3-5
窓のない作業部屋から面談室へと移るそばから、ソファに深く腰を下ろすまでずっと、喬之介は横目でさりげなく須見を観察していた。沈み込むソファに身体を預ける須見の姿は、緊張したところは少しも見られないどころか余裕さえも窺わせる。
半袖ストライプ柄のボタンダウンシャツに黒い細身のスラックスとシンプルな服は、目立った汚れも着崩れもない。服装に関しては、以前と比べ取り立てて変化は見られないものの、整えられた髪の襟足に目を向ければ綺麗に刃が当てられ、ごく最近散髪へ行ったことが分かる。よく見れば髪型を少し変えたようだ。
前回の面談においての須見の取り乱した態度や、不眠を訴えたことから昼の散歩を促したときの反応を覚えている喬之介からすると、僅か一週間しか経っていないにも関わらずこうした落ち着いた態度や身形に構う余裕さえあることは、思いもよらないことだった。
強い違和感を感じざるを得なかった。
一人掛けの椅子に浅く腰を落ち着けた喬之介は、膝の上で両手を組み須見の方へ身体を傾ける。
「どうですか? 何か特に変わったと感じることは?」
それまでゆったりとソファの背もたれに背中を預けていた須見は、喬之介の言葉を待っていたとばかりに両膝の上に掌を置くと身を乗り出し、話し始めた。
「実は以前よりも、頭の中に沢山の映像が流れ込んで来るようになったんです」
高揚した気配で、見ようによっては嬉々としてさえ見える須見の言動に、喬之介は本人にそれと気づかれないくらいに目を見開く。
やはり、奇妙だった。
あれほど厭忌していた『視えること』を喜んでいるようにも取れることは、以前の須見とあまりにも乖離が大き過ぎる。
「そう……頭痛は? どうですか? 最初の話では、映像が流れ込んで来るときには頭痛を伴うと言っていたけれど、それも前より酷くなったり?」
喬之介の質問に、須見の両目が、ぬらりと底光りしたように見えた。
「いいえ、分かったんです」
「いいえ? 違うということ? 分かったとは何が分かったんだろう。頭痛は酷くなってないのかな?」
「はい。頭痛は、すっかり良くなりました。すっかり、と言うのは少し言い過ぎかもしれませんが。ともかく前ほど頭は痛くならないんです。分かった、というのは検査しても分からない筈だってことです。いくら検査しても異常が見つかるわけなんてないんですよ。頭痛の原因は自分にあったんですから」
熱に浮かされたように早口で捲し立てる須見を、喬之介は静かに見つめ返す。
「それは……」
「つまりですね。私が頭の中に入り込んで来る映像に拒否感を抱いていたことが、頭痛の原因だったんですよ」
「頭痛は拒絶反応だったと言いたいのかな」
「拒絶反応……そう、そうです。その証拠に……証拠という言い方も変ですが、視えることを受け入れてからは確実に頭痛は軽減してましてね」
「この短い間に、受け入れることが出来るようになった、その心境の変化は、どこから来たんだろう?」
喬之介の言葉に、須見は心持ち首を傾げると下から掬い上げるように、目を向けた。
「気づいたんです」
「気づいた? 何に?」
勿体ぶった言い方に、思わず眉を顰めてしまった喬之介を見て、須見は唇を歪め薄く笑う。
「視えることの意味に、気づいたんですよ。これを心境の変化と言って良いのかどうかは、分かりませんが」
「意味……」
「ええ、そうです。頭の中に他人の過去や未来の映像が入り込んで来る意味です。つまるところ、どんなことでも物事には意味があって理由があるじゃないですか。そうでしょう? 違いますか? 違いませんよね。だとしたら、と考えれば考えるほど答えは一つしかないって気づいたんです」
言葉を重ねる毎にに益々興奮してゆく様相の須見だったが、ここに来て効果を狙ったように一呼吸置いた。上目遣いのまま喬之介を見ると、徐に口を開く。
「……先生は、何だと思いますか? 分かりませんか? 手助け、ですよ。彼らを正しく幸せにする手助けをするため、私は選ばれたんです」
