Ⅲ. 捨て駒姫の悲詩(リサー)

一滴の水

 シエナは戸惑いを覚えていた。

 膝までの低い机に、椅子がないこと……だけではない。卓上に並んでいるのは、湯気を立てる赤いスープに、薄い奇妙な形のパン、更には刺々しい見た目の果実。それら全てが、彼女にとっては初めて見る得体の知れないものだった。


 それでも、食欲を唆る香辛料の匂いが鼻腔をくすぐると、もはや忘れかけていた空腹を思い出してしまいそうになる。空っぽの胃がキリキリと締め付けられるように痛んだ。最後に食事を口にしたのはいつだっただろうか。それすらも思い出せない。そもそも、あれから何日経ったのかすら見当もつかないのである。


「……。」


 空腹のあまり、シエナは我を忘れそうになっていた。少しくらい。そうよぎった瞬間、気高い王女ははっと我に返ると、慌てて首を振った。蛮族の目の前で欲に負ける。そんな屈辱があってはならない。彼らに施しを受けるくらいなら死んだ方がマシだと、そう心に決めたはずだったのに。これが「魔が差す」ということなのか、と彼女は自らにぞっとする。


「どうした。食わないのか?」


 ふと視線を目の前に戻すと、相変わらずそこに居座っているのは異国の男、ザイド。彼が訝し気に目を細めると、褐色の首に伸びる黒髪が艶やかに揺れた。その知性の宿る深い青の瞳がこちらを見ていようがいまいが、彼女の答えは変わらない。


「いらないわ」


 しかし、カラカラに乾いた喉から出たのは、およそ自分のものとは思えないしゃがれ声だった。シエナは思わずぎょっとしたが、水すら飲むわけにはいかないと決めたのだから、と必死で平静を取り戻す。


「そうか。これでも王室御用達のシェフに作らせたんだが……。どうやら、アレスの王女様の口には合わなかったようだな。」

「だから……っ! いらない、って言ってるのがわからないの?」


 もう何度目になるのかもわからない押し問答。度重なる拒絶を耳にしても、男の彫りの深い顔は涼しいままで、凛々しい眉はぴくりとも動かない。憂いと色香の溶け合った神秘的な瞳は、彼女の虚勢すらも見透かしているかのようだ。


「せめて水くらいは飲め。また倒れたいのか?」

「いいえ、結構よ。言ったでしょう?  蛮族のものなんか、口にするわけないんだから!」


 忠告を撥ねつけた彼女は、ただでさえつり目がちな青緑の目をますます釣り上げている。募り募った鬱憤を一挙にぶつけるような剣幕に、ザイドは呆れたようなため息を吐いた。


「口を開けば蛮族、蛮族と……アレス王国は大した教育をしているようだな。他には何も学ばなかったのか?」


 仮にも一国の王女の頭の出来を訝しむような皮肉に、シエナはますます苛立ちを覚えた。


「……何が言いたいのよ。」

「そんなに俺たちの事が気に入らないなら、すぐにでも出て行ったらどうだ?」

「よくそんなことが言えるわね。逃げ出せるわけないとわかっていて、言っているんでしょう?」


 確かに、部屋の中に見張りもいなければ、拘束されているわけでもない。体調さえ元に戻れば、いつでも抜け出すことは出来るだろう。だが、シエナは未知の砂漠を本能的に恐れていた。それもこれも、あの熱砂を耐えきれずに倒れたからだ。ともすれば、脱出は実質不可能というもの。もはやこの地は、彼女にとって自然の牢獄であった。


「そうかもな。もし出ていくなら、砂漠の夜は冷えるからせいぜい気をつけるんだな。まあ、餞別代わりに水くらいはくれてやろう」

「……舐められたものね。今までは体調のこともあったけど、これからは―」


 と言いかけたところで、不意にシエナの視界にのような影がちらついた。ぐらりと平衡感覚を失うような目眩と共に、景色が歪む。まずい、と思った時には既に遅かった。床に倒れこむ衝撃に備えて彼女は目を瞑ったが、待てど暮らせど、覚悟していたはずの痛みはやってこない。


