あしか亭奇譚

hot-needle

第1話 巨人リグの物語

 新月の夜、黒い山の中に二つの光が見えた。光はゆっくりと山道を上っている。光の正体は二人の男の掲げた松明だった。松明の光を受けて規則正しく並んだ木の列が見える。男たちは植林地の見回りをしているのだ。最近は木材の需要が増えていてこんな山奥にまで盗伐者が現れるようになっていた。盗伐者といっても徒党を組み武装した凶悪な連中だ。この山の木は質がいいことで知られている。そういう輩から木を守るのも木こりの重要な仕事の一つだ。


 彼らは首から角笛を下げていた。この角笛を吹けば、木こり小屋に起居している三十人ほどの仲間が直ちに武器を手に駆けつけることになっている。

 二人の男は白い息を吐きながら湿った山道を黙々と歩いていた。やがて沈黙に耐え切れなくなった若いほうの男が呟いた。

「さすがに寒くなってきましたね」

「もうすぐ冬だからな」

 もう一方の年かさの男が答える。

「早く雪が降りませんかね。雪が積もれば暇になるのに」

 冬は雪に覆われるこの山村では冬の仕事は限られる。雪が止んだ合間をぬって枝打ちや間伐をしなければならないし、道具の手入れも冬の大事な仕事の一つだ。しかし雪解けまで材木の伐り出しはないし、夜の見回りもしなくていい。だから多くの時間を家の中で暖炉を囲んで過ごすことになる。彼らの村では冬は家族持ちにとっては貴重な団欒の時間だし、独り身の男衆にとっては恋人と過ごす甘い時間だ。


 年かさの男がからかうように言った。

「お前はアデルさんのところのマーゴに早く会いたいだけだろう?」

「ええ、まあ」

 髪の匂いと熱く弾んだ体を思い出して若者はにやりと笑った。

「アクリさんも奥さんと子供さんに早く会いたいでしょう?」

「まあな、もう二週間も村に下りていないからな」

「早く雪が積もってもらいたいですね」

 若者のその言葉を最後にまた二人は黙々と山道を上り続けた。

 四半刻ほどして山道が途切れた。ここから引き返して来た道を木こり小屋まで下れば見回りの仕事は終わりだ。しかし、振り返った二人の足が止まった。

 さっきまで上ってきた道の上に何かがうずくまっている。


 最初に異変に気付いたのは木こり小屋の物見櫓にいた見張りだった。彼は見回り二人の松明の火が消え、二百数えても火がつかないことを認めるや、躊躇いなく櫓の半鐘を叩いた。すぐに手斧や棍棒を持った男たちが山道を上って行く。だが、彼らが見つけたのは見回り二人の引き裂かれた死体だけだった。



 ナタ州ミカキ村のリグは身の丈七尺に達しようかという巨体と暴れ牛を組み敷く剛力とその醜怪な面相で知られていた。鼻は低く広く潰れ、口角は耳の下まで達し、歯は太く先が尖ってまるで肉食獣の牙のようだった。何より不気味だったのがその眼だ。右眼が左眼より大きく、しかも瞳が二つあった。いわゆる重瞳である。リグが生まれた直後に父親はその気味悪い右眼を抉り取ろうとして産婆に止められている。こんな異形の眼よりむしろ隻眼のほうがましと考えたのだ。

 彼は村でもそれなりに裕福な農家の末子だったが、その容貌故に周囲から恐怖と嫌悪の目で見られることに耐えられず、村を出て剣で身を立てようと十八の春に村を出た。村長の推薦状を懐に遠く離れたガヌロン・ヨランド伯の居城の門を叩いて従士として仕え、剣を練って武芸大会の名簿の上位に名を連ね、軍功を積み、ついに従騎士に補せられるに至った。それ以来村には帰っていない。

 その恵まれぬ容貌のせいで若者にありがちな浮いた話の一つもなかったものの、農家の小倅としては立派な大出世だったといえる。


 収穫祭の次の日の朝、リグは腕を組んで祭りの櫓の解体を眺めていた。櫓の組立と解体の指揮が収穫祭での彼の役目だ。実際の力仕事は従士や下人たちがやるから、彼はその作業を監督するだけだった。子供のころには想像もしていなかった。従騎士がこんな下働きまでしなければならないないとは。鎧兜に身を固めて馬に乗って戦うよりこんな仕事のほうが多いなんて思ってもみなかった。感慨にふけりながらリグは革の仮面を撫でた。この仮面は醜い顔を隠すために支度金のほとんどを費やして城の革職人に作らせたものだ。生家でかぶっていた麻袋よりずっと見栄えがしてリグは気に入っていた。更に最初の賞与を全部使って薄く削り出した黒水晶を仮面の眼の部分に嵌めた。これで不気味な三眼も人から見えなくなった。以来、リグは日常の大半をこの仮面をつけて過ごしている。


 吊るされていた提灯飾りが取り外されてお目出度い彩色の幕が取り払われると、色気のない木組みの櫓が現れた。身軽な従士たちが手慣れた動きで櫓に取り付いて鉄梃でかすがいを外そうとしている。それを見守っていると伝令役の小姓が走り寄ってきてリグに声をかけた。

「リグ様、殿様が執務室にお呼びです」

「用件は聞いているか?」

「いえ、ただ呼べと」

 つまり悪い話だ。

「承知した」

 リグは従士の作業頭に手を振ると城内へ歩いて行った。


 祭の余韻の冷めやらぬ城内の廊下を革の仮面に小具足姿のリグはガヌロンの執務室へと歩く。城内の廊下は、進入した敵を迎え撃ちやすいよう幅は半間程度と狭く、しかも五間ごとに溜まり部屋と呼ばれる小部屋が設けられている。狭い通路を一列で進む敵を溜まり部屋に潜む複数の味方で迎え撃つためのものだ。こうした様々な実戦向きの仕掛けのせいでこの城は外観に比べて狭く、居住性はあまりよくない。並外れた巨体のリグは窮屈そうにその廊下を抜け、執務室の両開きの扉を開けた。


 狭苦しい廊下と違って執務室は開放感を感じるほど広い。広さは数十畳ほどもあり、部屋の中央には六畳ほどもある巨大な図盤台が占め、その上に城を中心に詳細な地図が広げられている。籠城戦になればここが作戦指揮所としての機能することになっていたが、この部屋がその役目を担ったのはリグが仕官するずっと前のことだ。奥には書類が山をなした執務机が置かれ、その向こう側の椅子に白髪の老人が座っている。リグの主君であるガヌロン・シグムント・ヨランド伯爵だ。そしてガヌロンの左右に二人の男が立っていた。


 ガヌロンは筋肉質の分厚い体躯を錦の鎧下で包んでいた。白髪を総髪に撫でつけ、豊かな顎髭を蓄えている。七十を超す老齢にも関わらずその面相は五十程度にしか見えない。幼少のころから戦場を駆け回りいまだその血気は衰えていない。昨年の流匪討伐でも先頭に立って突撃しようとして周囲が慌てて止めたほどの猛将だ。


 ガヌロンの右側に立つのが嫡男のハミル・シグムント・ヨランドだ。長身で茶色の髪を短く刈り揃えている。領内の若い女どもが彼を見かけると金切り声を上げるほどの美中年だ。今の奥方と結婚した後も数多の美男美女と情を交わすという乱行三昧だったが、愛娘が生まれたのを機に浮気癖がぱたりと止んだ。今でも人目をはばからぬ愛妻家で、その有様は周囲が喉を掻きむしりたくなるほどだ。この男も父親と共に戦陣で齢を重ねた歴戦の騎士だ。

 齢は四十近いが、いまだに家督を譲られていない。心無い領民の間では父親のガヌロンとの不仲説も囁かれているが、実は二人の仲はとても良い。今のヨランド家では、ガヌロンが外交と軍事を、ハミルが内政を受け持つ分業制がうまく働いていた。


 ガヌロンの左側に立つのが城代のクラムス・クベル。ヨランド家を支える譜代十一の家の筆頭、銀獅子の異名をとる男だ。齢は五十過ぎ、短躯で小太りで禿げ上がった風采の上がらぬ外見は、獅子というより狸に近い。しかしこの男が小具足術の恐るべき使い手であることをリグは知っている。従士時代のリグは戦場でクラムスが敵の勇士を組打ちで仕留める様を目にしていた。リグでさえ組みつかれたら瞬きする間に何が起こったかわからぬまま殺されるだろう。彼は主君ガヌロンと嫡男ハミルが不在の際の守城の指揮官であり、平時は家宰として家中の諸事を取り仕切っている。


 リグは彼らの前まで進むと革の仮面を外した。オーガすらたじろぐ凶面が露わになって部屋の空気が一瞬緊張する。しかし、部屋の三人は態度に出さないだけの礼儀は心得ている。あるいは度量を示すためかもしれない。そんなことはどうでもいい。醜いのは自分が一番よく知っている。外した仮面を鎧下のおとしに素早くねじ込んで跪いたが、すぐガヌロンが軽く顎を上げる仕草をしたので立ち上がった。

「櫓の後始末は順調に進んでいます」

 リグが報告する。

「いや、その件で呼び出したのではない。カイエ村を知っているな」

 ハミルが口を開いた。知らぬわけがない。ヨランド家の飛び地領になっている北の小さな村である。村人が食うに精一杯の農地しか持たぬ山村だが、広大な植林地を抱えている。ヨランド家の当主が何代も渡って植林を続けたおかげで、伐り出される良質の材木はヨランド家の財政を支える貴重な収入源の一つになっていた。

「三日前、カイエ村の使者が村長の書状を持ってきた。村の窮状を訴え、殿に助けを求める書状だ」

 リグの顔を見て軽く頷くとハミルは続けた。

「ところで夏にライドン家の領内で魔獣が暴れた話は聞いておろう」

 答えを促すようにハミルが顎を振った。

「はい、クエンテルの森に魔獣が出没し、村人や道行く旅人を次々に襲い食らったとか。しかしその魔獣は二月ほど前に近隣の騎士と冒険者たちに仕留められ、その毛皮は国王陛下に奉ぜられたと聞き及んでいます」

