悲鳴館の殺人
朝野鳩
1.part of Y.H.
雨の音に溶けるように、ピアノの残響が消えていく。私は肩越しに振り返るけれど、暗闇の
「
私の名前を呼ぶ声に、私は前を歩く
「
私は軽くそう言ったが、美穂の表情は暗いままだ。
館の主が奥の部屋で再度ピアノの鍵盤を叩いたらしい。あちらこちらから聞こえる音が、暗い廊下に響いた。
「怒ってるんじゃない。悲しいんだよ」
「どうして?」
「亡くなった母親のことを聞かれたから」
「そうか。なるほどね」
自分が頼んだのに、とは言わなかった。
十二月に入ったばかりの頃に友人の青木美穂経由で
美穂とは看護学校時代の同期で、クラスも同じだった。看護の道を歩み出した私たちは、ときに連絡を取り合い、ときに励まし合いながら、厳しい時代を生き抜こうとしていた。
学校を出てすぐ、美穂は親類の伝手で扶桑の家に住み込みで働き始めた。私は一年だけ大きな病院に勤めて、辞めた。あまりに多くの死が闇へ葬られていたからだ。
それで、探偵になった。
私は廊下で美穂と別れ、階段を上って使うように言われた客室に戻った。カーテンの開いた窓の外では、夜に重たそうな雨が降っている。壁の時計を見ると七時を回っていた。
かんかん、と壁から音がした。
音のした方を見ると、壁には金色の朝顔が象られている。蝶番で取り付けられた蓋は開いていた。高さは立った私の頭の上くらいか。朝顔からはやはり金色の管が壁を這い、天井へ吸い込まれている。伝声菅だ。朝顔からは知らない男の声が聞こえてくる。
「七時より夕食でございます。皆様、一階ダイニングへお集まりいただくようお願いいたします」
私は声が響き終わるまで、その伝声菅を見ていた。
この伝声菅こそが十年前、この家に呪いをかけた原因だった。
悲鳴館。
それがこの扶桑の豪奢な館に付けられた異名だ。
扶桑の人間が自らそう名乗っているのではない。悲鳴の記憶が人々に伝播し、その噂が広まっているのだ。
それには十年前の鐘一の母親――扶桑
夏美の死因は出血性のショック死で、それは胸をナイフで一突きされたことが原因だった。扶桑夏美は殺されたのだ。
ナイフは肋骨の間に突き刺さり、心臓に達していた。
そして胸を刺された夏美は、悲鳴を上げた。胸のナイフが抜かれる前に。
声楽家だった夏美のけたたましい悲鳴は伝声菅を伝い、館中に響き渡った。そのとき在中していた全員がその悲鳴を聞いたという。
今日と同じ、暗い雨の日だったらしい。
私が天井の高いダイニングへ行くと、美穂は既に末席に座っていた。上座の右側の端だ。庭に面した壁には大きなガラス窓が嵌めこまれているが、外が暗すぎて光は差し込んでこない。
細長いテーブルには白いクロスが敷かれ、その上には既に磁器の食器が並んでいた。私は美穂の隣に座って、小声を投げる。
「全部で何人いるの?」
「当主の鐘一さん、娘の
そう言った美穂の視線の先を見ると、車椅子の男性がタイヤを押してダイニングに入ってきている。歳は六十を回ったあたりか。豊かな白髪は頭の後ろで一つに括られ、赤茶色のジャケットを着ている。
「あなたが探偵さんかな」
男は私を見るなりそう言った。
「なぜ分かります」
「他に人がいませんから。珍しいですね、お若い女性で探偵とは」
「そうですか? ま、後に続く人間はいるでしょう」
私がそう言うと男は方を揺らせて笑い、私もそれに倣った。
「はじめまして。探偵の
「どうも。バイオリンを弾いております、
照山は美穂とテーブルを挟んだ対面の席に着いた。椅子は元々無かった。空いている席はこれで四つ。
「お客さんは、私入れて二人?」
「もう一人。音楽評論家の
噂をすれば影か、ダイニングにそのとき、赤いドレスを着た女が入ってきた。歳は恐らく四十くらい。目の周りを青く塗りすぎだし、口紅は赤すぎるようだった。
その女は私を見て、口角を僅かに上げた。挨拶をされたのか嘲笑されたのか私には分からなかった。
「西野原さんですか?」
「ええ……、あなた、誰?」
「探偵の、榛原夭といいます」
「探偵? そんなふうには見えないけど……」
私は紺色のロングスカートに白いブラウスを着ている。ブラウスの袖は二つ折っているし、髪は後頭部の高い位置で括っていて、確かに探偵といった風貌ではないかもしれない。よく言われることではある。
「それで、探偵さんがなぜ扶桑の家にいらしたのです?」
私にそう聞いたのは照山だ。西野原は照山の左隣に座った。
