2-6


 匂いは記憶と結びつき、憂愁のかげを落とす。

 その陰は雨雲のように音もなく忍び寄り、驟雨を降らせるが如く、現在を来襲し、去るのだ。

 ただ、ぽっかりと胸の内に空虚を残して。

 いちばん最初に病院に来たのは叔父の高秋だったと喬之介は、窓の外の雨を眺めながら、あの日を思い出していた。

 だが実際に、今でもまざまざと瞼の裏に思い出されるのは、じっと見つめていた病室の壁と腕に巻かれた包帯の白さだ。


 ――古い病棟だった。


 そこは建て増しを繰り返し、迷路のように入り組んだ病院の記念すべき一号棟であるものの、長い年月で傷んだその建物は、病院に於いては不可避である死のかげを一手に担うかのように隅に追いやられ、どこもかしこも、ひっそりとして暗かった。

 歩くたび靴の裏に、べたべたと張り付く廊下の歪んで波打つリノリウム。天井は低く、白かった壁は灰色に染まり、あちこちに亀裂が走り、所々小さく欠け、足元付近には点々と跳ねた茶色い染みがある、その壁。

 腕に巻かれた真っ白な包帯が照明に光って見えるほどの薄暗い病室には、喬之介の他に看護師も、おそらく同じ空間に幼い茅花も居たのだろうけれども、全く記憶にはないのだった。

 覚えているのは、薄汚れた壁に残る染み。

 その壁の染みはどうやって出来たのか、怖い想像を働かせていたとき、喬之介の目の前に忽然と高秋が現れたのである。

 高秋の姿を見たのは、随分と久しぶりだったこともあり、病室の扉の向こうは、別の空間と繋がっているんだと思わず信じてしまいそうになるほど、現実味なんてものは、まるで無かった。

 喬之介の身体の中心にある筈の思念が、ずれてしまった感覚と狭まる視界は、夢の中にも似て、その感覚は翌る日、病院を出て高秋の車の後部座席から真っ青な夏空と入道雲を眺めている時も、変わらなかった。

 車内のシートに凭れ、腕に視線を落としてみれば、薄暗い病室で輝くばかりに光って見えた白い包帯は、陽の下に晒してみるとどちらかといえば乳白色の、何の変哲もないものに過ぎず、そしてまたこの古い病棟は、喬之介が町を去るこの朝を、待っていたかのように建て替えの済んでいた隣接する新しい病院建物への引っ越し作業を完了し、閉鎖され、間を置かずして取り壊され駐車場へと姿を変えたのだった。

 喬之介が町を去るのを知って、それを最後の役目とするべく。

 そうしてその場所に蔓延る死の陰を、喬之介の身体の中へ移し替えたのだ。嗅ぎ慣れた煙草の匂いのする車の中でさえ、いつまでも自身と鼻の奥にしつこく纏わりつく、煙に燻された別の匂いに変えて。

 

 喬之介の見つめる前で雨脚は強さを増し、濡れたアスファルトと雨の匂いが煙草を掻き消すと同時に、窓の外に白い線で描いたようなとばりを降ろす。

 喬之介は煙草を一度として吸ったことはないし、おそらくこれからも嗜むことはないだろうが、それでもその匂いは、嫌いではなかった。どちらかといえば、心を高揚させもするその消えてしまった煙草の、雨の奥にある残り香を惜しむべく、ひとつ大きく息を吸った。

 肺いっぱいに、雨の匂いが満ちる。

 くっと息を止めた。

 ややあって、このままでは雨に溺れてしまうことになるのだろうかと半ば本気で思いながら、苦しさを感じ始めるその一歩手前で、詰めていた息を吐きだした。

 ゆっくりと息を吐き切った身体は、知らず肩が下り、ついでに頭を前後に動かして溜まっていた凝りを解す。


 煙草の匂いが、喬之介にとって、胸を高鳴らせるものであるのには、理由があった。

 祖父母と疎遠で、親戚付き合いもなかった幼い頃の喬之介にとって、身近な大人というのは両親と近所の人と先生の――距離感や年齢もまちまちな――その三種類で大まかに分類されていた。

 大人にとって、子供というのは庇護するものである。だがそれと同じくして、大人というのは、子供を一人の人間として見ていないことが多い。何も分からないのだからと決めつけ、偉そうにあれこれ指図することで『言われたことをきちんとやれば良いんだ』自分の鬱憤を晴らしたり、子供だった頃の感情など忘れてしまっていている人に限って、したり顔で『わたしが、あなた達くらいの時はね』話す。

 そうでなければ、子供に寄り添っているつもりになって、良き理解者の顔を作ってみせ必要以上に媚びているとしか思えない『その気持ちは良く分かる』いかにもな態度で接してくる。

