遭遇(その4)

「イゼルキュロスは、どこ?」

 少女はそう口走ると、後ずさるノイエににじり寄ろうと、一足飛びに間合いを詰める。

 本人は軽く接近したつもりだったのかも知れない。だが急に飛びかかられて、ノイエはびっくりして思わず尻餅をついてしまった。

 少女の方も、ノイエに急に身を預けた格好になっていたため、つられて一緒に倒れてしまい、ノイエをまるで組み伏せるような形になってしまう。

 お互い、事の成り行きに面食らった表情を見せたが……少女はすぐに表情を変えて、ノイエに向かって言うのだった。

「……イゼルキュロスの、においがする」

 同じ名前が――名前だとして、その聞き慣れぬ語句がみたび少女の口から漏れた。たどたどしい言葉だったけれど、その場の二人には明瞭に聞き取れた。

「何なの、そのイゼ……何とかって?」

 エルが呆然としつつ、呑気に首を傾げる一方で、ノイエは組み伏せられた姿勢からなんとか逃れようと後ずさった。そんなノイエを逃すまいと少女が手を伸ばして……思いのほか膂力は強かった。ノイエのシャツの裾を掴んだかと思うと、そのまま無造作に引き寄せて、びりびりと引き裂いてしまったのだ。

 先ほど散々エルにしがみつかれて首まわりが伸びてしまっていたのもあったが、思いの外あっさりと布地が引き裂かれてしまって、ノイエもエルもびっくりしてしまった。だがその事実以上に、ノイエの表情は蒼白になっていた。

 引きちぎれたシャツの破れ目から、肩口の辺りの素肌が露わになってしまっていた。そこに、金釘が貼り付いたかのような目立つ古傷の跡が見てとれたのだった。

 ただ素肌が露出しただけなら二人ともそんなリアクションにはならなかっただろう。さすがに傍で見ていただけのエルも、それには表情を固くした。

 一糸まとわぬ少女に素肌を見られたという、照れや気恥ずかしさとは明らかに別種の緊張の色が、ノイエの表情にはありありと浮かんでいた。縫合のあとがくっきりと浮かび上がるその傷跡に、少女も面食らったようで、それこそ恐る恐ると言った様子で、そっと指先を伸ばしてそこに触れて来ようとするのだった。

「……やめてくれ!」

 ノイエはやけに鋭い口調で拒絶すると、少女の手を乱暴に振り払うのだった。

 振り払うというよりは、はたき落とすという強い拒否の仕草だった。先ほどまでとは打って変わった態度に、少女は一瞬唖然としたかと思うと、慌てて後ずさった。警戒からではない。ノイエの拒絶に、少女は驚いて萎縮していたのだ。

 申し訳なさそうに肩をすくめて、上目遣いにノイエの方を窺う。ノイエもばつが悪く思っているのか、傷跡を隠すようにしながら、ついと目をそらすのだった。

 エルは何も言わなかった。長年家族同然に一緒にすごしてきたのだから、その傷の正体を彼女が知らないはずがなかった。だから、どちらの態度も責めたり諫めたりする気になれなかった。

 だから彼女はただ、裸のまま悄然と立ち尽くす少女の背に、手にした毛布をそっと被せてやるだけだった。少女は少し驚いた顔を見せたが、拒みはしなかった。

 エルはちらりとノイエを見やる。不意に声を荒げた事を恥じているのか、少し顔が赤くなっているのが分かった。

 少女を警戒させないように、エルはわざとらしいまでににっこりと優しげな微笑みで笑いかけて、自分の名前を名乗った。

「私の名前はエル。……分かる?」

「……エル?」

「そう。それで、そっちのふてくされているのがノイエ。……あんたは? 名前はあるの? 口がきけるんなら、名前も言えるわよね?」

 返事があるかどうかは分からなかった。言葉はしゃべる事が出来るにしても、こちらのいう事が聞こえているのか、そもそも本当に言語を理解して喋っているのかも分からない。それともただこのような形に変貌を遂げたのがたまたまこの場所だったというだけで、生命体としてここで厳密な意味で今ここで生を受けたわけではないのかも知れない。だとしたらイゼルキュロスとかいう名前を最初から知っている事にも説明はつくが、あくまでも推論の域を出なかった。

 少女は名乗っていいものかどうかを考えこんでいるのか、しばし逡巡するような素振りを見せた。それとも単に、声を絞り出すのに意外に難儀していたのかも知れないが……ともあれやや間をおいてから、かすかに消え入るような声で音を紡ぎ出した。

「……メアリー、アン」

「メアリーアン? それが、あんたの名前なのね?」

 念を押すエルに、少女は無言のままこくりと頷いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る