蹄跡の37

 大井は現在第3レースが行われている。吉田もまた、このレースに依頼が無かったため、石川商工会議所連合会の犬養会長に頼まれてカンナの面接をしていた。特命を受けて、主に小野師の姿勢について調べている。


「小野さんは真面目そうやな」


「はい、とても馬に真剣に向き合ってる女性です!」


 70年ほど前、大井に厩舎を構えた曾祖父から数えて4代目に当たる小野師。大井に根付いた家系だが、名門というほどの名門でもない。祖父の代に勝島王冠を取って以来、重賞勝ち鞍は無く、重賞出走も小野師の代にはまだ無い。


「まあ、昔気質の職人やな。お前の根が真面目やし、悪いようにはせんやろ」


 自分とは性格が合わないのか、小野師の依頼は打診すら来ない吉田。はじめましてのレベルなので、この面談は実りあるものである。


「そういえば、女の子が増えたんだってな」


「あ、紅葉ちゃんですね?」


「そうそう、船橋で勝ったときに2着やった子。どうなん?」


「どうって」


 カンナは今日、この後に控える勝負のことと発端を話した。


「言い分はわかるんですけど」


「ああ、そりゃあ紅葉チャンが正しいやろ。責め馬はいかにビッシリ追って、次に疲れを残さないのかが重要やん」


「うう…」


「腕の見せ所ってやつやん。まあ、追うことに精いっぱいで本番に疲れ遺してそうやな。紅葉チャンは」


 きっちり追い切るのは当然として、いかに馬の疲労を少なくとどめるか。乗り手の腕の見せ所を、新人騎手ゆえに勘違いしていた。追い切ることも疲れを残さないことも重要なのだった。


「まあ、経験がまだないからキツイわな」


「はい…」


 サンドイッチ最後の1切れを飲み込みながら、カンナは応えた。




「なるほどなあ」


「はい!だから、負けたくないんです!」


 一方の紅葉は、唯一話せる騎手になっていた安納騎手に勝算を聞いていた。


「まあ、ビッシリ追うのは当然だからなあ」


「はい!だから、勝ちの方策を!」


 夜長紅葉はまだ勝ち鞍が無い。この間の船橋での2着がここ1か月で初めての馬券圏内で最高順位だった。


「才能が無い…」


 金沢じもとで重賞を勝って、堂々と南関まで遠征しているカンナとはそもそも立場が違うのだ。それに張り合う気持ちはあるが、それでも負けているという自覚はある。


「まあ、夜長さんはまだ勝った経験がない」


「はい…」


「俺の1年目の成績、知ってるか?」


「はい?」


 ウィキケフィアを見れば載っているだろうが、それがどうしたんだろう。


「300鞍ももらって3勝したんだが、まあな」


「そうなんですか」


 地方競馬の有望な新人なら、1年目から100勝することも無いことではない。現在の2000勝騎手がその数字は、少なく思えた。


「6月デビューで初勝利が9月で、その次が12月だったんだ。もっと簡単に勝てるものだと思ってたんだが」


「へえ…」


 自分も6月デビューで、2年目だが1勝もしていない。


「そこじゃないんだ」


「え?」


 1勝でも勝てているのと勝てていないのとでは、天と地ほどの差があるだろうに。


「人間な、勝てない時は勝てないんだ。でも、勝てる時はどんな馬でも勝てるもんだ。調教もそんなものだと思う」


 つまり、追い切っても勝てない時は勝てないし、緩く作っておいても勝つときは勝つ。そう言いたかったのだった。


「でも、そんなの!」


「うん、なら自分はいる意味があるのかって思うよな。あるんだよ。馬が仕上がってるかとレースに勝てるかってのは関係ないんだから、騎手が勝たせてやらにゃ」


 レースにおける勝因は人対馬が3:7。安納が言っているのは、馬が決める7割はどの馬も同等に持っているものだから、騎手が3割のうちで決めてやる必要がある、ということだった。


「なるほど」


「ちゃんとサラブレッドで能力検査で合格するほどの馬だから、どの馬も素質はあるんだよ。だから、騎手が勝たせてやるんだ」


 一通り話し終わった安納は、姿勢を変えて前のめりになった。


「さて、勝つための算段、聞きたいんだったな?」


「…はい!」


 紅葉も姿勢を正した。安納が頷いて続ける。


「逃げろ。どんなことがあろうと前にいろ。競馬は、一番前を守り切ったやつが勝つんだ」


「そりゃあ、直線よーいドンだろ」


 同じタイミングで、吉田も答えた。彼はカンナがふと漏らした「競馬ってどうするのが勝てるんですかね」という問いに、持論を挙げる。


「3,4番手に付けて、前を牽制しながら脚を溜めるんだよ。逃げはリスク高いやろ」


「やっぱりそうなんでしょうか」


「そうなんやよ。俺はこれで2000勝してきたんだ」


 片や逃げを主張し、片や好位抜け出し。同じ2000勝騎手でも考え方はいろいろらしい。


「いかに良い馬を手の内に入れてやるか、それだけや」


 そう語る吉田の横顔には疲れが見えていた。

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