「確かに領内に出没する魔獣を討ち取るべく、ライドン家は近隣の城に合力を頼み、騎士十二名を含む総勢百名余を差し向けた。更に近くのリンツ市の冒険者組合からも一級二級あわせて百二十余の冒険者が参加したという。しかし魔獣は神出鬼没、二月にわたって狩り手を翻弄し続けた。山狩りに倦いた狩り手どもはたまたま見つけた病んだ巨狼を殺し、天晴れ魔獣を討ち取ったと喧伝したのだ。しかし実は魔獣は死んではおらぬ」

 いったい何の話だとリグは呆気にとられた。しかしハミルは平然と続けた。

「どうやら大勢の勢子に辟易した魔獣はメイヴ山脈を越え、カイエ村に狩場を移したようだ。たまたまライドン領から来ていた渡りの猟師の証言によると、死体の傷跡や有様はクエンテルの魔獣と一致したそうだ。ここ一月余りで既に八人の村人が食い散らされ、これでは材木の伐り出しもままならぬ」

 伐り出しばかりではない。長く人の手の入らぬ植林地は荒れていき、やがて自然の山野に戻るだろう。

「書状を受け取ってすぐ、我らは城の魔導士を通じ念話で書状の内容をリンツの冒険者組合に知らせた。冒険者組合は直ちにカイエ村に人を送り、下手人がクエンテルの魔獣だと認めた。面目を潰された冒険者組合は、大勢で山狩りしたことがしくじりの元と考え、今度は特級の冒険者を一個パーティ送り込むと決して、昨夜、我らに連絡してきた。しかし我らも自領のことゆえ手を拱いているわけにはいかぬ」

 内心リグは舌を巻いた。勇者の称号を持つ特級冒険者は冒険者の頂点だ。魔法の武具を装備し、超常の力を振るう存在。その強さは魔竜すら凌ぐとも言われている。本来なら魔獣駆除程度の仕事に駆り出されるような者たちではない。

 そこでガヌロンが初めて口を開いた。

「お前を呼んだ理由がわかったか?」

 ガヌロンの眼がリグを真っ直ぐに見据えた。

「従騎士リグに命じる。冒険者どもと合力してカイエ村の魔獣を討伐せよ」

「かしこまりました」

 ガヌロンが破顔した。

「凄腕の冒険者どもが一緒なのだ。大手柄を上げて参れ。首尾よく果たしたならば騎士に叙任しよう。凱旋したら盛大に祝おうぞ」

 つられてハミルとクラムスも笑顔を作る。

 しかしリグは相変わらず仏頂面で三人を眺めていた。決して任務の困難さに暗鬱になっていたわけではないし、主君に対する不満の表明でもなかった。彼が笑うとその顔が更に醜くなってしまうからだ。子供のころのリグは、笑うと必ず親に打擲されたものだった。以来、リグは人前で笑わなくなっていた。

 それにリグの思考はそれどころではなかった。

 騎士だと? この俺が?

 騎士に昇格する従騎士は騎士の子弟に限られる。彼らは十五、六で従騎士になり、二十歳過ぎには騎士の位に昇る。リグのような平民出の従騎士は一生騎士にはなれないものと相場が決まっていた。しかし主君に理由を尋ねるのは非礼だ。それより主命を果たすことに専念すべきだった。


「それでは」と退室しようとしたリグをガヌロンが思い出したように呼び止めた。振り返ったリグにガヌロンは続けた。

「汝も正体も知れぬ魔獣退治は心細かろう。トランド市に我が知己が住んでおる。まずそこに赴き、そやつ等に助力を頼むがよい」

 トランドはかなりの遠回りになる。城からカイエ村までは四日ほど、トランド市を経由するとその倍はかかる。

「四日ほど遠回りになりますが」

「構わん」

「父上、そのような者がいることを私は聞いていません」

 咎めるようにハミルが口を挟む。

「儂とてお前の知らぬ秘め事くらいいくらでもあるわい」

 ガヌロンは愉快そうに笑うと、机の引き出しから蝋封された手紙とずしりとした革袋を取り出すとリグに渡した。

「トランドの城壁の外町にあしか亭という飲み屋がある。そこの亭主にこの二品を渡すのだ」

 リグはその瞬間クラムスの眉がびくりと跳ねたのを見逃さなかったが、表情を変えず受け取った袋の重みを掌で量る。それを見たガヌロンが声をかけた。

「金貨が二百枚入っている。よいか、必ず届けよ」

 重騎兵の武具を揃えて釣りがくる。その金額にリグは緊張した。軽々しく出せる金額ではない。

「詳しくはクラムスに聞け。行ってよし。運命の女神の御加護のあらんことを」

 そう言うとガヌロンは退室するよう手を振り机の上の書類に目を落とした。



 クラムスは顎をしゃくって仮面をつけたリグを促すと、執務室を出て二つ目の溜まり部屋で足を止めた。そこでリグに床に座るよう命じて自らも胡坐をかく。長い話になると所構わず座るのはクラムスの奇癖の一つだ。クラムスはリグを振り仰いで言った。

「『三つ』よ」

 クラムスはリグの二つ名を呼んだ。彼の瞳の数に由来した二つ名である。別にリグを軽侮しているわけではない。むしろクラムスは何かとリグに気をかけてくれていて、その醜さにも関わらずリグが城で人並みの扱いをされているのもクラムスのおかげだ。

「いいか、決して無理をするな。魔獣の首など上げなくてもよい。お家にとってはお前が無事に帰ってくることが一番なのだ。こんなことで貴重な戦士を使い潰せるものか」

「そこまで買っていただけるのは有難いですが、何故私一人だけなので? 村の窮状を救うためならば、城の軍勢を繰り出せばよろしいのでは?」

「冒険者組合が出すのは冒険者一個パーティだ。こちらが軍隊を出したら物笑いの種になる。それにカイエ村は飛び地故に軍隊を何日も食わせる兵糧は積んでいない。全部城の食糧庫から持ち出さねばならん。手間がかかりすぎる」

「それにしても従騎士一人というのは少なすぎるのでは? あと二、三人連れて行けないのですか? 騎士のサガード様とか従騎士のフォステル殿とか、こういうのが大好きそうなのがおられるでしょう」

「戦力の逐次投入の愚は避けねばならん」

「私は戦力のうちではないということで?」

「斥候と思ってもらっていい。生きて帰って情報を持ち帰れ」

「つまり、魔獣を討伐しなくてよいので?」

「冒険者は魔獣退治の専門家、しかも今度は特級の連中だ。首尾よく退治するであろうが、そやつらが返り討ちに遭うようならお前に勝ち目はない。その時は冒険者組合を巻き込んで総掛かりで山狩りよ。お前はまず自分の身の安全を第一に考えよ。もし冒険者どもが討たれたら後先考えずに帰ってくるのだ」

「はあ」

 納得はできかねたが仕方ない。それより他に尋ねたいこともある。

「トランドのあしか亭について何かご存知ありませんか?」

「あれは魔女だ」

 吐き捨てるように呟いたクラムスの言葉にリグは内心たじろいだ。クラムスは続けて言う。

「あやつらは外法の術を使う。本格の魔導士なら決して使わぬ術だ」

 外法とは外道ともいい、一般には禁忌に属する魔法を指す。

「先の大戦であやつらは我が軍の一手に属し、口に出すのもはばかられる策を弄した。我が軍の勝利にいささかの働きがあったのは事実だが、あんなものはいさおとは呼べぬ」

 リグは困惑する。

「先の大戦といえば二十年以上も昔じゃないですか」

 まだリグが仕官する前の話だ。

「殿様と魔女はどんな関わりなんです?」

「言いたくない。言うと反吐が出そうになる」

「肉の関係ですか。つまり殿の手紙は恋文ということですか?」

「黙れ」

 よほどその魔女とやらを忌み嫌っているようだ。

「よいか、決して奴らに深入りしてはならぬ。殿に託された品を渡したなら早々に退散せよ」

「はっ」

 リグにも昔の恋人を思い出して瞳を潤ませる婆さんを眺める趣味はなかった。

「よいか、決して深入りするなよ」

 クラムスは念押しした。

「最後に一つよろしいですか?」

 リグは執務室で感じた疑問を口に出した。

「何故私なのです? 騎士に昇格させるべき従騎士なら他にも大勢いるのでは?」

 その問いにクラムスは軽く笑って答えた。

「わしがお前を騎士に推挙したのよ」

「それは困ります。従騎士のままお役を全うして引退してどこか田舎に小さな家を買ってそこで猫を飼って暮らすのが私の人生設計なのです。猫は私の顔を怖がりませんから。それにこの顔は騎士様なんて顔じゃないでしょう?」

 リグの話を遮ってクラムスが口を開いた。

「知っての通り、今年に入って騎士が五人引退した。うち二人はポーション中毒だ。使える騎士が足らんのだ。奴らの倅どもも一応は騎士だが、案山子より頭の足りぬ役立たずばかりよ。穂先を揃えて馬を駆けさせるくらいしか役に立たん。

 進退のできる騎士が一人でも欲しいのだ。お前はお前自身が思っているより思慮も才がある。お前を推挙したのは、それがお家にとって一番良いと思ったからよ。前々から殿に話をしていたのだが、殿の踏ん切りがつかなくてな。そんなところにこの魔獣騒ぎだ。この仕置きを首尾よく果たしたなら騎士にしようと殿が言い出したのだ」

(なんと有難迷惑な)