 そのような大人の中にあって、ひとりだけ、喬之介の分類に当て嵌まることのない人物がいた。

 大人なのに、喬之介の知るどんな大人とも違っていて、かといって子供でもない。血は繋がっていても、親ではない。

 叔父の高秋である。

 確か両親とは五つほど歳が離れていたのではなかっただろうか。喬之介の知る高秋は、サーフィンが趣味の気楽な大学生で、よくふらりと遊びに来ては何日か滞在し、賑やかに家の中を掻き回した。帰る背後姿うしろすがたに向かって「あいつは本当に台風みたいなヤツだ」と笑いながら呟く父親の顔を喬之介が見上げるまでがお決まりの、日常に近い非日常を運んで来るのが高秋だった。

 学校から帰り、玄関を開けるや否や鼻先にふわりと煙草の匂いが香れば、喫煙者のいないこの家に高秋が来ているという紛れもない証しであり、喬之介の胸は高鳴ったものだ。

 靴を脱ぐのも、もどかしく、ばたばたと足音も高らかに居間に駆け込めば、果たして、唇の端に煙草をぶら下げて煙に目を細めソファに浅く座り、床に置いた灰皿に煙草の灰を落とせるようやや前屈みに、片手で持つ文庫本を眺めていた高秋が顔を上げて喬之介の姿を認め、にやりと笑う。

 朝早く海に遊びに行ったりゲームをしたり、かと言えば翌日に学校があることを気にしながら夜更かしをしたり、揶揄われて笑ったり怒ったり泣いたりと、幼い喬之介は、いつだって高秋が来ることを楽しみにしていたものである。

 母親と並んで台所に立ち、ふざけて笑い合いながら食事の支度をする二人の姿を横目に宿題をし、共に風呂に入り、父親が帰宅して食事を終え暫くの後、大人たちの時間になるまで喬之介が子供であっても、決して蔑ろにされることはなく、ちゃんと一人の人間として高秋は扱ったものだ。

 子供だからと誤魔化されることもなく、子供なのにと言われることもない。喬之介の疑問には、きちんと答え、大抵の大人が耳を塞ぐ質問にも、子供は知らない方が幸せだとか、そのうち分かるなどと知った風な顔で、お為ごかしな説教もなかった。

 適度な距離感。親とも友達とも違う高秋を、喬之介は好きだったし、だからこそ、煙草の匂い、特にメンソール煙草の匂いは様々な記憶と結びついているのだった。

 夏空の花火を思い出すと火薬の匂いが鼻先を掠めるように、不意に香る煙草の匂いによって、喬之介はあらゆることを思い出す。

 幼い頃に抱き着いた母親の匂い、香水と肌の混じり合う特別な香り、衣替えをしたばかりのセーターの匂いと柔らかく頬をくすぐる感触。古い図書館の、どこか不思議と香辛料にも似た埃っぽい匂いがする書架の暗がり。海の砂が太陽に熱せられて立ち昇り、混じるサーフボードのワックスの匂いと足の裏を焼く砂の感覚。雨の日の小学校の廊下の匂いに湿気を含んだ給食当番の割烹着と、ぺたりと肌につく冷たい着心地。冬の甘い匂いと、灰色の雲から強い風が吹くたびに耳が千切れそうに痛くなる、あの海辺の小さな町で暮らした日々。

 それら全てを瞬く間に思い出させるのだ。

 還ることは、出来ない。

 記憶に金粉を撒き散らし、目が眩んでいるだけだとしても、喬之介は構わなかった。

 思い出とは、つまるところ織模様のように、繰り返し感傷の糸を手繰ることで、時間という布帛ふはくに美しい模様となって浮かび上がっているものに過ぎず、実在した過去は、思い出に変わることで、夢のような幻影と同様になってしまっているのである。


 こんなことが、あった。

 

 喬之介が、小学校へ上がったばかりの頃。

 いつの頃からか、遠のいていってしまった高秋が、まだ足繁く喬之介の家へ遊びに来ていた頃のことだ。

 子供同士のいざこざ、といえばそれまでだが、喬之介にとっては初めての喧嘩らしい喧嘩だった。

 仲の良い近所の幼馴染と、学校からの帰り道、今になっては、一体何がきっかけだったのかも覚えていない。

 だが、言い合いになって、最終的に突き飛ばされた喬之介が、横顔から地面に着地してしまい、右眉毛の端から頬骨までかなりの擦り傷を作ったとき、幼馴染は、喬之介の顔を見て、したことに恐れをなしたのか、驚いて大声で泣き出し、逃げたのだ。