反射的に、誰に、と口にしそうになった喬之介は、耐えるように唇を引き結んだ。
そもそも、正しい幸せとは誰にとって正しいとするものなのか。また、過ぎ去ってしまった物事を修正することなど、そんなことは誰にも出来ない。
幻覚のみならず、幻聴も聞こえるのだとしたら……。
やはり、脳や脳波に異常を認められなくとも精神病を疑わざるを得なくなるが、しかし。喬之介は何も言わず、口を真一文字に結んだまま、須見をただ見返していた。
すぐ近くで顔を突き合わせ、目を逸らすことのない須見を見て喬之介は、出し抜けに、これまでに感じていた違和感の正体を見つけた。
真っ直ぐに視線を合わせることに躊躇いを感じていない須見の態度も
「選ばれた、と言っていたけれどそれは、何か声が聞こえたの?」
「先生……幻聴が聞こえるのかって言いたいんでしょう? まさか、聞こえたりなんかしませんよ。私は、至ってまともです」
自分はどこかおかしいのではないか、と悩む人の方が往々にして正常であり、自分はまともで周囲がおかしいのだとする人の方が道を外れていたりする。
以前と比べ須見は明らかに後退していた。
だがこれまでのクライエントの中には、好転反応とでもいうようなものを見せる者もあり、一時的に悪い方へと向かった後に治癒の効果が現れることがあるということも経験しているだけに、判断は難しいと感じるのだった。
「選ばれたなんて、どうしてそう思ったのかよかったら教えて貰えないかな?」
気のせいかもしれない。だが、そんなことも分からないのか、と須見が鼻で笑ったように見えた。
「視えるからですよ。どうして他の人には視えないものが、私には視えるのか。他の人には出来ないことが自分には出来る。どうやっても選ばれたとしか言えないじゃないですか。この一週間で考えて分かったんです。まあ、きっかけとしては前回の面談の後、鎮痛剤の効かない酷い頭痛で頭を抱えているときに、いっそのこともう死んでしまおうかと思ったことなんですけどね」
「自殺を考えたんだね」
「だって、理不尽じゃないですか。見たくもないものが視えて、頭まで痛くなる。この症状が治るか治らないかも分からない。たまったもんじゃないですよ。鎮痛剤はちっとも効かない。駅のホームのベンチに座って、目を瞑って痛む頭を抱えているだけ。どうしてこんな目に合わないといけないんだって……いつになったら終わるんだろうと。都合よく目の前には駅のホームがある。飛び込んで終わりにしたって、悲しむ人なんて誰もいない。だったら、それが今でどうして悪いんだってパッと目を開けたんです。立ち上がろうと顔を上げて、隣に座っていた澄ました顔の女性の方を向いたら。ええ……すぐに視えましたよ。色んな断片が。その女性の過去が、もしかしたら未来かもしれませんがね。それを視ながら思ったんです。
これが最後なら、何が視えても、何を視せられても私には関係ない。
そうしたら不思議なことに憑き物が落ちたように、すとん、と軽くなった。酷い頭痛が気にならなくなっていたんです。どうしたことかと考えましたね。それで分かったんです。今まで怖がっていたのがいけなかったんだ、視えることを怖がり、拒絶していたのがいけなかったんだと」
「視えることを素直に受け入れた、ということ?」
「まあ、つまりはそういうことなんでしょう。開き直ったんですよ。もうどうでもいいやって」
「なるほど」
「視えるってことは、結局のところ目に映る景色と何ら変わりはないんです。そうでしょう? 目に入って来る景色で頭が痛くなる人なんていないですからね。そう気づいてしまえば、視えることに悩む必要もないんです」
いっそ得意げとも見える顔で須見は、喬之介に向かって言うのだった。
「だとするなら視える内容にも意味はないとは考えなかったのかな? 目に映る景色が全て意味のあるものではないように、頭の中に入り込んで来る映像もまた意味がないものだとは……」