 この男なりに責任を感じているから、ここまで親切に助言してくれるのであろう。リグはクラムスの好意に感謝するとともに、その好意が厄介ごとを招いたことを心中で呪った。

 クラムスは手を使わず発条のように立ち上がった。これ以上の話は不要と言うことだ。

「それでは行って参れ。無事帰ってこい。お前に運命の女神の御加護があらんことを」

 リグは胡坐をかいたまま両拳を床につけて頭を下げた。

「かしこまって候」



 立ち上がったリグはクラムスに一礼するとそのまま武具室に向かった。主君の特命を受けたなら自室に戻ることなくそのまま出立するのが作法だ。そこで鎖帷子を着てから愛用の板金鎧を意識してゆっくり纏う。続いて鎚鉾や鎧通し、胴乱などを次々に身に着け、樽のように巨大なグレートヘルムを被った。武人の旅装は完全武装と決まっている。最後に刃渡り五尺五寸の大剣を背負うと、深くため息をついて厩へ向かった。

 厩に降りるとリグを見つけた愛馬が嬉しそうに尻尾を振った。体高六尺四寸に達する青鹿毛の重輓馬だ。並みの軍馬ではその巨体を支えきれないリグのために特別にあつらえられた巨馬だった。

 彼の愛馬はその巨体故に脚が遅く、いつも同僚たちの馬に後れを取っていたが、頑強で疲れを知らず、しかも性格は従順で、何より彼の顔を怖がらない。彼にとって友に等しい存在だった。しばらく愛馬の顔を撫でた。そして鞍を乗せ、背負っていた大剣を鞍に吊るすと軽やかに飛び乗った。ようやく何事かと駆けつけてきた馬番の小姓を見下ろして告げる。

「俺が戻らなければ我が部屋の品を皆で分けよ」

 事情を知らぬ小姓は怪訝な顔をしたが、ここで詳しく事情を訊くことは無礼に当たる。いずれ時を置かず城内の噂で知ることになるのだ。そう思って小姓は深く頭を下げた。

 その小姓にリグは身を乗り出して小声で囁いた。

「それと員数外のポーションを十斤ほど隠してる。見つけたら好きにしろ」

 それからリグは姿勢を正すと愛馬を城門へと向かわせた。


 城の中庭で収穫祭の後片づけをしていた人々は、完全武装で進むリグを見て何事かと手を止めたが、彼は意に介さず黙って愛馬を城門へと進める。

 そのとき、急に彼を呼び止める声が上がった。

「リグよ! 止まれ!」

 声のほうを向くと、収穫祭で作った櫓の土台の傍で金髪の娘が仁王立ちで立っている。ガヌロンの孫娘でハミルの愛娘、つまり城の姫様だ。

 今年で十六、美男美女の両親のおかげか凄まじい美形で、豊かな金髪と伸びやかな肢体に恵まれ、身分に関係なく親しく人と接し、幼少の頃から勉学より武芸の稽古が好きという欠点を探すのが難しいお姫様だ。

 物怖じすることなく恐ろし気なリグに平然と話しかける数少ない存在の中の一人でもあった。

「姫様」

 慌ててリグは馬から降りて跪く。絹のドレスにブーツ姿の姫は大股で無遠慮にリグに近づくと、腕を組んでリグを睨みつけた。

「そのような物騒ななりをしてどこに行くのだ?」

 詰問めいた口調で聞いてくる。

「姫様、人前で腕を組むなどはしたのうございます」

 姫の胸は同じ年頃の娘以上に豊かに育っている。それが腕を組むことによってさらに強調されていた。

「黙りゃ!」

 一喝されてリグは頭を下げ、視線を姫の足元に落とす。

「何をしにいくのだ?」

「殿様の特命です。軍法により務めに無縁の者へ口外することは禁止されています。ご容赦ください」

「お前たちはいつもそう言って私を蔑ろにするのだな」

 ますますリグは頭を低くする。

「そうではございませぬ。平にご容赦を」

 姫のブーツの爪先についた泥を見つめていたリグは、兜が引っ張られているのを感じて視線を上げた。姫が両手で兜を脱がそうとしているのだ。姫は苦労してリグの兜を脱がせ、革の仮面をはぎ取って地面に置くと、両の掌をリグの頬に添えて眼を覗き込んだ。

 リグは、彼の素顔を見て息を呑まない女を姫以外知らない。母親ですらリグの顔を恐れた。しかし、リグの薄気味悪い三つの瞳を直視しても姫はひるまない。姫の体臭がリグの鼻孔をくすぐる。そして姫は優しく微笑んだ。

「危険な任務なのでしょう?無事に帰ってくることを祈っています。帰ったら土産話をしてくださいね。あなたに運命の女神の御加護があらんことを」

「かたじけのうございます」

 そう答えるとリグは立ち上がり、仮面をつけて兜を被ると、所在無げに立っている愛馬に打ち跨った。

「それでは行って参ります」

 出立に際して武人が背後を振り返るのは不吉とされている。リグは後ろを振り向きたい衝動を苦労して抑えながら城門をくぐった。



 旅装が完全武装なのには理由がある。街道ではいまだ盗賊山賊の類が跳梁していて、白昼でも不用意な旅人が襲われることは珍しくなかった。領主たちはたびたび討伐隊を繰り出していたが、平原八州ではそれぞれ領主の領地だけでなく、国王直轄の天領や教会領などがひしめいているために広域的な警察活動が難しく、賊の制圧は困難な状況だった。こうした領地の区別なく巡回し、複数の領土をまたがる広域事件を担当するいわゆる武装巡察隊が各家の肝いりで発足し、賊を駆逐するようになるのはもう少し先のことである。

 そんな時代だから、完全武装で旅をすることは道中の安全のためでもあった。そして城を出て二刻もしないうちにリグには旅の道連れができた。道連れといっても同じ方向を目指す旅人たちがぞろぞろ連れ立って彼の馬の後ろを歩いているだけだ。

 この時代、旅商人や旅人、巡礼など街道を行く人々は自衛のために冒険者組合から護衛を雇ったり、専用の護衛隊を擁した隊商にいくばくかの銭を払って相乗りさせてもらうのが常だった。護衛や隊商に金銭を払う余裕のない者たちが頼ったのが、旅する騎士の後を離れずついていくことだった。野盗も完全武装の騎士を襲うほど愚かではない。つまり騎士の傍にいれば安全というわけだ。旅人の保護は騎士の美徳の一つなので同行を拒むわけにもいかず、馬の脚を速めて足弱の者を置き去りにするわけにもいかない。自然、リグが無言で群れを先導するような形になっていた。結局馬を飛ばせば三日でたどり着けるトランド市に着いたのは五日目のことだった。


 トランド市は平原東端に位置する王国直轄都市の一つである。もともとは猟師と商人のための交易所として平原の東に広がるダウドの黒い森の端に建てられた掘立小屋に過ぎなかった。やがて、亜人種が大挙して東の森を抜けて平原へと流入するようになると、王国はここを防衛拠点に定め、トランドの寒村は内外二重の城壁を備える王国有数の都市に生まれ変わった。

 しかしそれも昔の話だ。この土地で凄惨な攻城戦が繰り広げられたことは、吟遊詩人の昔語りで知るのみだ。駐屯していた国王の軍隊は去り、入れ替わるように流民の群れが流れ込んだ。逃散農民、難民、犯罪者、逃亡者の類が続々と都市に取りつき外壁を取り囲むように外町を形成した。正規の市民権を持たぬ彼らを市民は二級市民と呼んで蔑んたが、こうした二級市民の増加による治安の悪化と税収の低下は大きな問題になっている。


 トランドに着いたのは昼前だった。道連れになった旅人たちと別れ、リグは外町の市場の雑踏の中を愛馬に乗ってゆっくりと進む。こういう町はどこも同じだ。違法ポーションを売るゴブリンの薬屋、女が買えるドワーフの道具屋、盗品専門のエルフの露天商、あしか亭はそんな町の中にあった。

 案内を頼んだ子供たちに銭を渡すと、リグは店の前の馬留めに愛馬を繋いだ。大きな板張りの平屋で、下手くそな動物が彫られた看板が掲げられ、看板の下には夜間営業許可を示す箒が吊るされている。ガヌロンからの手紙と革袋を入れた雑嚢を左肩に掛け、鞍に吊った大剣を外して負い紐を右肩に掛けると、店の扉の前に立った。



 両開きの扉は閉まっていたが、中に人の気配がする。相手は主君の知己だ。一応は礼儀を尽くしたほうがよい。リグは戸の前で姿勢を正すと、

「御免」

と大きく声を掛けた。しばらくすると、

「あーい」

 中から気の抜けた返事が聞こえ、からからと板床を踏み叩く音がして、扉が開いて住人が姿を見せた。

 中から出てきたのは小柄な暗褐色の肌をした娘だ。耳が横に伸びて先が尖っている。背は五尺をわずかに超える程度、長いくすんだ銀髪で、膝まであるゆったりした黒色のケープ、素足に木沓もっこうを引っかけている。やけに地味な恰好だが細面に吊り目がちの一重の眼の中の紅い瞳がやけに目立つ。かなりの美形だ。こんな貧民窟にいるより髪を結い着飾って娼館に座らせれば莫大な金を稼ぐだろう。つまりはそういう類の美女だ。

(殿様と先の大戦の頃の縁というからどんな老婆かと思ったが、ダークエルフだったか)

 長命なエルフ種なら不思議もないと納得するリグを見上げてダークエルフは口を開いた。

「ごめんなさいね、この店は日が落ちてからよ」

 すかさず右の掌を前に出してリグが答えた。

「あいや、さに非ず。我が名は『三つ』のリグ、ナタ州ドムル城、ギンガム城、マルテール城を預かり、リカウ大公の鉄騎兵団で黄旗を奉持するガヌロン・シグムント・ヨランド伯爵の従騎士なり。伯爵の手紙を届けるべく参上した」

