第42話 【シノの過去5】
夢だからかな。味はちゃんと思い出せない。もどかしいけれど、それでもたしかに言えることが一つある。それは、ヒデさんの卵焼きはとびきり美味しいってこと。
「おいしーい! ……でも、しょっぱい卵焼きが食べたいな」
贅沢を言っていいのなら、ヒデさんの腕前で作られたしょっぱい卵焼きが食べたい。今ならそうやって伝えられるのに。
『おれも、この卵焼きはだいすきだけど、しょっぱいのが食べたいな』
ようたろう君も同じことを言う。
『……そうか。二人とも、甘い卵焼きよりもしょっぱい卵焼きの方が好きなんだね』
ヒデさんの顔は逆光でよく見えない。私がわかるのは、ヒデさんの声だけ。けれど、その声色は決して落胆しているものではなく、むしろ前向きなもののような気がした。
『あ、二人ともいけないんだぞ。貰ったものに文句を言ったらダメだよ』
かいと君が私たちを指差す。おっしゃる通りだ。
『ははは! かいと君もいい子だなあ。ありがとうね』
大きく笑ったあと、ヒデさんはかいと君の頭を撫でる。
『……ごめんなさい』
ようたろう君がしょんぼりとした表情で頭を下げる。
『いや、いいんだよ。正直に言ってくれた方が私としては助かるんだ』
「……助かる、って?」
ようたろう君と同じように謝ろうとした私は、ヒデさんの言葉に首を傾げる。
『実はね、私も本当は、甘い卵焼きよりもしょっぱい卵焼きの方が好きだったんだよ』
『ええ〜? そうなの?』
ようたろう君が驚く。
『じゃあ、どうして甘い卵焼きを作ったんですか?』
ようたろう君以上に驚いていたのがかいと君だった。
『私の大好きな人が甘い卵焼きを作ってくれたから。それも、とびきり美味しいやつ。
その卵焼きを食べる前、私もようたろう君やなつきちゃんと同じで、しょっぱいのが食べたいなあ、なんて思っていたんだよ。でも、一口食べたらもう……! 甘いのだとか、しょっぱいのだとか、そんなことはどうでもよくなったんだ』
『その卵焼き、食べてみたいな』
目を輝かせながら話すヒデさんに、ようたろう君は無邪気に答える。
『……私も。もう一度食べたいな』
一瞬だけ、ヒデさんが少年に見えた。
『一回だけ、その人は私にその卵焼きの作り方を教えてくれたんだ。私が甘い卵焼きを作る理由は、その人の味を守りたいと思ったからなんだよ』
五歳の私には難しい言葉がところどころにあって、ヒデさんが言っていることを全てを理解できたわけじゃないけど。それでも伝わる。今の私が表現するなら、心で会話をしている、そんな感じ。
『だから、正直に言ってくれると嬉しいんだ。また頑張ろうって思えるからね』
ヒデさんの中から、少しずつ少年の影が薄れる。
きっと、今のヒデさんの生きがいは、美味しい卵焼きを作ることなんだろう。
「なんだかステキなお話……」
私はこの前お母さんに童話を読んでもらった時と同じような満足感に浸りながら、そんな言葉を漏らす。
『ありがとう、なつきちゃん』
『おれ、ヒデさんの卵焼きなら毎日食べたいな』
ようたろう君の言葉は、どこまでも真っ直ぐだった。ようたろう君も私と同じで、全てを理解していなくても、なんとなく心で感じているんだろう。
「あたしも」
『なんだよ二人とも。しょっぱいのが好きって言ってたのに』
かいと君が少し拗ねたような言い方で割り込んでくる。
『かいとは食べたくないのか?』
『食べたいよ! ぼくは甘いのが大好きだから!』
『はっはっは! そうかそうか。嬉しいなあ……』
ヒデさんの瞳から、涙が一粒、こぼれ落ちた。
『あれ? ヒデさん、泣いてる?』
涙に気づいたようたろう君がヒデさんの顔を覗き込む。
「ヒデさん大丈夫?」
私も心配になって声をかける。
『……ああ、大丈夫だよ。ごめんね』
『何か悲しいことでもあったんですか?』
かいと君の声に、ヒデさんはハットを被り直しながら答えた。
『……私の大好きな人に、卵焼きのレシピを教わった時のことを思い出したんだ。もうずいぶんと昔のことだけどね』
『どれくらい昔なんですか?』
『……どれくらいだろうなあ。もう、七十年くらい前かなあ。君たちのお父さんやお母さんはまだ生まれていないと思うよ』
『七十年?』
ようたろう君が指を折って一つずつ数を数える。
『……えっと、えっと』
一生懸命指を折るその動作は、二十を数えたあたりで止まってしまった。
『わかんなくなっちゃった』
そんなようたろう君の仕草は、今の私にはとても愛おしく映った。
『ははは。少し難しいよね。でも、よくわからないくらい昔ってことなんだ』
『……でも、よく七十年前のことを今でも覚えていますね。すごいや』
『……そうだなあ』
『ぼく、昨日食べたご飯も思い出せないから……』
かいと君はそう言っておどける。
『どうして覚えているのか。それはきっと、忘れたくないんだろうなあ。大好きな人も、卵焼きの味も。そして、思い出のコーラも』
ゆっくりと沈む太陽の光。東屋はそれを少しだけ遮ってくれる。
そよそよと吹く風は、東屋と友達みたい。日差しのように遮られることもなく私たちの元にやってきては、私たちの体を撫でるように去ってゆく。
『忘れるってことは必要なんだけど、悲しいことなんだよ』
ヒデさんの声。少しだけ、真面目な。
その声に呼応するように、風が強くなったような気がする。
『どうして悲しいんですか?』
『明日幼稚園に行ったとき、君のお友達が君のことを忘れていて、一緒に遊んでくれなくなったら……悲しいよね』
『うわー、それってすごい悲しいなあ……』
「あたしなら泣いちゃう」
ようたろう君や、かいと君、初土幼稚園のみんなが私のことを忘れてしまったら? そんなことを考えると、胸が苦しくなる。不安に押しつぶされてしまいそうだった。
『でもね、僕たちは忘れるから生きていけるんだよ。嫌なことをずっと覚えていたら、それこそ泣いてしまうな』
ヒデさんが空を見上げる。
日差しはだんだんとオレンジ色になり、風に揺れる葉っぱはとても綺麗に輝いて見えた。
『難しくてわかんねえや』
ようたろう君は上を向く。
『ぼく、なんとなくわかるかも』
『え、ほんとかよ!』
上を向いていたようたろう君が、焦ったような声をあげる。
『ははは。焦らなくても、いつかわかるよ。
忘れることは悪いことじゃない。忘れられても仕方がない。ただ、僕は、僕だけはずっと忘れない。君たちとこうして過ごす時間も、彼女との時間も……』
ヒデさんの声に、私は言いようのない不安に襲われる。
今の言い方はまるで、私たちがいつか今日のことを忘れてしまうかのような。
『君たちも、忘れたくないって思ったものを大切にしなさい』
私の横で、ようたろう君が小さく頷く。その横顔は、彼に似ているような気がした。
——ああ、きっと大丈夫だ。そんな根拠のない自信がふつふつと湧いてくる。
私は今、こうしてこの瞬間を思い出している。きっとようたろう君も、いや、ようたろう君なら必ず覚えていてくれるはずだ。
そう考えると、なんだか心が軽くなる。うん。きっと大丈夫——。
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