5-3


 終わらない悪夢を終わりにしたい。


 これが夢であると信じたい喬之介は、切れ切れに呼吸をしながら這うようにして、歪な格好で横たわる母親に近寄り、そうっと優しく指先を落とした。

 ――お母さん?

 まだ温かく柔らかい。

 それなのに、虚空を見つめる目は喬之介の方を向いてはくれなかった。

 一際大きく雨戸を殴り付けた激しい風雨の音に、びくりと肩を震わす。

 思わず横たわる母親に縋り付いた。

 海から這い出る姿の見えない怪物から守って欲しいと、母親の肌に頬を寄せるも、柔らかいその感触にも関わらず、それが普段とはまるで異なってしまっていることに気づいて、はっとなって身体を起こす。肌が触れ合っているのに、通い合わない。生温い肉の塊を触っているかのような、その知りたくもない理由を、ようやく理解した喬之介は、ここで初めて本当の意味で慄いたのだった。


 どうやっても夢ではないのだ、と。


 母親はもう二度と、喬之介に柔らかな笑みを向けることもなければ、抱き寄せてくれることも、声を上げて笑うこともない。

 目の前にある、いつだって顔を埋めるだけで、喬之介の不安をぎゅっと押し潰してくれた母親の甘い匂いのする頬も、首筋も、背中を撫でてくれる温かな掌も、ただの塊でしかなくなってしまった。

 ……喬之介の父親の手によって。

 絶えず、ガタガタと雨戸を揺らす激しい風雨に紛れて、父親と高秋の怒鳴り合う声が聞こえる。

 喬之介は目を閉じた。見えなければ、全てはなかったことになりはしないかと、震える身体を母親の隣で丸め、両耳を塞ごうとして、手に持っているものに気づいた。

 薄く目を開けて、握りしめていた掌から覗く銀色の光を見る。眩いばかりの光が、喬之介の手の中にあった。

 繊細な線で描かれた模様。

 一筋ひとすじに込められた細やかな愛情が、絶望を前に投じられた光明のように、喬之介の掌の中で燦きを放っている。

 いつ訪れるか分からない終焉を怯えて待つのではなく、自らの手で終わりにすればよいのだと喬之介を誘う。

 手の中にあったオイルライターを、しっかり両手で持つと、指先で弾くようにして蓋を開けた。

 キンとした冴えた金属音が、喬之介の心の隅に巣食う闇を、裂く。濃く深く黯い中で蠢くモノが、ぞろりと動き、内側から飲み込もうとしているのが分かった。

 怪物は外にいるのではない。

 いつだって内側にいるのだ。

 轟く嵐の音は、絶えず聞こえている筈なのに、いま喬之介は、恐ろしいほど静かだと感じていた。

 震える指を動かした何度目か――


 ライターの着火する音が、鼓膜を擽る。




「……け。……のすけッ……喬之介!!」


 絞り出すかのような高秋の声で過去から引き戻され、我に返った喬之介が目にしたのは、須見の手の中にある火の点いたライターだった。

 意識を取り戻した高秋の姿に喬之介が安堵する間もなく、声を上げたことで、倒れたまま、もどかしげに茅花の方へと身体を動かそうとしていた姿に気づいた須見が笑う。


「先生、私は今回のことで人間というのは脆いようで、意外と頑丈に出来ているんだと知りましたよ」


 須見をこれ以上刺激しないように、ゆっくりとした動作でジャケットを脱いだ喬之介は、背後でいつ頃からか上体を起こしていた茅花に向かってそれを放ると、危害を加える意思も無ければ、何も持っていないことを誇示するかのように両手を上げた。


「須見さん、ライターから手を離して」

「どうして? まだ、何も終わってませんよ」


 喬之介は目の端で、茅花が放り投げたジャケットを胸に引き寄せ広げて、小さな子供のように顔と足のつま先だけを出しているのを捉えた。


「何をするつもりか教えてくれる?」

「ねえ先生、まだそんなことを言ってるんですか? 何をするかなんて、先生がいちばんよく分かってるくせに。火を付けるんですよ。あの嵐の夜のこと、さすがにもう思い出しましたよね? そういや最初、アンタの中は、他の誰よりも固く閉ざされていて、覗くのが難しかったな」