 こんな場所で格式ばった口上は自分でも馬鹿らしいと思った。ダークエルフの娘は一瞬目を見開いたがすぐに微笑みリグに頭を下げた。

「ご丁寧な挨拶恐れ入ります、リグ様。私の名はヌのミの一族のニド。この店の女将をやっています。立ち話もなんですから、散らかってはいますが中にお入りなさいな」

 そう言って、リグを中に招き入れた。敷居をまたぐと中はいかにも場末の飲み屋だった。不揃いなテーブルと椅子が並び、奥にカウンターが設えられ、棚に酒瓶が並んでいる。


「こちらにどうぞ」

 言われるままリグはカウンターに導かれた。入口に背を向けるのは少々不用心だったが是非もない。大剣を肩から外して注意深くカウンターの縁に立てかけ、兜を脱いでカウンターに置くと椅子に腰を下ろした。カウンターに入ったニドが声をかけた。

「凄い仮面をつけてるのね」

「うむ、自分は生まれつき顔が酷くてな、この面を外すと人が怯える」

「ふうん、芝居じゃ仮面の下は二枚目って相場が決まってるわよ」

「そうであればいいのだがな。本当に酷いのだ」

「大変ねえ」

 たいして気にしてない風に言うと、ニドは話題を変えた。

「ガヌロンの御家来衆なんでしょう?ガヌロンはお元気かしら?」

「今もご健勝であられる。先年も流匪討伐で手ずから五人の賊を討ち取られた」

「あの人も相変わらずねえ」

「先の大戦の頃のお知り合いと聞いたが、殿とはどんな関係なので?」

「私の天幕に夜這いに来たのを蹴り出したのよ」

 ニドはころころと鈴のように笑う。エルフは外見よりずっと高齢だと頭で理解はしていても、外見のせいでただの無礼な小娘にしか見えない。ダークエルフの娘にしては貧相だ。一般にダークエルフの娘はもっと豊満だ。ニドのケープは襟元から胸元にかけて四寸ほど切れ込みか入っていて、そこからニドの素肌がのぞいている。リグはその切れ込みから見える肌を眺めながら

(そこそこあるようだが僅かに姫様のほうが大きい)

とよくわからない優越感を抱いた。

(いかん、俺は女の乳競べに来たのではない)

 内心自責しながら、リグは雑嚢からガヌロンに託された手紙と革袋を取り出すと、カウンターに並べた。

「今日はこれを届けに参った」

「あらあらあら、こんな所まで大変だったでしょう。返事を書くからその間に何か食べていってちょうだい」

「申し訳ないが先を急ぐ」

「飲み食いのする店で何も口にせず出ていくのは非礼よお」

「顔を晒したくないのだ。面をつけたまま飯を食うような器用な真似はできぬ」

 食事するにはこの仮面を外さねばならない。他人に怖がられることには慣れていたが、わざわざ怖がらせるほど悪趣味ではない。

「構わないわよ。こちとら海千山千弥勒三千の古狐だもの」

 そう言われると是非もなかった。思い切って仮面を外し、ニドと目を合わせる。

 ニドは感心したように呟いた。

「なるほど、二つ名の『三つ』というのはその瞳の数のことだったのね」

「驚かぬのか?」

 平然と見返しているニドにリグは尋ねた。

「何言ってるのよ。悪相は武人の誉れよ。英雄クインみたいじゃない」

 クインとは戦場で恐ろしい怪物に変化して戦う古い神話の英雄だ。万余の敵に単身立ち向かい、数多の敵を殺した末に最後は全身に槍を突き立てられて死んだ戦場の英雄。教会は古い神話の神々を抹消しようと躍起になっているが、いまだに古い神話の物語は芝居や講談で大人気だ。

「この顔から目を背けなかったおなごはおぬしで二人目だ」

 当然一人目とは姫様のことである。

「あら、二人目ならあまり手柄にはならないわねえ」

 愉快そうにニドは笑うと、

「食事を用意させるから少し待ってね」

と言い残し、カウンターの左奥かかった暖簾をくぐって奥に消えた。そこから厨房に通じているのだろう。リグは首を回して店内を見回した。ニドの言葉と裏腹にきれいに整頓されていて使い込まれたテーブルには塵一つない。ここまで掃除が行き届いているということはそれなりに繁盛しているのだろう。


 やがて二人の女が暖簾を分けて入ってきた。一人はニド、もう一人は料理を載せた盆を持って入ってきた。人間の娘のようだが、驚くような長身の娘だった。リグほどではないが、それでも六尺を超えている。

 艶のある黒髪を後ろで無造作に束ね、肌は白磁のような純白、切れ長で二重の眼は涼し気で、瞳は血のように赤く、ぞくりとする美女だ。暗黄色の開襟シャツに藍染めの膝下まであるズボンを穿き、茶のなめし革の前掛けをしている。

「ようこそあしか亭に、お客様。賄いの残りで申し訳ありませんがお召し上がりください」

 にっこり笑って盆をリグの前に置いた。ニドが口を挟む。

「ここだけの話、うちの出す料理で一番おいしいのが賄いなのよ」

 しかしその言葉はリグの耳に入ってなかった。ちょうどそのとき、リグの意識は盆ではなく開襟シャツの胸元に注がれていた。娘が盆をカウンターに置こうと身を乗り出したとき、豊かすぎる双球が不必要なまでにぶるりと揺れたのだ。

(これは姫様では勝てぬ)

「この店で厨房を預かっているロラと申します」

 長身巨乳の娘が深く頭を下げる。

(この娘も我が顔を見ても驚かぬ)

 そう思いながらリグは

「リグと申す。かたじけない」

と頭を下げた。

 盆に目を落とすと、深鉢の中で麦粥が湯気を立てている。粥の中に芋と大根のかけらが浮かんでいた。横の小皿に焼いた小魚が三尾と湯呑み一杯の水。木匙を手に取り粥をすくって口に入れた。わずかな甘みが口中に広がり、旅に疲れた体にありがたい。

「うまい」

「よかったですわ」

 ロラがこぼれるような笑顔を見せる。

「それでは厨房に戻ります。おかわりがいるようでしたら声をかけてくださいね。どうぞごゆっくり」

 そう言うと、ロラはくびれた腰の下で張り出した尻を左右に揺らしながら奥へ入っていった。

「それじゃあ食事してる間に手紙を読ませてもらうわね」

 そう言うとニドは蝋封を剥がして手紙を広げた。



 食事を終えたリグが仮面をつけ終わると、ニドはどこからか取り出した長い金色のパイプをくわえ、火打石と鉄片を使って器用に火縄を点けるとパイプに火を移した。ゆっくりと紫煙を吐き出すとニドは切り出した。所作がいちいち艶っぽい。

「よりを戻そうって手紙じゃなかったわ。カイエ村の魔獣退治に赴くあなたを助けてやってくれって書かれてる。この袋の金子はその報酬ですって」

 そう言って革袋をそっと逆さにした。二百枚の王国公用金貨がカウンターの上に広がる。そのうち二十枚ほどをリグのほうに差し出した。

「取っておきなさいな」

「それは困る。これは主君の金子、私することはできない」

 ニドはころころと笑い、

「真面目ねえ。騎士様になったら何かと物入りよ。黙って受け取りなさいな」

そう言うと金貨を取ってカウンターから身を乗り出し、無理矢理リグの手に押し込んだ。美形のダークエルフの娘に上目づかいに見つめられ、リグはどきりとする。結局押し切られる形でリグは金貨を腰の胴乱に押し込んだ。

 満足げに頷いたニドは切り出した。

「さて、手紙にはあなたの魔獣退治の手助けしてくれって書かれてるけど、あなた、魔獣を退治した経験は?」

「従騎士になってしばらくのころ、領内の村の畑が魔猪に荒らされ、城の兵と共に退治したことがある」

「どうやって仕留めたの?」

「領内の猟師が総出で仕掛けた罠で足を止め、城の城壁から運び出した弩砲で滅多打ちにした」

 あの猪は鼻先から尻尾の先まで二丈半に達する化け物だった。五町先の二枚重ねの大楯を貫く弩砲の太矢を三十本以上撃ち込んでようやく仕留めたのだ。猪の穴だらけの毛皮は城の大広間の敷物になり、牙は加工されてヨランド家の宝剣の柄になっている。

「あなたは何をしてたの?」

「魔猪が罠を出し抜いたときに備えて弩砲の護衛についていた」

 実際、あの時はただ眺めていただけだ。

「なんだ、結局経験がないのと同じじゃないの」

 ニドは呆れたように言うとパイプを吸って煙を吐き出した。

「いい? 騎士や従士なんてのは戦場で人や亜人相手は大得意でも、魔獣相手は素人も同然よ。そういうのは猟師や冒険者の領分だわ。そしてライドン家が大勢で狩り出そうとしたのに捕まらなかったんでしょう? その魔獣は明らかに猪より知恵が回るってことだわ。あなた死ぬわよ」

「しかし今回は特級冒険者が討伐に加わる。勇者の称号を持つ冒険者たちだ」

「あなた、名前も顔も知らない冒険者を信じてるの?」

 リグは言い返せなかった。

 ニドはカウンターから出ると、無造作に立てかけられた大剣に手をかけた。刃渡り五尺五寸、重さ一貫半の大物だ。

「おい、危ない」

 リグは止めようとしたが、ニドは軽々と剣を取ると鞘を滑らせた。黒光りした剣身が鈍い光を放つ。城に出入りしているドワーフの刀鍛冶がリグのために鍛えた剛剣だ。

「魔法はかかってないのね」

 剣身を眺めながらニドが呟く。

「うむ、金がかかるからな。それに城の魔導士から俺には魔法の才能がないと云われていてな」

「正解よ。普通の人には魔法の武器って百害あって一利なしだもの」

 二度三度と大剣を片手で振る。ダークエルフの娘の細腕とは思えぬ膂力だ。驚くリグをよそにニドは口を開いた。

「物打ちの辺りに微かに刃切れがあるわね」

「うむ、しかしまだ大事になる程の疵ではない」

「駄目よ、油断大敵って言うでしょ。うちにちょうど魔獣退治のための取って置きの得物があるからそれを出してあげるわ」

 大剣を鞘に戻しながらニドは答えた。

「そんなものがあるのか?」

「いろいろあるわよ。後で見せてあげる。今日は泊まっていきなさい。うちは宿屋はやってないけど、ガヌロンのお身内だから特別よ。あと、あなたの馬を厩に繋いで水と飼葉をあげてもいいわよね?」

