。そうなったら、たまったものではない。


(とは言え外出許可は出ているのだから、ここの構造くらい把握しておくべきよね)


 それが未だに出来ない理由はなぜかと言うと、部屋の前の回廊をほぼ毎時間のようにうろついている大男のせいである。おそらくはザイドの差し金で、シエナが外に出た場合の監視役を頼まれているのだろう。


 彼女は扉を細めに開けると、隙間から件の番人をじれったく盗み見た。筋骨隆々とした、上にも横にも大きな男。アッシュグレーの顎髭から察するに、ここの中でも年長者なのだろうか。人ひとりの背丈もあろうかという大剣は、並の者では持ち上げることすら叶わなそうだが、彼の場合は軽々と背中に担いでいる。この男に見つかれば面倒な事になると予感させるゆえ、シエナはなかなか一歩踏み出すことが出来ずにいたのだった。


(私は……のうのうと暮らしていていいのかしら。今頃、リュシアンは血眼になって探してくれているかもしれないのに)


 一人、自己嫌悪に陥る。護衛騎士のことを思うと、相変わらず後ろめたさにも似たもどかしさを感じた。

 そんなシエナは物思いにふけるあまり、己の手が滑ったのを見過ごしていた。運が悪いことに、木製の扉はキイと軽い音を立てて飛び出してしまった。はっと気づいた時には、既に扉はあっけなく開いており、図らずも彼女の姿を回廊中に晒し出していた。


「……あ」


 すかさず、目と鼻の先にいた大男がこちらを振り向いた。オリーブ色の小さな目と視線がかち合う。いかつい見た目と図体の大きさに彼女は身構えたが、男は鼻先の丸い鷲鼻をくしゃりと歪めると、第一印象よりもずっと親しみやすい笑みを浮かべた。


「おう、おひいさん! 散歩か?」


 建物全体が揺れるかと思うほどの豪快な声に、シエナは戸惑いのあまりたじたじとなった。


「……ええ、まあ。」

「悪いな、構ってやれなくて。ここんとこきな臭くてな、そんでずっとバタバタしてんだ。」

「それは……えっと。どうして、なのかしら?」


 大男は真上からシエナを見下ろした。そして彼女の碧翠の瞳に宿る不安を瞬時に見抜いたのか、思いついたようにぽんと手を鳴らした。


「そんなら、連れて行ってやろうか。ザイドのところに」

「えっ?!」


 そして何を思ったのか、だし抜けにシエナの手を掴むと、ずんずんと歩き出してしまった。無礼だと怒る隙も与えないまま、完全に大男のペースに巻き込まれてしまい、彼女は呆気に取られる。


「あの、別に頼んでな―」


 入り組んだ回廊を見る見るうちに進んだ先には、どこかもわからないような奥まった一室があった。止めようにも、大男からすれば肩にも満たない場所から発せられる彼女の声など、耳に届くはずもないだろう。


「ここにいるかな。あー、ちょっといいか?」

「……ラジャブか。入れ」


 扉の向こうから聞き覚えのある艶やかな声が聞こえて、シエナはなぜかほっと胸を撫でおろした。そしてすぐにそんな自分に気づくと、これは見慣れない大男に振り回されているせいなのだから、と慌てて自らに言い訳する。


「姫君か。……どうした?」


 扉が開くと、机に向かっていたザイドが驚いたように目を見張った。そんな彼にもお構い無く、ラジャブと呼ばれた大男はズカズカと無遠慮にシエナを引き入れた。


「お前さん、おひいさんに戦況は説明してやってんのか? これじゃ不安だろうよ。」

「無駄に話して不安を煽っては……。まあ、姫君にも知る権利はあるか。ラジャブは戻れ。」

「あいよ。じゃあな、おひいさん」


 ラジャブがあっさりと居なくなると、後には嵐が去った後のような静けさが染み渡った。


「……ここのところ、顔を出せなくて悪かったな。何も無いが、座るといい。」


 シエナは恐る恐る通された部屋を見回した。中には赤を基調とした絨毯が敷かれ、机の他には背の低い書棚が並ぶのみだ。室内には暖色のランプが吊り下げられ、アーチ型の窓からは夕方の涼やかな風が流れ込んでいる。シエナの部屋と同じような造りだが、ずっと質素だ。噴水の音は遠く聞こえないことから、彼女の部屋からかなり離れた場所まで来たのだろう。


 ふとザイドの浅黒い肌を見ると、先日の抱き止められた出来事を思い出しそうになるので、彼女は顔を背けつつ早々に切り出した。


「……戦況、と言ったわね。何が起こっているの?」


 何せ、ここに来てからまだ一週間くらいしか経っていないのだ。アレスの王都まで伝達に行き、すぐに援軍が出されたにしては早すぎる。どことなく嫌な予感がして、シエナはザイドの手元をちらりと盗み見た。見慣れない地図は恐らくアル・シャンマールのものなのだろう。赤く印の付いた箇所が幾つもある。つう、と彼の美しい指が地図を滑ると、その跡を無意識のうちに目で追ってしまいそうだ。


「アレスの大軍がここを目指して進軍している。もっぱら夜に動いているようだがな。」

「なんですって?! 」


 予想外の早さに、シエナは動揺を隠せず息を呑んだ。同時に、自分は捨て駒ではなかったのだという安堵と、何か他に狙いがあるのだろうか、という猜疑心とがせめぎ合う。


「……リュシアンもそこにいるの?」

「すまないが、そこまではわからない。」

「……そう、よね。」


 いずれにしろ、こんなにも早く援軍が来たのは、さらわれた後すぐに動いてくれたリュシアンのおかげに違いない。彼の無事に安心したいものの、素直に心の奥底から喜べないのは、先程感じた引っかかりのせいだろうか。