「ちょっとした依頼ですよ。他のお客さんと一緒になるとは思いませんでしたが」
「依頼かぁ。まさか、十年前のことで?」
「守秘義務がありますから、それ以上は聞かないでください」
私がそう言うと照山は目を細めて笑い、西野原は眉を顰めた。
壁の時計を見ると七時十五分だった。あと来ていないのは、当主と娘か。
私が時計から目を逸らして廊下に通じる扉を見ると、ちょうどそれは音を立てずに開いた。
「お待たせしましたかな」
入って来たのは、当主であり私の依頼人の、扶桑鐘一である。自分の家の中だというのにジャケットを着こんでいて、短い黒髪は後ろに撫でつけている。大柄だが威圧感がある訳ではなく、体全体に柔軟な雰囲気をまとっている。
見ると、後ろから白いブラウスを着た少女がついてきていた。髪は二つに結んでお下げにしていて、床に視線を落としている。
鐘一は唯一の上座の席に座り、その右手側に少女が座る。鐘一氏は「ほら」と少女を小突くようにして、何かを促す。少女は顔を上げて、
「こんばんは。扶桑朱乃です」
とだけ言った。それだけの自己紹介だったが、その声は私に澄んだ高い空を想起させた。ともすれば折れてしまいそうな、脆さを感じさせる声。それは、この少女の線の細さから感じ取ったものかもしれない。
「朱乃は、私の一人娘でしてね。今年で十六になります」
鐘一は朱乃から言葉を継いでそう言った。視線の定まらない朱乃は、どうやら緊張しているらしい。肩に力の入っているのが見て取れる。
朱乃の対面側の席はいまだ空いているが、執事らしき男はワイングラスをテーブルへ置き始めた。私は小声で隣の美穂に「あの席は?」と囁く。
「奥さまの席だったらしいよ。五年間、あのままだって」
鐘一の妻だった扶桑
私はふぅんと生返事をして、執事が赤いワインをグラスに注ぐのを見た。鐘一は照山と話を始め、西野原は表情を柔らかくしている。
夕食時、私を含めた客人が改めて自己紹介をした。いまこの館にいるのは七人。執事兼料理人の男は
悲鳴館は山梨県の、とある山の山頂付近にある。近い町からは歩いて一時間かかるらしい。私は自動車で山道を走って来たが、途中かなり危ない道があった。自動車が走るには細すぎて、私は道を間違えたのかと思ったのだ。
「その道なら、私も走ってきましたよ。と言っても、駅に車で迎えに来てもらったのですが」
私の話に反応したのは、照山だった。
「駒野さんに、ですか?」
「そう。お願いしましてね。車椅子でも乗れるというから」
「妻がね、車椅子だったのです」
そう言ったのは鐘一だ。妻と言えば五年前に病気で亡くなった由美子氏だろうけど、車椅子だったとは知らなかった。
照山は鐘一をちらと見てからワイングラスを手に取って、私を見る。
「榛原さんは、いつから探偵に?」
「学校を出て病院に一年勤めましたから、二年前ですかね」
「どうして探偵になったか、聞いても良いですか?」
「どうしてでしたかね。昔のことは振り返らないことにしています」
「まだお若いのに」
照山はそう言って笑い、鐘一も上品な笑みを浮かべる。西野原はなぜか、豚肉のローストを切り分けながら口の端を下げた。その左隣で、朱乃がこちらを見ている。
「探偵って、面白いですか?」
やはり折れてしまいそうな声だ。心なしか震えているようにさえ聞こえる。
「面白くはないよ。ただ、私がやらなければならないような気がしている」
「なんでですか」
「見てみぬふりが出来ないんだ。人はあまりに死に過ぎている。しかもそれが闇に葬られているのを、沢山目にした」
「青木さんとは看護学校の同期だとかで」
そう聞いたのは主人の鐘一だ。
「ええ、しかし、私には向かない道だったらしい」
「それで探偵を?」
「ま、そうです」
私は話を切り上げようとグラスのワインを口に含んで、その渋みを舌の上で転がす。鐘一はそれをくみ取ったのか、私と同じようにグラスに口を付けた。朱乃はフォークとナイフを持ったまま豚肉のローストを睨んでいる。
食事が終わって散会になった後、照山と西野原が鐘一に何か話しかけているのが聞こえてきた。探偵の性というか、私はそうしようと思うでもなく、聞き耳を立てていた。
「あとでお渡ししたいものが……」
「以前仰っていたものです……」
私はダイニングを出てホールに向かいながら、その会話の内容を頭の中で繰り返していた。
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