「いや、あの馬は見知らぬ者の言うことは聞かぬ。厩に案内してくれれば自分が引いていこう」

「じゃあお願いするわね」

 ニドはにっこり笑って木沓を鳴らしながら歩き出した。

(泊まるつもりなどなかったのにどうしてこうなった。)

 内心自問しながらリグは兜をかぶり、大剣を抱えてニドの後に続いて外に出た。

「まあ可愛らしい」

 愛馬を見たニドは開口一番に嬌声を挙げた。この馬を逞しいとか立派だとか言われることはあっても、可愛らしいといったのはこの娘が初めてだ。ニドは物怖じすることなく鼻先に歩み寄ると、その顔を撫で回しはじめた。けしからんことに愛馬は頭を下げ、おとなしく愛撫に身を委ねている。

「何をやっている?」

「あら、御免なさい。あまりに可愛かったからつい」

「変な癖をつけられると困る」

 手綱を解くと、

「厩へ案内していただこう」

とニドを促した。

「いいわよ、ついてきて」

 店の裏に回るとそこは裏庭になっていた。五間四方ほどの広い裏庭で、一角に厩と物置が、反対側の一角に厠小屋が建てられている。馬が一頭、頭を垂れて繋がれていた。

 裏庭といっても四周に何本か鉄杭が打たれて他と区別されているだけの空間だった。杭には荒縄が渡され、ざっと半間ごとに白い布が縛られている。他人の侵入を拒む結界だ。家の者に無断でこの縄を越えれば様々な凶事が降りかかるという古い迷信がこの地方ではまだ有効らしい。



 裏庭の一画には物干し竿に女物の衣服やシーツが掛かっていて、微かにシャボンの匂いが漂っている。先ほどまで洗濯でもしていたのだろう。そこに四人の女が佇んでいる。茶色がかった黒い髪を禿にした少女と三人の女。リグは三人の女から目を離せなかった。三人とも同じ容姿をしていたのだ。艶やかな赤銅色の髪を獅子のたてがみのようになびかせた、二重で扁桃形の眼に琥珀色の瞳、冷たさを感じさせる美しい顔立ちも色白な肌の色も全く同じだった。服もお揃いの白いシャツに黒のスカート、革の草履と、ここまで同じだと気味が悪い。先ほどのロラより若干背は低いものの六尺はありそうだ。ロラに見劣りしない巨乳でシャツが盛り上がり、服の上からでも艶めかしい体の線が見て取れた。そんな美女三人が並んでリグを無表情で凝視している。

(姫様三連敗です)

 三人の胸から視線を外すことなくリグは思った。


 愛馬を繋ぎ、鞍を降ろして厩から出ると、禿髪かむろがみの少女が小走りに寄ってきてリグの前に立った。背は四尺五寸ほどだろうか、一重で三白眼、小さい赤い瞳がリグを見上げている。一見して少年のような容姿だが、少女らしい可愛らしさが滲み出ている。こういう少女が稚児顔と呼ばれ、娼館で珍重されているという話はリグも聞いたことがあった。麻色のケープを羽織り、左膝に継ぎのあてられた深緑色のズボンの裾は足首のところで紐で絞られ、革足袋を履いている。ゆったりした服装だが、胸も尻も薄いのはわかった。

(姫様、やっと一矢報いましたぞ)

 少女が緊張気味に声をかけた。

「お話は伺ってます。ガヌロン様の御家来のリグ様ですね。アイカと言います」

 言い終わると深々と頭を下げた。

「ご丁寧な挨拶かたじけない。リグと申す」

 大人の対応でリグも挨拶を返した。

「あちらの三人は、グスタフ、ドーラ、カールです」

 アイカが紹介すると、たてがみの美女三人が頭を軽く下げた。


 挨拶が終わるのを待っていたニドがアイカに話しかけた。

「リグさんはこれからカイエ村の魔獣退治に行くの。倉庫に魔獣用の狩猟剣が一つあったわよね。ちょっと出してきてちょうだい」

「うん、リグさんを案内してもいい?」

 リグはニドに振り返った。

「構わないのか?」

「いいわよ、減るものじゃないし」

「それではよろしく案内してもらおう。お嬢」

 アイカはにっと微笑んでリグを見上げた。

「はい、こっちです」

 アイカは小走りに厩の横の物置の前に立った。倉庫と呼ぶには狭すぎると訝しみながらリグは物置を覗き込んだ。物置は二畳ほどしかなく、埃っぽい臭いが鼻につく。するとアイカがしゃがみ込み床板を外しはじめ、やがて地下に通じる階段が口を開けた。

「倉庫はこの下です。明かりを灯けてきますからちょっと待っててください」

 そう言うとアイカは暗闇の中に消えた。

(こんな場所に地下室があったのか)

 しばらくすると下から何かを擦る音がして、微かに光が見えた。やがてアイカが階段を上って姿を見せた。

「中は狭いのでその大きな剣やお腰の槌はグスタフたちに渡してください。それに中は暗いので兜も取ったほうがいいですよ」

 言われるままに得物をたてがみ女たちに渡し、兜を脱ぐ。

「その仮面も外してください」

「いや、お嬢、この面は脱ぐわけにはいかないのだ。我は酷い顔をしていてな。お嬢を怖がらせたくないのだ」

 ニドが横から口を挟む。

「大丈夫よ。それより中で転ばれたり引っくり返されたりされたら後始末が大変だわ」

「そうですよ、私はそんなの全然気にしませんから」

 そこまで言われると外さないわけにはいかない。

「そうか、では見苦しいものを見せる。怖かったら言ってくれ」

 そしてゆっくりと仮面を外し、そっとアイカを見つめた。

「かっこいいです! 目が三つもあるなんて!」

「そうか? そんなことを言ってくれたのはお嬢が初めてだ」

 ちらりとたてがみ女たちを見ると、彼女たちも平然としている。この家の者は誰も自分の顔を見て怖がらない。このようなことはこれまでの人生の中でなかった。リグは目頭が熱くなった。


 感慨に浸るリグにアイカが声をかけた。「それじゃ早く中に入りましょう。足元に注意して降りてきてください」

 リグはアイカに先導されて階段を下りて行った。階段の踏面はリグの足には狭く、しかも鉄鋲が打たれた靴底が岩で滑った。リグは壁に手をつき、熱湯風呂に入る小娘のように足を延ばすと、少しずつ階段を下りて行った。

 ようやく開いた扉が見え、そこから中に入ると、そこは四十畳ほどの部屋になっていた。あちこちの壁に掛けられた燭台の光を頼りに目を凝らすと、そこは武器庫だった。流石に城の武具室に比べたら狭いが、中央に並べられた武器架に様々な種類の剣や鎚、手槍、弓や弩が立てかけられ、壁際にはずらりと甲冑や盾が並んでいる。

「これは凄い。お嬢たちは戦争でもするつもりなのか?」

 冗談めかしてリグが聞いた。

「まさか、違いますよ」

 ふふっと笑ってアイカが答えた。

「この部屋は、昔、悪い人が悪いものを隠すために作ったって聞きました。今は代金代わりにお客さんが置いて行った武器なんかを置いてるんです。でも他の人には内緒にしてくださいね。お役人に目を付けられると面倒だってニド姉さんが言ってましたから」

 確かに暴動を企んでいると疑われても言い訳がきかない量だ。手近な剣を手に取って鞘を払ってみると、丁子油が塗られていて錆一つない。手入れも行き届いている。

 ふと一領の鎧が目についた。その鎧の胴は裸胴だった。一見裸体のような胴鎧のことだ。裸胴自体は珍しくないが、ほとんど全て男物だ。しかしこの胴はまるで生身の女の肌を鉄色に塗ったかのようだ。今まで様々な鎧を見てきたリグだったが、こんな悪趣味なものは初めてだ。鋼の一枚板で作られていて、職人の技術の高さが窺われたが、それよりその造形に目を奪われた。乳房が艶めかしく盛り上がっていて、乳首や臍まで忠実に表現されている。手を触れるのも躊躇われた。

「これはまた凄まじいのがあるな」

「ああ、それは昔ロラ姉さんが使ってた鎧です。ロラ姉さんに岡惚れした鎧匠の人が作ったんです。寸法も本人に合わせて作ったんですって」

 どうやって採寸したのか興味が尽きない。

「でもロラ姉さんはちょっと腰回りが太いって文句言ってます」


「あった、これです」

 アイカが両手に抱えて持ってきたのは布袋に包まれた剣らしきものだった。

「さ、外に出ましょう」

 アイカにせかされるようにリグは階段を上った。秋の午後の日差しはまだ強く、目がくらむ。振り向くと、アイカが背筋を伸ばし、布袋を両手で捧げるように持っている。まるで神か悪魔に捧げ物をする巫女のようだ。そして剣をそっとリグに差し出した。

「これをお使いください」

 受け取るとずしりと重量がリグの腕にぶら下がった。見た目より随分重い。袋を手繰ると剣の柄が現れた。革や木や角、骨などではない。金属がむき出しになった筒のような握りで、しかも異様に長い。一尺八寸くらいはある。表面に細かい格子状の溝が走って滑り止めになっている。鍔も異様だ。ありふれた十字型の鍔だがこれも太く左右に八寸ほど突き出している。