「……え?」


 頭部が触れているのは、明らかに床や絨毯の感触ではなかった。シエナがおそるおそる目を開くと、間近にはなぜか褐色の肌がある。それが男の腕だと気づいた瞬間、彼女は信じられないような屈辱にわなわなと震えていた。どう瞬きしても、自身はザイドの腕の中にすっぽりと収まっていたのだ。


「なっ……?!」


 眼前の光景へ理解が追い付かないあまり、彼女は呼吸困難に陥った魚のように口をぱくぱくさせる。


「いい加減、水くらいは飲め。口移しが嫌なら、な」


 何を思ったのか、ザイドは悠然と卓上のコップに水を入れた。そして、彼女と息が触れるばかりの距離に迫る。刹那、視界全体に褐色の肌が広がった。深い青に吸い込まれていくようで、心臓が早鐘を打っている。互いの呼吸音が響くばかりか、あまつさえ睫毛まで当たるような間隔に我を忘れる。シエナは動揺のあまり、完全に硬直していた。


「な、何を―」

「選べ。俺から飲むか、自分で飲むか」


 このままでは唇が触れてしまう。それどころか、雛鳥が親鳥から餌を与えられるがごとく、唇を塞がれてしまうかもしれない。その思考に至った瞬間、シエナはじたばたと両手足で激しくもがいた。が、力の差は歴然としており、虚しくも徒労に終わる。


「無礼者!  離しなさい!」


 ここに来て力に訴えるのかと睨んだものの、男は何を思ったのか、今にも口をつけようとしていたはずのコップを手渡してきた。


「お前が水を飲んだら、な」

「……本当に最低だわ。」


 手のひらにひんやりとした感触が伝わる。シエナは遂に観念すると、半ばヤケになって水をあおった。ごくり、と子気味よく喉が鳴る音と、空っぽの胃に染み渡り、ゆっくりと満たされてく感覚。はしたなくも唇から溢れた雫が顎を伝いそうになり、彼女はあわてて手の甲で拭った。


「……っ」


 そのまま男の腕から逃れることも忘れて、久しぶりの潤いに惚けていると、いつの間にか彼女はあっさりと解放されていた。


「……飲んだようだな。」

「勘違いしないで。あなたの手を借りるくらいなら、自分で飲んだ方がましよ」

「ふん、随分な言い草だな。俺から飲むのは、今更だろう。」

「……え?」


 彼の言う意味がわからず、シエナはまたしても目を見張った。さらりとした口調はさりげなく、決して軽口を叩いているようには思えない。誓ってこの男から水を飲まされた覚えはないのだが、とシエナが念の為に心当たりを探ってみると、脳裏をよぎったのは医師の少女・ゼフラの意味深な台詞だった。



『……意識を失っている間にザイド様より摂取されておりましたが、まだお加減は―』



 あの少女も冗談を言うような人物には見えなかった。という事は、と逡巡していくうちに、彼女の中で身の毛もよだつような想像が膨らむ。


「そんな、まさか……! もしかして、あの子が言っていたのは―」


 彼女が今にも卒倒しそうな心持ちで狼狽していると、目前の男は何食わぬ顔のまま、いけしゃあしゃあと種明かしをしてのけた。


「熱射の薬なら、俺が手ずから与えたが?」

「……っ!」


 安堵と怒りに二の句を継げなくなった彼女を見て、ザイドは仕返しとばかりに艶かしい唇の端を持ち上げた。


「安心したか?」

「紛らわしい言い方をしないで頂戴! ……もし違ってたら許さないわ。蛮族に何かされたなんて知られたら、お父様になんて言われるか―」


 と言いかけたところで、捨て駒の自分は体良く捨てられるだけだと思い当たると、シエナはおもむろにうつむいた。


「ほう。姫君があのまま王都へ戻ったところで、その父とやらの政治の駒になっていただけだぞ。その方が良かったのか?」

「……それは。」


 顔を上げなくても、彼の視線に射抜かれているのがわかる。王都へ戻るのを迷っていたことも、薄々感じていた不遇への不満も、とっくにお見通しのようだ。つくづく腹の立つ男だと、彼女は癪に障った。