 顔半分のその熱さに、思わず手を触れた喬之介の指先が、ざらりとした皮膚片と血と細かな石を感じた瞬間、飛び上がるほどの痛みに変わったことはよく覚えている。

 本来泣くべきは、顔を擦りむき、置き去りにされた自分じゃないだろうかと、泣くことも忘れ、唖然と一人立ち尽くしていたところに、高秋が現れたのだった。

 その姿を見て、ほっとし、傷にやたらと滲みる涙を溢しながら「絶対に許せない」と叫ぶ喬之介に高秋は、ひと言「なんで?」と尋ねたのだ。

 何があったのか、でもない。

 何をされたのか、でもないし、何をしたのか、でもなかった。

 許せないのは、なぜか? と問われた喬之介は咄嗟に「酷いのはアイツなのに、謝らないから」「突き飛ばされたから」というような答えを、言葉に詰まりながらした気がするが、本当のことを言えば、なぜ許せないと思っているのかも良く分かっていなかった。

 だから、その場で最もらしいことを言っただけだったと、あの時を振り返って記憶している。

 喧嘩の理由を忘れてしまっていても、このやり取りが鮮明に記憶に残っているのは、当たり前ではあるが訳があり、どんなに理由を重ねても、涙を流しても高秋が喬之介の欲しい慰めをくれなかったからだ。

 『喧嘩は、どっちも悪い』

 この時ばかりは、高秋に、喬之介が良く知る大人たちみたいに、訳知り顔でそう言って欲しかったのである。

 だが、高秋は、いつだって喬之介の知っている大人とは違うのだった。

 静かに、

「ふうん。てっきり最後まで喧嘩出来なくて決着がつかなかったから、喬之介は悔しくて許せないんだと思ってたんだけど、違うんだ?」

 と言ったのである。

 この言葉は、喬之介の真実を突いていた。

 そうと分かった途端、喬之介は盛大に声を上げて泣き始めた。喬之介が怪我をしたことで喧嘩が有耶無耶になってしまったことが、悔しかった。突き飛ばされたことは仕方ないが、結果として相手が逃げ出すほどの怪我をしてしまったことで、決着をつけるどころか、ある意味、負けながら勝者となったことが喬之介は悔しかったのだ。

 この時に出来た傷は、よく見ると、今も右眉毛の上に薄い線として残っている。

 その後も幼馴染と仲良くしていた記憶があるので、仲直りをしたのだろうが、どのように仲直りしたのかは全く覚えていない。

 このように叔父の高秋は、喬之介にとっては常に、何かを気づかせてくれる掛け替えのない人物だったし、両親にとってもまた、特別な人物だった筈である。

 それなのに……。

 確かに両親と叔父の仲は、最後の数年を除き、実に仲睦まじいものだったと、喬之介は思い起こしていた。そして、高秋が遠ざかったことで、奇妙なことに、両親と喬之介の仲もまた変わってしまったと認めざるを得ないのだった。

 高秋と懇意にしていた頃の父親は、不機嫌な顔を見せることもなければ、苛立ちを喬之介に向けることもなかったし、母親も何かを堪えているような横顔を覗かせることもなかった。

 いつ頃、彼らの間でボタンの掛け違いが生じたのかは、分からない。高秋の足が遠のくことになったその理由にあたるボタンホールは、彼が大学を卒業したからなのか、父親の単身赴任がきっかけだったのか、それとも別の理由があったというのだろうか。あるいは、余計なボタンの一つとして、喬之介という存在があったからなのだろうかとも考えたこともあった。

 しかし、今更想像したところでその外れてしまった穴は、もう二度と、決して、埋まることはないのだ。当然だ。ボタンである両親が、欠けてしまったのだから。

 


 『先生は、煙草を吸いますか?』


 須見が帰り際に振り返り放った言葉。 

 誰をどこで見かけ、そして誰と見間違えたというのだろう。

 あるいは何をというのか。

 次のクライエントとの面接時間が空いてしまったことで、須見の分析やカルテの記入に充てようと喬之介は、普段に於いては手自ら行う箱庭の片付けを、泉田に頼むべく窓から離れようとしたその時だった。

 喬之介のいる窓の方へ、身体を向けて立つ人の姿が見えた。

 一瞬で、全ての音が、消える。

 篠突く雨の中、黒い傘を目深に掲げている所為でその顔は認識出来ず、姿格好もまた雨の線が輪郭を茫然とさせ、黒い影の塊にしか見えない。

 ……誰だろう?

 喬之介が目を細めるや否や、見られていると気づいたとでもいうように、その黒い影は踵を返すと雨の向こうへ掻き消えた。

 途端、激しい雨音が喬之介の耳を叩く。

 音が、戻ったのだ。

 いつもの風景が違って見えるのは、雨のせいだからに違いない。

 窓枠に手を置いていた喬之介は、いつのまにか、そこに縋るように体重をかけ過ぎたことで、くっきりと深い跡の残った震える掌を見下ろしながら思う。

 その鈍い痛みを感じる掌を、喬之介は、きつく握り締めた。夢と現実の世界が、再び曖昧に薄れてしまうのを畏れているとばかりに、関節が白く浮き上がるほど、きつく。

 再び顔を上げた喬之介の両目は窓の外に向けられていたが、もう何も見てはいなかった。

 

 

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