 大雑把な木の鞘を払うと三角形の剣身が姿を見せた。片面に幅半寸ほどの樋が掻かれている。柄元の剣身は身幅三寸、重ね一寸余と異様に分厚い。それが緩やかな曲線を描いて剣先で交わっている。透かして見ると喧嘩慣れした蛤刃。刃渡り二尺二寸余り、片手剣としても短いほうだ。巨体のリグにとっては大きめの短剣の類だが、そうは思えなかった。重さがリグの大剣ほどもあるのだ。

「お嬢、これは?」

「遠く北の地で雪の民と呼ばれる人たちが氷熊を仕留めるのに使う狩刀です」

 城を訪れる吟遊詩人の歌で聞いたことがある。はるか極北の氷原を獲物を追って漂泊する狩人の一団の物語だ。

「この剣を持ってきた客は?」

「死にました。持ち物を全てお酒に変えて、一番最後に持ってきたのがこれでした」

 剣を正眼に構えてリグは呟いた。

「いわくつきだな」

 ニドが愛おしそうに剣の鎬の辺りを撫でながら呟いた。

「でもこれが魔獣相手には一番いいのよ」

「この剣に名前は?」

「そんなものないわよ。でもそれを持ってきた人の名前はブルバ。あなたに負けないくらいいい男だったわ」

「ブルバか。ではこの剣の名前はブルバだ」

「それじゃ構えてみて」



 リグが部屋に案内されたのは日も落ちて半刻も経ってからだった。

 鎧を脱ぎ、鎧下を脱いで裸になって汗を拭うと、ベッドに腰かけて体が冷えるのを待った。それから平服を着て、晩飯を食うために店に顔を出した。

 その頃にはあしか亭は喧騒のるつぼだった。そこらじゅうで椅子が床を叩き、食器が鳴り、喧嘩かと思うような喚声があちこちで上がっている。煙草の煙が厚いもやを作って向こうの壁が見えない。仮面のリグが顔を出すと、瞬時に音が止んだ。店の中の全ての者の目がリグに注がれる。

「こっちよ」

 ニドが酒瓶と湯呑二つを持ってカウンターから出てきた。リグに酒瓶を押し付けると、空いたほうの手を取って一番隅の衝立で囲ったテーブルに向かった。射抜くような視線の中、手を引かれたリグは客の間を縫っていった。ふいに足を止めたニドは、客をぐるりと見回して言った。

「私の客よ」

 その声を合図に客たちはリグを無視し、また騒ぎ出した。


「やはり飯は部屋で食ったほうがいいと思うが」

「駄目よ。シーツにソースがつくとアイカが怒るわ」

 湯呑に酒を注ぎながらニドが答えた。

 衝立の隙間から店の様子を伺う。

 店の中は人間にエルフ、ドワーフ、ゴブリン、オーク、リザードマン、まるであらゆる種族を放り込んだ鍋の底だ。百年ほど前までこの街が種族間戦争の激戦地だったことを考えると皮肉な話だ。客の多くは一見して堅気ではないことがわかる。そして客を取ろうとテーブルをさまよい歩く娼婦たち。

「みんな兵隊か?」

 だらしなく飲んだくれているが、みな妙に姿勢がいい。

「勘がいいわね。ほとんどが元兵隊よ。退役軍人会みたいなものね」

「その割には若いのも多そうだが」

「みんな事情があるのよ、濡れた褥の中でも決して明かさない類の事情が」

「冒険者じゃないのか?」

「うちの客をあんな連中と一緒にしないで」

 何か冒険者に含むところがあるのだろう。


 ふとカウンターを見ると、ロラが大皿を二つ両手に持って暖簾をくぐって出てきたところだった。カウンター越しに皿をウエイトレスに渡すとすぐに厨房に引っ込んだ。ウエイトレスはアイカがグスタフ、ドーラ、カールと紹介したたてがみ女の一人だった。店内を見回すと、もう一人はテーブル客の注文を聞いていて、もう一人はオークの客と世間話をしている。胸ぐりの深すぎる安っぽいドレスを着て、三人とも生クリームをたっぷり塗りたくったかのような笑顔で愛想を振りまいている。裏庭で表情を変えず一言も発さずに岩のようにリグとアイカを見つめていた姿からは想像できなかった。

「あの三人はあんな顔もできるんだな。もしかして俺は嫌われていたのか?」

「違うわよ、あの子たちは必要なことはちゃんとやるけど、必要じゃないことには指一本動かさないの。つまり、客の前で愛想よくしてるのは必要なことだからよ」

「俺には笑いかける必要を認めなかったということか」

「誤解しないで。必要じゃなくて理由よ。あなたは店の客じゃなかったもの。ディナーにフルコースを注文してくれたら笑ってくれるわよ」

「フルコースなんて作れるのか?」

「作れないわよ」

 そう言って紫煙を吐き出し、遠い目をして呟いた。

「最初の頃は、笑い顔を作るのも一苦労だったのよ、あの子たち。それをここまで仕込んだんだから」

「あの三人は三つ子か? それにしても恐ろしいほどそっくりだ。三つ子でも年を重ねたら違ってくるものだが、あの三人にはそれがない。何者なんだ?」

「まあ三つ子みたいなものね。あの子たちはアイカの僕なのよ」

「あの嬢ちゃんの?」

「あの三人はアイカに借りがあると思っているのよ。一生かかっても払いきれない借りが」

「複雑なんだな」

「あら、女はみんな複雑なのよ」

 そう言ってニドはにっこり笑ってリグを見つめた。

 そのとき、衝立の隙間を体で押し広げるようにしてエプロンをつけたアイカが大皿を持って現れた。

「リグ様、お待たせしました」

「お嬢が作ったのか?」

「作ったのはロラ姉さんです。私はお手伝い」

「そうか、偉いな。有難くいただくとしよう」

「どうぞごゆっくりです」

 ぺこりと頭を下げるとアイカは衝立を直して出ていった。

 リグは仮面を外してテーブルの上に置く。

 皿の上には大きな青い葉が敷かれ、その上に茹でた大海老が乗っている。

「見事な海老だな」

「街の横を流れてる川の河口で採れた海老よ。名前は蛇紋海老。美味しいけど尾の棘に猛毒を持ってるの。何年か前に評判を聞いてやってきた帝国の料理人を返り討ちにしてるわ」

「毒、だと?」

「大丈夫よ、ちゃんと毒抜きしてるから」

「それにしてもどうやって食うんだ?」

「あら、下の葉っぱで包んでそのまま食べるのよ。まさかナイフとフォークとナプキンがないと食べられないって言わないわよね? そんな店がいいなら壁の内側に行けばいいわ」

「そこは旨いのか?」

「最低よ」

 仕方なくリグは手づかみで食い始めた。


 海老にかぶりつきながらリグは尋ねた。

「アイカ嬢ちゃんはあんたとロラなる娘を姉さんと呼んでいた。ロラはまだ嬢ちゃんと姉妹でも納得できるが、あんたはダークエルフだ。人種が違う。いったいどういう関係なんだ?」

「お互い流れ流れている間にいつの間にかくっついたのよ。私が一番年上だけど母親って柄じゃないでしょ。だから四人姉妹」

「四人? もう一人いるのか?」

「スウって名前で東の森の狩猟村にいるわ。そこで猟友会の仕事をしてるの」

「遠いのか?」

「馬を飛ばしても往復で四日はかかるわ」

「そうか、猟師なら助太刀を頼もうかと思ったが残念だ」

「大丈夫よ、あなたはきっと魔獣を退治して出世できるわ」

「さっきは死ぬぞと言われたぞ」

「大丈夫よ、死なない方法を教えたじゃない」

 そう言ってニドはリグの湯呑に酒を注いだ。ちょうどアイカが次の料理を運んできた。それも手づかみで食った。時々汚れた手を服で拭くと、注がれた酒を飲んだ。

「たくさん食べてね。お代はもうガヌロンに貰っているから遠慮しなくていいのよ」


 気がつくと朝だった。最初に天井の木目が見えた。辺りを見回すと自分の得物や鎧が無造作に床に並べられ、枕元に仮面が置かれている。アイカから手渡された剣もあった。昨日泊まるよう案内された部屋だ。

(不覚だ。酔い潰れるとは。)

 だが不思議と二日酔いの頭痛はしない。それより尿意が爆発しそうだった。急いで仮面をつけ、小走りに部屋を出ると裏庭の厠小屋に駆け込んだ。

 長い至福の時を経て厠小屋を出ると、アイカと三人のたてがみ女が大きな胴鍋をいくつも積んだ荷車を馬に牽かせて街のほうに歩いていくのが見えた。いつの間にか横に立ったニドが声をかけた。

「やっと起きたのね。昨夜は大変だったわよ。重くてみんなでやっと運んだんだから」

「迷惑をかけたようだな。ところであれはどこに行くんだ?」

 アイカたちから目を離さず訊いた。

「教会よ。残った料理を貧しい人たちに食べさせてるの。うちの料理はおいしいって評判なんだから。客の食べ残しは農家に持っていって豚の餌」

「そんな施行をしてるとは思わなかった」

「うちはあちこちから目をつけられてるから、こうやっていいところを見せる必要があるのよ」

「そうか、いろいろ大変なんだな」

「大変なのよ」

 その時、アイカが振り返り、リグに気づいた。後ろ向きに歩きながら力一杯手を振っている。それにこたえてリグも手を振り返す。荷車が角で曲がって見えなくなるまでアイカは手を振り続けた。

「俺も出発しなければならない。支度をする」

 そう言うとリグは店の裏口に向かって歩き出した。


 四半刻ほどしたころ、鎧に身を固めたリグは愛馬に鞍を乗せて厩から出すと、鞍に大剣を吊るし、愛馬に打ち跨った。アイカに渡された剣は左腰に吊るされ、鎚鉾を右腰に吊るしている。