「奴らには交渉に応ずる気があるか試す。決裂となれば、姫君の身も危ういかもしれない。」


 彼の口にする「交渉」は、言わずもがなだ。アレス王国に対して、シエナが人質として有効かどうかを試すのだろう。自らに戦争の有無がかかっているのかと思うと、彼女は重圧感に押し潰されそうだった。


「何よ、それ……」

「万が一に備えて、姫君は今日から最深部に移動するといい。」

「ここは……どうなるの?」

「戦場になるかもしれない。むろん撤退させるつもりだがな。」


 どくん、と心臓が跳ねる。いつのまにか、だんだんと鼓動が早くなっていく。シエナは口を開きかけて、躊躇った。この男がどうなろうが、最悪死のうが、彼女には関係ないはずだ。むしろ、蛮族なら当然のことだと―今まででなら、そう言えたはずだった。それなのに、目前の男が血に塗れた姿が瞼によぎっただけで、なぜか彼女は落ち着かなかった。


「あなたは……どうなるの?」


 心配すべきなのは、本来ならアレス王国やリュシアンの方だ。そう頭ではわかっているはずなのに、シエナの口をついで出たのはまるでザイドを心配しているかのような台詞だった。それに気付いたのか、ザイドは困惑したように深い青の瞳を泳がせたが、ややあった後、感情を押し殺すように淡々と答えてみせた。


「……運が良ければ、生きてまた会おう。」

「そんなに緊迫しているの?」


 静かな城からは戦の気配などしないが、彼にはすぐそこまで近付いてきているアレス側が見えているのだろう。


「―ザイド、ちょっといいかい?」


 不意に、扉の外から聞き覚えのある女の声が聞こえてきた。女は返事も聞かずに、切迫した様子でそのまま矢継ぎ早にまくし立てている。


「レイラ達弓部隊の準備は整ってるよ。ほんとにまだ攻撃しなくていいんだね?」

「アイシャか。入れ」


 ザイドが答えると同時に、見覚えのある赤毛の女が入ってきた。腰には湾曲した剣を携え、きりりとした面長な顔には緊張を帯びている。アイシャと呼ばれた女は先客であるシエナを見付けると、切れ長な琥珀色の目を訝しげに細めた。


「……おひいさんがどうしてここに?」

「ラジャブが連れてきたんだ。しばらくお構い出来なかったからな。」


 別にこちらは構って欲しいわけでは無い、と言おうとしたが、二人の間に流れる緊迫した空気に気圧されて、シエナは口をつぐんだ。その間もアイシャは気もそぞろに続けた。


「もう急いだ方がいいよ。奴ら、見張り台から豆粒くらいには見え始めているんだ。」

「なるほど。こちらの文も無視して軍を向ける、か。実にアレスらしいやり方だ」

「……文?」


 初めて聞く事実に王女が愕然としていると、ザイドはため息混じりに明かした。


「砂漠への侵入および軍事演習を辞めるように、と再三の警告も無視。それどころか使者に行った者は誰一人帰ってこない。それもこの十年間、だ。聡い姫なら、意味はわかるだろう?」

「……何、それ。初めて聞く話だわ」


 彼の言い分では、アレス王国が無断でアル・シャンマールへの領土侵入を繰り返していたようだ。アレスに住んでいたにも関わらず、全く聞いてこなかった話に、彼女は冷や水を浴びせられたようだった。

 

「そうだ。命からがら帰ってきた者達は、こう言った。王には『また蛮族か。殺せ』と言われたとな。」

「……そんな!」


 蛮族であれば、虫けらのように殺してもいいのだろうか。それとも、野蛮な連中なら何をされても文句は言えないのだろうか。頭が割れるような激しい葛藤に苛まれ、シエナはなんと声をかけるべきか言葉に詰まった。現に、これまでの彼女は、蛮族こそが悪であると長年言い聞かされてきたのだ。どちらを信じるべきかは、彼女にとって火を見るより明らかである―そのはずなのに。


「……時間だ。姫君はゼフラの部屋に送っていこう。あの者たちが姫君を救いに来た目的なのだと、確証が取れるまで……な」

「……。」


 交渉に使うのなら前線にでも連れていかれるのかと思ったが、思いの外慎重な対応に彼女は拍子抜けしてしまった。


「さあ、急ぐんだ。万全の態勢で迎え撃たなければね」


 アイシャの声もどこか遠くで響いているかのように、彼女の中で遠ざかっていく。その間に思い起こされたのは、ザイドに抱き止められたあの日、言われた言葉だった。



『どちらが蛮族なのか、よく考えてみることだな』



(わからない。私は……どうすれば)


 シエナは混乱を極めたまま、二人について部屋を出た。すでに辺りは日が沈み、少しずつ冷え込んできている。夕暮れ時―それはアレス王国側が動き出す時間。彼女はいまいち現実感を伴わないまま、言われるがままに歩き出した。


 もうすぐリュシアンに会えるかもしれない。だがそれはもれなく、ここで出会った人々の死を示唆する。蛮族には決して情など感じていないつもりだったが、何が彼女を変えてしまったのだろうか。その問いの答えをいくら考えてたところで思い当たらず、シエナは一人深いため息をついていた。

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