 くつくつと笑い声を上げた。

 こうしている間にも、毒々しいピンク色をした電子式ライターの着火部から指を離そうとしない須見は、指先をその火で以てじりじりと焦がし続けている。辺りには嫌な臭いが充満し始め、鼻に付くようになったが、須見は痛みも熱さも、少しも感じていないようだった。


「ほら、先生? ずっとこうしたいと思っていたんでしょう? 願っていたじゃないですか」


 須見の弛んだ皮膚が、やわやわと持ち上がる。また、笑ったのだ。

 その須見の笑顔を見ながら、思う。

 確かに喬之介はどこかで、ずっとこうしたいと、こうされたいと考えてはいなかったか? 怪物の正体が父親だったと知って、母親と同じように自分が殺されるのを、妹が殺されるのを、あの嵐の夜から待ち望んでいなかったと言えるか? 消えてしまいたいと、願ってはいなかっただろうか? 


 だからこそ、喬之介は――


「どうです? 早くぜーんぶ、思い出してくださいよ。アンタは、誰よりも上手く狂気を隠して生きてきたんだ。なぜなら、アンタはあの嵐の夜、こうやって」


 家中に、火を放った――


「…………僕が……そう、僕が」


 どっと記憶が押し寄せる。

 手に持っていた銀色のオイルライター。

 蓋を開け、震える指先で着火した。

 最初に部屋のカーテンに、火を付けた。

 それから落ちていた母親のスケッチブック。

 本棚から本を引っ張り出し次から次へと。

 まだ。まだ足りない。

 部屋を見渡し、火の付きそうなものを見つけては、片端から順に。

 途中で消えてしまうのもあれば、消えかけたと見せて勢いを増すものもあった。外の荒れ狂う嵐が、隙間から入り込み風を運び部屋の空気をかき混ぜる。

 やがて煙が充満する中、渦を巻くようにして大きくなった炎が天井を舐めるのを見ていた。


 そうだ。

 あの嵐の夜に、喬之介がしたこと――

 喬之介は、崩れるように膝を突き、須見に向かって上げていた両手をぱたりと落とすと身体を折って頭を抱え込んだ。

 あまりの愚かさに、いっそ笑いが込み上げて来る。

 箱庭の中の茅葺き屋根の家。

 誰が住んでいるなんて、どうして思ったのだろう。誰も居やしないのだ。家の中は陰鬱な黯い闇が巣食うばかりで何もない。

 居るのは自分自身の幽霊だ。

 目を背け、忘れたいと願い、閉じ込めた過去の自分自身だ。

 そしてまた――


 『大事なのは、忘れることだ』


 それは、哀訴でも呪詛でもなかった。

 高秋が、喬之介に向けた祈りの言葉。

 想い願いを込めた、高秋の優しさだった。


 サイレンが遠く微かに聞こえた気がした。

 パトロールを強化すると言った警官を思い出し、それが本当ならどんなに良いかと願わずにいられなかった。

 小刻みに喬之介の肩が揺れるのを見て須見は、宥めるような声を出す。


「先生? 思い出せたみたいですね。さあ、私が間違いを正しますから、もう大丈夫ですよ。邪魔が入って、やり遂げられなかったあの日の夜は残念でしたが、私が代わりにやり遂げてみせますからね? これで綺麗さっぱり消えてお終いですよ」


 須見が火の点いたライターを持ち、家の奥へ向かって歩き出そうとしたそのとき――


「……お終いなのは、貴方だわ」


 茅花の声と立ち上がる気配に、喬之介は顔を上げ、須見は動きを止めた。


「何をそんなに驚くの? 諦めが悪いのはお互いさまでしょう」


 身体に掛けていた喬之介のジャケットを床に落としながら、須見に向かって掲げた茅花の手には、内ポケットの中に入っていたスマホがしっかりと握られている。

 願望だと思っていた遠くに聞こえるサイレンの音は、凄い速さで徐々に大きくなり、今や確実にこの家を目指し、近づいて来ているのが分かった。


「黙ってるからって、何もしてないと思った? お生憎あいにくさま。喋らなくても通報は出来るのよ」




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