「アイカたちが帰ってくるまで待てないの?」

 リグを見上げてニドが問うた。

「もう随分時間に遅れているからな。アイカの嬢ちゃんにはよろしく伝えてくれ」

「それじゃ気をつけてね、ガヌロンのお爺ちゃんによろしく」

「生きて帰れたら伝えよう」

「大丈夫よ、きっとあなたは長生きできるわ」

「魔女の予言というやつか?」

「シグナ クフアリヤ ネブロド ンガ ブルグドム イエア」

「何だ、今のは?」

「古い古いエルフの呪文よ。騎士リグは魔獣を退治して手柄を立てて凱旋できますようにって」

「虚仮を言う。リグなんて言葉はなかったぞ」

「うふ」

「それでは行くとするか。世話になった」

「待って」

そう言うとニドは首に巻いていた毛皮のマフラーを外して差し出した。朝日を反射して銀色に光っている。

「これは?」

「鵺の背中の毛皮よ。前にスウが持ってきたの」

 鵺とは大物の魔獣ではないか。

「このような高価なものいいのか?」

「いいのよ。獲物の首筋を狙う魔獣もいるから巻いておきなさい」

「かたじけない」

「お礼を言うのはこっちよ。久しぶりに昔馴染みの顔を思い出したわ」

 鎧と兜の隙間を詰めるようにマフラーを首に巻く。ニドの体臭だろうか、かすかに甘ったるい匂いがした。

「殿に何か言付けはあるか?」

「そうねえ、隠居したら遊びに来なさいって伝えといて」

「あいわかった。それでは世話になった」

「ええ。あなたに運命の女神の御加護がありますように」

「そなたとそなたの店にも運命の女神の御加護があらんことを」

 そう答えるとリグは愛馬を進ませた。後ろは振り向かない。


 リグの後ろ姿が小さくなっていくのを眺めながら、ニドは裏口の階段に腰かけた。パイプを取り出すとタバコを詰め、火打石で火をつける。ちょうど裏口が開き、黒檀のパイプをくわえたロラが出てきてニドの後ろに立った。パイプをくわえたまま煙を吐き出すと、ロラは口を開いた。

「情を交わさなかったんですか?」

「あの人は特殊なギャサを背負ってるわ。多分本人も知らない厄介なギャサ」

 ギャサは古い神との誓約だ。呪いと言ってもいい。守れば祝福を受けるが、破れば立ちどころに神罰が下り最悪の場合は死に至ると言われている。

「何てギャサだったんです?」

「決して女に惚れられてはいけない。それがあの人のギャサ」

「だから寝なかったんですね? 姉さんの好みだったのに」

「そうよ、私は惚れっぽいから、寝たら惚れちゃうもの」

 呆れ顔で見つめるロラをよそに、煙を長く吐くとニドは呟いた。

「本当に危ないところだったのよ、あの人」



 リグがカイエ村に着いたのはあしか亭を発って三日目の日の出前だった。遅れに遅れた日程を取り戻すために愛馬に鞭打って夜通し駆けてきたのだ。トランドに向かった時のような道連れができなかったのも幸いした。こんな山奥に足を向ける物好きな旅人はそうそういない。

 まだ薄暗いうちに村に入ったから、路上には誰もいない。しかし家々の中から気配は伝わってくる。皆、息を殺してリグを窺っているのだ。

 息を切らした愛馬から降りると、リグは大声で叫んだ。

「ヨランド家から参った『三つ』のリグである。村長はいるか?」

 やがて村の中でも立派そうな家の扉が開き、痩せた中年の男が出てきた。リグの前まで来ると頭を下げ村長だと名乗った。

「お待ちしておりました。あまりにも遅いお越しなので見捨てられたのかと思いましたぞ」

 口調が刺々しいのも仕方がない。遅れたのは事実だ。

「すまぬ、道中いろいろあってな」

 リグは素直に頭を下げた。

「リンツの冒険者が来ていると思うが」

「はい。三日前に『青い閃光』という冒険者の方々がいらっしゃいました」

 いかにも冒険者が好みそうな芝居がかった名前だ。男の戦士二人と女の射手一人、男の魔導士一人と女の司祭一人の五人のパーティだという。

「その者たちはどこだ? 彼らに合力せよと命じられているのだ」

「騎士様が来ないので、昨日、山に入られました」

「なんと、それは申し訳ないことをした。すぐ合流したいが、どこに向かったか聞いているか?」

 本来なら村人に詳しく聞き取りをしたかったが、そうも言っていられない。先に山に入った冒険者たちに聞くしかないようだ。

「東に向かう山道を一里ほど登ったところに木工所を兼ねた木こり小屋がございます。そこに拠点を構えるとおっしゃっていました。もし騎士様が着いたらそこに来るようにと」

「あいわかった。村長殿、遅参の身で恐縮だが、松明を三十本と何でもよいから三日分の食い物、革袋に水を三升、それに大鉈、鋸、木槌を荷車に用意してくれ」

「今から山に入られるので?」

「用意が整い次第、歩いて山に入る。と言いたいが夜通し駆けてきたのだ。一刻ほど寝る。寝不足は不覚の元だからな。すまぬが馬を頼む」

 そう言って武装を外すと、道端の草地の上に寝転がって寝息を立て始めた。


 目覚めると荷車の用意はできていた。愛馬は村の馬留に繋がれているという。

「かたじけない。それではこれより出立する。三日経っても誰も下りてこなければ、ヨランド家とリンツの冒険者組合に我々が死んだと知らせてくれ。ゆめゆめ山小屋に様子を見に行こうとは思うな」

 大剣と鎚鉾を荷車に乗せ、アイカに貰ったブルバだけを佩くと、リグは軽々と荷車を引きながら山道を上っていった。

 一刻ほど道を上ると粗末だが大きな小屋が見えた。小屋の手前に木こりの作業場を兼ねた大きな広場が広がっていてあちこちに材木が積まれている。不用心にも誰も歩哨に立っていない。それとも豪胆なのか。そう思いながら小屋の前まで来たリグの足が止まった。濃い鉄の臭いがする。戦場でお馴染みの臭いだ。小屋の中に生者の気配はない。ブルバを抜き、思い切って小屋の戸をくぐる。中は予想通り血の海だった。中央の長机に五つの生首が仲良く並んでリグを出迎えていた。そして、床には血まみれの首無し死体が散らばり、壁にはちぎれた女の白い乳房が張り付いていた。リグはブルバを収めてその場にかがむと、慎重に小屋の中を検分しはじめた。従士時代から死体には慣れている。死体は触れると冷たい。そして蝋燭が燃え尽きている。恐らく殺されたのは夜のうちだ。

 続いて足元に抜き身で転がっている剣を拾い上げる。けばけばしい拵えで剣身に呪文らしい紋様が彫金されている。滅多にお目にかかれない魔法の剣だ。物打ちの辺りに新しい疵はなかった。続いて血に汚れた矢筒を拾って矢を数える。三十五本あった。一本足りぬと見回すと柱に刺さっていた。柱の一本も含めて凶悪な平根鏃が三十四本、鏑矢が二本、これも全て魔法の矢だ。

 冒険者たちの武器を戸口の土間に置くと、今度は首のない屍を小屋の外に出して並べた。魔獣が見ているかもしれないが、危険を冒してでも明るい太陽の下で屍体を調べ、敵の特徴を探らねばならない。魔獣が昼は寝ていることを祈るしかない。


 死体は鎧の男二人に女一人、黒い長衣の男一人に教会の法服の女が一人で、全員が魔法の防具を着ている。鎧の三人は豪気にも揃って鎧の下に銀色に輝く帷子を着込んでいた。エルフの秘術でしか編めないと言われている魔銀の糸で編んだ帷子だ。どの鎧も疵だらけだが、死体の損壊は激しくない。

 一方、鎧を着ていない二人は悲惨だった。長衣の男は腹が切り裂かれ、臓物がごっそり無くなっている。小屋の中に臓物がなかったということは恐らく喰ったのだ。法服の女はもっと酷い。臓物が無くなっているのは同じだが、両の乳房が抉り取られていた。おそらく壁の乳房の持ち主はこの女だ。片方は魔獣が喰ったか。鎧の三人の内臓を諦めた魔獣は、鎧を着ていないこの二人の腹を散々にいたぶったのだ。何故冒険者の魔導士や司祭が鎧を着ないのかリグには理解できなかった。

 改めて小屋の中の生首を調べる。切り口は鮮やかだ。恐らく一撃で斬り落とされたのだろう。これでは回生紋も役に立たなかったはずだ。みな若く二十歳前後にしか見えない。しかも全員美男美女だ。どの顔も安らかで微笑みすら浮かべている首もあった。こんな穏やかな表情の生首は滅多に見たことがない。

 つまり、この五人は武器を抜いたが無抵抗なまま次々に首を落とされて殺されたのだ。凄腕の特級冒険者とあろう者たちが。

 間違いない。魔獣は何か特殊な術を使っている。そして、生首を並べて遊ぶくらいの知恵がある。



(逃げるか)

 リグは思った。相手はただの魔獣ではない。畑を荒らすだけの猪とはわけが違う。

 城代の言葉を思い出した。

「お前はまず自分の身の安全を第一に考えよ。仮に冒険者どもが討たれたら後先考えずに帰ってくるのだ」

 しかし、遅参して冒険者たちをみすみす死なせた負い目がその気持ちを阻んだ。それだけではない。せめて魔獣を一目なりとも見なければ何を殿に報告するというのだ。そんな俺を姫はどう思うか。

 恐らく夜になると魔獣は再び現れる。ここで魔獣を迎え撃つしかない。そうでなければリグの一分が立たなかった。


 首無し死体を小屋に放り込むと、リグは血まみれの手を拭うことなく荷車に積まれた干芋を齧った。戦の前には何か食えと教えられていた。吐いてはならぬ。吐くと力が抜ける。冒険者の荷物から失敬した水筒から饐えた水を喉に流し込んだ。小屋の戸口に集めた冒険者たちの得物を見る。剣二振りに弓と杖と槌鉾、すべて魔法の武器だ。あれを使うか、そう思ったが慌ててその考えを打ち消す。あんなものを持っても魔力を吸われて構えただけでへたりこんでしまう。魔法の武器は高い魔力を持つ者しか扱えない。自分の魔力では首筋に入れられた回生紋を回すだけで精一杯だ。