「あなただって私のことを駒だと思ってるんでしょ。だから拘束もせずに、何もかも満たして……そうやって親切にしていると見せかけて、私を信用させようと思ってるのね。本当に、小賢しいわ」


 縄もつけず、部屋の中に見張りがいないのも、シエナが抜け出すはずがはないとタカをくくっているからだろう。すべて計算済みなのだと思うと、そうやすやすと計略に乗るものか、と彼女の警戒心はいっそう高まった。


「それが本当だとして、どうなる? お前も人質ならしたたかに生きろ。俺たちを利用し、ふてぶてしくするくらいで丁度いい。まずは、食え。話はそれからだ。」

「……本当にしつこいわね。」


 口を開けばまたそれか、とシエナはうんざりした。今度は無理やり食べさせようとするのかと身構えるが、唐突にザイドは背を向けた。


「……え?  もう、行くの?」

「これでも、色々とやることがあるんでな。姫君はゆっくり食事を摂るといい。」


 拍子抜けしている彼女を残して、扉が開いた。生ぬるい風に頬を撫でられ、誘われるようにその向かう先を見やると、建物の様子が伺えた。アーチを描くように等間隔に続く大理石の円柱や、緻密に敷かれたモザイクタイルの壁。近くに噴水があるのか、涼し気な水の音が耳に入る。

 シエナの惹き込まれたような視線に気付くと、ザイドはまたしても魅惑的な笑みを浮かべてみせた。


「外が気になるのか。後で、散歩がてら案内させようか?」

「……いえ、結構よ。蛮族の根城なんて……興味無いわ。」


 口ではそう言いつつも、彼女はすっかり圧倒されていた。アレス王国とは異なる文化であっても、ここが洗練された美しい建物であることがよく分かる。


「こんな所より、私のいた城の方が―」


 と言いかけて、また彼女は言葉に詰まった。確かに豪華絢爛な王宮で育ったなら、そう啖呵を切ることも出来ただろうが……思い返せば、かつて彼女がいた王宮の離れも、飛ばされた先の辺境の屋敷も、長年埃だらけで捨て置かれていたのを、宛てがわれたようなものだ。それがまさか、敵国で姫のような待遇を受けることになるとは、皮肉なものである。

 また黙りこくってしまった王女の方を見つめて、男の面持ちは意味深に陰りを帯びた。


「やはり、な。……捨て駒、と言っていたが、本当はお前も気付いているんだろう?自分を無下に扱うアレス王国のおかしさに。」


 唇を噛む。確かにその通りで、少しも反論の余地もないのが口惜しい。


「……何も知らないくせに。」

「そうかもな。だが、それはお互い様だ。一度どちらが蛮族なのか、よく考えてみることだな。」

「……え?」


 まるでこちらの方が「蛮族」であるとでも言いたげな発言に、シエナは脳天をがつんと殴られたような衝撃を覚えた。それでも、負けじと反論しようと口を開きかけた頃には、既にザイドはいなかった。

 もやもやとした蟠りわだかまりが残る。あの男のことを知れば、その意味もわかるのだろうか。そこまで考えたところで、彼女は一人首を振った。


(……所詮は蛮族の言うことじゃない。信じられるわけがない。またでたらめを言って、混乱させようとしているんだわ。)


 けれども、そこではたと気づく。彼女自身もまた、心底では自国を信じてなどいないことを。アレス王にとって、彼女は捨て駒だ。こちらの要望などまるで無視され、都合の良いように使われるか、切り捨てられるかのどちらかしかない。その諦念にも似た悟りに気付くと、シエナは自嘲した。


(バカみたい……。)


 いつしか瞼の裏に宿っていたのは、鳶色の髪の精悍な騎士の姿だった。彼女の心中には、リュシアンに助けに来てほしい気持ちとそうでない気持ちとが綯い交ぜになっていく。


 ふと、まだ冷めきっていない食事を見やった。シエナはついに空腹に負けたのか、そっとスプーンを手に取る。内心、これは自力で脱出する体力を取り戻すために仕方なくなのだ、と自分に言い聞かせながら、彼女は久々の食事を口に運んだ。


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