蹄跡の22
今日はアキノドカの最終追い切りの日。今日を終えれば、後はもう強い負荷のかかる調教は無い。東京2歳優駿牝馬は地方競馬で一番大きい2歳牝馬の重賞なので、調教師こそ金沢にいるが、暮内オーナーが多忙の合間を縫って見学に来ていた。
「オーナー、ようこそいらっしゃいましたね!」
「ああ、温井さん。アキノドカはもう?」
「はい、ウォーミングアップしてます。最近は小野先生のとこの牡馬にお熱でしてね!」
「ほう」
あの子はどの馬にも、牝馬にでもお熱だったと思うが…とは言わない。楽しくやっているなら何よりだと思うオーナーである。
「いやあでも、オーナーが今のノドカを見たら驚きますよ。だいぶ別馬になってきましたからね!」
「ほう」
先ほどからの口ぶりだと、何か変化があったということらしいが。
「にゃー」
「む」
暮内の傍に猫が近寄って来た。金沢にもいた気がするが、大井にも猫は飼われているのか?
「おっ、手塩。オーナー、この猫がノドカのセラピー役でしてね」
「手塩…というと、金沢の猫と同じ…?」
「ええ、同じ猫ですが」
「ほう」
何故同じ猫がここに?と俄然、興味が湧く。
「いや、金沢を出発するときにノドカが暴れまして。しょうがないから手塩を放り込んだら、大人しく乗り込んでね。こっちに来てからも手塩と置いておくと、なんとなく大人しいんですわ」
「ほう…猫などの小動物は馬の気性難に効果があるとか無いとか噂になっていましたが」
実際にあった、と言われては驚きを隠せない。しかも、自分の所有馬に効果があったと言うので、驚きは倍だ。乗り気ではない大井遠征だったが、結構、楽しみになって来た。
アキノドカが3馬身前を行く位置、コウタイハヤテが後ろから追走する形で併せ入り。500m地点辺りで一度、追いついてもらって引き離す…までが最終追い切りのプランである。
「アキノドカが先行、ですか」
「ええ、今はできますよ。まあ、追いかける方が強いのは確かなんですが、最終なんでね。確認だけしときたいんですわ」
「確認、ですか?」
それは何の…と言いかけたところで、もう1人の観客が来た。
「あらあら、初めてお目にかかります。暮内さん」
「お、ああ…小野先生の…いや、もう小野調教師でしたな。失礼。年を取ると、いつまでも昔のことを引きずってしまって」
「あら?お会いしたことがありましたか?」
コウタイハヤテの管理調教師は小野灯調教師。自分の管理馬も一般競走とはいえレースに出るので、最後の調教を見守りに来たのだ。その調教相手の馬主は自分に会ったことがありそうな口ぶりで。
「いえ、何かの重賞でね…先生は当時、小学何年生でしたか」
「そうですか…父とはきちんと面識があるのでしょうね…」
単純に覚えていなかった不手際と、どうしても顔の広さで父親に劣る自分。全く度し難いと嘆く。
「ええ、お父上とは何度か。馬を預かっていただいたことは無いですがね」
「えーとですね、ご両人。もう発走してしまいました…」
「え」
慌てて2人がスタート地点の方を向くと、確かに2頭、鹿毛の馬が走り出していた。3頭分の差が少しづつ縮まって行く。
「お、おお…アキノドカが一応、ちゃんと走れている!」
「あら…後ろが気になるお馬さんだと聞いていたけど…」
イメージと異なるアキノドカの走り。見守る2人は意外だと驚いている。
「すごいでしょう。セラピー猫・手塩センセイの効果は?1週間でこの通りです」
今までのアキノドカなら500mと言わず、100mもかからずで追いつかれていただろう。そして、そこから差は付けられなかった。
「おお!」
「あらぁ…」
最後300m。アキノドカは鞍上・カンナが促すと、全身気勢を強くする。小野厩舎の絵美里がコウタイハヤテを追うが、じわじわと差が付いていき…
「すごいじゃないですか、温井さん!」
「さすがは重賞馬ねえ…!」
アキノドカはきっちり1馬身ほど差を付け、見事に先着したのだった。
「成功や…!手塩センセイ様様!」
この調教は温井の肝いりである。今なら前からでも行けるのでは?と思った温井は常に無い情熱を持って、この策を推進したのだ。
「ええ、見事ね。競馬の幅が広がるのだもの。ウチのハヤテだって、大井ではそれなりの位置の馬なのに」
「ええ、そうでしょうそうでしょう!馬と騎手も褒めたってください!」
策がハマった温井は鼻高々だった。果たして、その調子は本番後まで続いているのかどうか?
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