「先生も知っているでしょう? 答え合わせをした結果がどうだったか、話して聞かせましたよね? 驚くことに、私が視ているものは幻覚じゃないんです。凄いと思いませんか? もちろん先生の言いたいことは分かります。景色と同じ、目で見ているもの全てに意味がある訳じゃないって。でも私の頭の中に映像が『視えて』いるということは意味がない訳ないじゃないですか。なぜなら景色は目が見える人ならば誰にだって見えますが、目の見える人が誰でも他人の過去や未来が視えるわけじゃない。ということはですよ? それだけみても私は他の人とは違う、選ばれた特別な人間であるってことなんです。その特別な人間が見ているものに意味がないと言えますか? 視せられている物事に意味はないと?」
須見の顔の皺が微かに震え、弛んだ皮膚の上、水面に広がる波紋のようにゆっくりと優越感を滲ませた笑みが浮かび上がるのを喬之介は見た。
「今になって『手助け』という風な考えに至ったのはどうして?」
「過去なのか未来なのかは分かりませんが、私に視えるのは、恐ろしいものばかりなんです。誰かに助けを求めたくとも、求められないものを私に視せている。つまり、助けられるのはそれを唯一視ることが出来る私に他ならないんじゃないかと思ったからです。彼らを正しく幸せにする為に選ばれた私がいるんです。ね、そうでしょう? じゃなければ視えたりはしませんよ。先生もそう思いませんか?」
「具体的に須見さんに何が出来ると……何をしようと思うの?」
「不甲斐ないことに、それがまだ分からなくて……でもね先生。きっと何か方法がある筈なんです。その人たちを幸せにする方法が。そうは言っても、まずは身近な人から順に助けてあげたいですね」
幸せにする方法?
そんなものがあるとは思えない。
幸せとは、他人が齎すものではない。
自らが気づくものなのである。
そうであるにもかかわらず、他人の過去や未来を幸せに変えるとは、須見に何が出来るというのだ。
やめておきなさいと喬之介が言うのは簡単である。だが、それを言ったところで須見が素直に聞くような時宜は過ぎてしまっているのは、顔を見れば分かった。また、やめさせるための充分に納得させるほどの言葉を、すぐに用意することは出来ない。
自分を特別だと思っている須見だが、それでも万能であるとまでは思っていないところに可能性を見た喬之介は、であるならば、と考えた。
言える言葉は、ひとつしかない。
「そう……では、どうすれば良いか分かったら、教えてください」
喬之介に言われたことを少しの間、考えるような素振りを見せた須見だったが、ややあって納得したように首を縦に振った。
「確かに、言われてみれば先生は今の私にとって一番身近な人ですから……ええ、分かりました。そうですね、任せてください」
先ほど須見が製作した箱庭を思い出す。
枠外に置かれた造型物。
単純に、不要な物を外へ出したとも考えられるが、枠外にまで世界が拡張されているとするならば、自我の把握し得る範囲を越えて表現されている可能性がある。
須見と向かい合っているうちに喬之介は、思い掛けず、眼が穴に見えると言っていたその言葉を思い出した。須見の言葉を、そのまま借りるなら『まんまるで、クレヨンで塗り潰したような真っ黒の、二つ並んだ穴』だ。
目の前の須見の顔。
先ほどから表情を微動だにせず皺のくっきりと彫り込まれた顔は、能に使われる
深く刻まれた皺は、苦悶なのか愉悦なのか嘲笑なのか如何様にも見てとれる。
ぐっと喉元に迫り上がって来る叫び声を堪えた喬之介は、奥歯を噛み締めたまま息を止めた。
異様? 奇怪?
そんな言葉では片付けようもない。
「ねえ、先生? 私は、今に助ける方法を見つけてみせますよ」
――待っていてくださいね。
喬之介は、須見の顔に薄く開きかけた黯い底なしの穴から目を離すことが出来なかった。
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