蹄跡の36

「だから、もっと追わないとダメでしょ!?」


「だ、だって!」


 大井競馬場で小野厩舎の馬を調教している騎手同士で何やら言い争いをしている。片方は金沢から参戦の霜月カンナ。猛然と問いただしているのは船橋から泊りの夜長紅葉。競馬場には珍しい甲高い声に、周囲の乗り手たちも珍しそうに覗いてくる。


「この子達、もう来週の月曜がレースなのに!」


「でも、レースに疲れを残すのもダメだよ!?」


 どうやら、カンナが最終追いきりなのにしっかりと追っていないように見えたので、紅葉がお怒りらしい。仲裁に来た調教師にも言い募る。


「先生!こんなんじゃ困りませんか!?」


「うーん…」


 正直、小野師としてカンナの思想に共感することろが大きい。調教やレースで疲れを溜めることは、競走馬の安定的な出走に支障が出る可能性がある。経営的にはカンナの方が優しい。しかし、紅葉の言い分の方が正当性があるは理解していた。


「ちゃんと追い切って、レースで走れないと!この子達にもオーナーさんにもファンにも申し訳ないでしょ!?」


 つまるところ、そうなのだ。力を存分に発揮してくれるものと馬を預けてくれる馬主オーナー、応援してくれるファンの方々。今後を考えた弱い調教は、見える範囲ではそれらの期待を全く裏切っている。


「うーん…」


 小野師もわかっている。金沢は頭数が少なく、定期的に出走数を稼げる馬はありがたいだろう。カンナの師匠である延師自身も馬の今後を考えていく方針を全面的に打ち出す人だ。半面、橋本師は鉄砲でもその一戦にこだわって調教する職人タイプだ。


「師匠の方向性の違いね…」


 カンナが人に対しても当たりが柔らかいこともあり、紅葉との仲はそれほど悪くない。「金持ち喧嘩せず」の絵美里もいるので、女子3人で固めたのは良い手だったと思っていたのだが、こういう難点があったとは。


「わかった。わかったわ。なら、こうしましょう。霜月さんはプレップで、夜長さんはアースに騎乗して、同じレースで対戦しましょう。着順で結果を決めるの。ね?その後は勝った方を尊重してお互い水に流すということで…」


 幸い、カンナが調教をしていたプレップと紅葉のトライアースはそれぞれC1クラスの八組と十組に所属する馬だ。番組編成的に、出走予定のレースを被せることができた。


「よっしゃ!望むところよ!ギッタンバッコンにしてやるわ!」


「え、ええ…」


 紅葉が小野厩舎にやってきて1週間、カンナは毎日2,3鞍が与えられていたのに対し、紅葉は1週間で3鞍という不公平さ。彼女のフラストレーションはたまっていた。


「実力というやつを見せつけてくれるわ!」


「う、うーん…」


 勝負事の世界に身を置いているとはいえ、馬を勝たせることだけが役目だと思ってきたカンナにとって、騎手対騎手の形になってきたことに戸惑いを隠せない。元々、のんびり生きてきた彼女だけに、騎手としてライバル視されることには慣れていなかった。


「もう追い切りは済んだんだから、調教方針の結果が出ているはずよ。勝負がついたら、私の指示に従ってもらいます」


 元々、自信を不遇だと思っていた紅葉からしたら儲けものであった。あんな腑抜けた調教で、本番で力を出し切れるはずがないのだ、と。




 そうしてやってきたのは大井開催1日目。この日の6R、17:10発走で「C1八 九 十」(右回りダート1600m)が組まれている。1Rの発走時刻、カンナの姿は騎手控室にあった。


「もぐもぐもぐ…」


「食うやん」


 カンナは調整ルームで作ってもらったサンドイッチを頬張っていた。ハムとゆで卵のみを挟んだ、いたってシンプルなものだ。


「食べないと動けないことないです?」


「検量が怖えーわ」


 若き天才と言われてきた吉田寛人ももう、アラフォーである。机の向こう側で食パン2枚とハム1切れ、卵1個を食べるカンナの姿はまぶしく見える。


「でも、足りないって言われたことがあって」


「あーね」


 金沢の騎手の間では有名なことだった。「カンナちゃん後検量事件」である。レースに出走する騎手は普通、レースの前後で体重計測を受け、そこでレース前の全装備状態から1キロ減るとそのレースを失格処分になってしまう。カンナはその後検量でなんと2キロもの不足を計測し、どこに重りを捨てたのだと大騒ぎになったのだった。結局、全レースが終わった後も大捜索して、何も見つからず、カンナは証拠不十分で制裁1週間(騎乗停止は2開催日)とされた。


「動いてカロリーを消費したんだと思うんです」


 その日カンナは空腹だったが、体調は良すぎるぐらいだったので、代謝が働いて減ったのだろうと思っていた。


「そんなことあるかあ?」


「でも、何もしてないんですから」


 普段から体重維持には苦労しておらず、むしろ食べないと何もなくなっちゃうとばかりに食い気味なカンナであった。

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