 暗くなれば魔獣が襲ってくるのは間違いない。それまでに陣を張らなければならない。幸い木こりの山小屋だから木材は有り余っている。リグは兜と仮面を外し、鎧を脱いで小具足姿になると、材木置き場から二寸幅の角材を何本か引っ張り出した。鋸を使って二尺ほどの長さに切り揃えていく。六十本ほど作ると、今度は大鉈を振るって一方を尖らせて木杭に仕上げていった。その作業を終える頃にはもう太陽は中天を越えていた。

 それから荷車を引いて広場の中央に置く。ここが本陣だ。木槌を使って荷車を中心に同心円上に木杭を打ちこむと、木こりが使う綱を木杭の先端に結びつけ、地面から高さ一尺ほどの高さに渡していく。こうして荷車を中心に木杭と縄の結界が出来上がるころにはもう夕暮れを迎えていた。

 干芋を齧ってしばらく休息すると、今度は冒険者たちの荷物を漁ってポーションを集め、それを荷車に置いた。特級冒険者だけあって高そうなポーションだ。ギヤマンの容器ですら凝った造形をしている。

 続いて鎧兜を身に着ける。夜の戦になるので仮面をつけずに兜をかぶった。最後に鵺の毛皮のマフラーを首に巻く。それから荷車を背に胡坐をかき、ブルバを膝に乗せて目を閉じた。後は魔獣が現れるのを待つだけだ。


 目を閉じてどれくらいたっただろうか。わずかに尿意を覚えて立ち上がろうとしたリグは動きを止めた。先ほどまで聞こえていた鳥の鳴き声が途絶えている。嫌な気配がする。リグはゆっくりと立ち上がると、ブルバを抜き地に刺した。それから荷車から松明を一本つかんで素早く火打石で火をつけると、他の松明に火を移し、それを次々に四方に投げる。十本ほど投げ終わると、最初に火をつけた松明も遠くに投げ捨てた。光源を遠くに置き自らを闇に潜ませるのがリカウ鉄騎兵団の夜戦の作法だ。そしてブルバを地面から引き抜くと荷車に背を預けて両手で構えた。その方向だけは綱を張っていない。

 綱の結界は魔獣の足を引っかけるためではない。夜目の利く魔獣がそんな粗末な罠に引っかかってくれると期待するのは虫が良すぎた。しかし、綱を嫌って綱が張られていない方向から迫ってくる公算は高い。


 四半刻ほどたっただろうか。鳥の声は途絶えたままだ。しかし魔獣が現れる気配はない。気のせいだったか、そう思ったとき、かすかに落ち葉を踏む音がした。その音は少しずつ近づいてくる。来た。リグは兜の下で無理やり笑おうとしたが口元をいびつに歪めただけに終わった。膀胱が縮み上がる。畜生、騎乗突撃の号令を待っているときと同じだ。

 かすかに香を焚いたような匂いが漂ってきた。甘酸っぱい柑橘類の匂いだ。匂いに洗い流されるかのように体の緊張が抜けていく。

 頭の片隅で警報が鳴った。これは魔獣の術だ。特級冒険者たちを皆殺しにした危険な術。気づいた時には遅かった。リグは口中で軍神の名を唱えようとしたが甘酸っぱい匂いはそんな抵抗を苦も無く流し去る。正眼に構えたブルバの切っ先が落ちていく。俺は何のためにここに立っているのか。リグの思考は麻痺し、精神は忘我の境に没入していく。そして松明の明かりの中から浮かび上がるように影が姿を現した。


「姫様……」

 リグは呻いた。その影は紛れもなく城の姫様だった。リグの素顔を恐れなかったこの世で唯一の女性。城を出るとき、頬に添えられた掌の感触と体臭が脳裏に蘇る。リグには何故姫様がこんなところにと疑う気力すら残っていない。姫様は素足に絹のドレスを着て、ゆっくりとリグに歩み寄る。そしてリグの目の前でドレスが足下に落ちた。姫様は下着をつけていなかった。豊かな裸身がこぼれ出た。姫様は両手をリグに差し出して艶然と微笑んだ。姫様の頬は上気し、瑞々しい唇がゆっくりと開かれ、姫様の舌先が上唇をゆっくりと舐めた。

 その瞬間、リグは我に返り、ブルバを構えなおすと真っ直ぐに姫様に突っ込んだ。


「いい? 魔獣と一対一で戦うなら、斬ったり突いたりは駄目よ」

 あしか亭の裏庭でニドは言った。

「魔法の剣ならともかく、普通の剣じゃ斬っても魔獣の毛皮や筋肉や骨に止められて内臓まで届かないわ。それに魔獣の動きは速いから突こうとしても剣か腕を弾かれて終わりよ」

「ではどうしろと?」

 正眼に構えたままリグが尋ねた。

「もっと肘を曲げて剣を体に引き付けて、柄頭を鎧に押し付けるように」

「こんな構えで大丈夫なのか?」

「これは格下が格上に真正面から挑むときの由緒正しい構えなのよ」

「これが?」

 こんな構えは聞いたことがない。

「そうよ、そしてこのまま魔獣に体当たりするの。腕を伸ばしちゃ駄目」

「冗談だろう?」

「本気よ、それが雪の民に伝わるこの剣の正しい使い方なんだから」

「魔獣は襲い掛かるときに頭を上げるか上体を起こすから、喉か胸か腹を狙うのよ。そこだけは魔獣の筋肉も柔らかいから」

 ニドの指がリグの首筋から鳩尾まで撫で下ろした。

「突っ込んだらその大きい鍔を握ってひたすら抉るの。もし剣が抜けたらまた最初から繰り返し」

「そんな乱暴な。抉るにしても魔獣から殴られ放題ではないか」

「その時のための鎧でしょ」

 ニドは平然と言い放った。

「雪の民とやらは常にそのやり方で氷熊を狩っているのか?」

「まさか、運悪く一対一になったときだけよ」


 体ごと突っ込んだとき、姫の口から野太い咆哮がほとばしった。いやもうそれは姫ではなかった。リグには濃い茶色の毛皮の壁しか見えなかった。直後に左肩を衝撃が襲った。肩甲が軋むのがわかった。構わず左手で鍔を握り、押し込むように抉った。今度は右側から衝撃がきた。兜が弾け飛んだ。飛んでいきそうな意識を繋ぎとめようとリグは咆哮した。魔獣に負けない大きな咆哮だった。力を込めてさらに抉る。熱い血潮を頭から被った。すごく臭い。魔獣の血で目が見えない。魔獣が左肩に覆いかぶさる。噛みつかれているのだ。目が見えなくてもわかる。肩甲と胴鎧が歪む。それでもリグは抉り続けた。鵺の毛皮のマフラーに魔獣の牙がかかったのか、引っ張られて息が苦しい。鎧の背板に魔獣の爪が立った。それでもリグは抉り続けた。



 それから十日ほど後、仮面に小具足姿のリグは、愛馬に引かれた荷車で揺られていた。荷台の後ろには大きなワイン樽と毛皮の束、ひしゃげた鎧とリグの大剣とブルバが乗せられている。ワイン樽の中には塩漬けにされた魔獣の首級が入っていた。荷車を取り囲むように五人の若者が歩いている。カイエ村の村長が供につけてくれた村の男衆だ。


 リグが仕留めた魔獣の正体は年季の入ったマンティコアだった。人を好んで喰い、長じると知恵をつけて幻術を使うといわれる魔獣だ。リグも重傷を負った。特級冒険者から失敬した高級品のポーションがなければ死んでいたかもしれない。次の日には若い女の司祭と大男の戦士が村にやってきた。特級冒険者たちとの念話が途絶えたために、リンツの冒険者組合が派遣した冒険者だった。二人は仲間の死体を回収し、村人たちが苦労して村まで運んだマンティコアの死骸を解剖して、首と毛皮を残してそのほとんどを持ち去った。首と毛皮がヨランド家の取り分というわけだ。そして今、リグは城への帰還の途上にあった。

 首に巻いた銀色のマフラーに触れる。ふとリグの脳裏にあしか亭の記憶が蘇った。騎士に昇進して騎士故の苦労を背負い込むより、あの娘たちに囲まれて人生を送ったほうが幸せなのではないか。ダークエルフの娘に振り回され、白磁の肌で長身の娘の厨房を手伝い、三白眼の娘の遊び相手をしながら過ごす日々。あの三人のたてがみの娘たちも微笑ませてみたい。それに会うことの叶わなかった猟師の娘にも会いに行かなければ。冷静に考えればそんな考えは沙汰の限りに過ぎないのはわかっている。それでも幸福な妄想にふけるくらいは許されるはずだ。


 その時、村の男衆の一人の声が、リグの幸福な日常を無情に断ち切った。

「お城が見えましたよ」

 顔を上げるとうんざりするくらい見慣れた城が見えた。


 城の者たちの歓呼の声で迎えられたリグは、ワイン樽の首桶と毛皮とともに城の大広間に通された。やがて、奥から城の主だった者たちが現れた。正面の椅子にガヌロンが座り、右側に嫡男のハミルと奥方、そして姫が、左側に城代のクラムスを筆頭に家老衆が並ぶ。全員が正装だった。一介の従騎士には過ぎた待遇だ。跪いたリグにガヌロンは声をかけた。

「リグよ、面を上げよ」

 革の仮面がガヌロンに正対する。

「従騎士リグはカイエ村を悩ます魔獣マンティコアを討ち取り、ただいま復命いたしました」

「大儀、よくぞ大手柄を上げて戻った。今こそ汝を騎士に叙任しよう」

「はっ、魔獣の首級と毛皮を奉納いたします」

「うむ、見せよ」

 リグは立ち上がるとワイン樽の蓋を外して左腕でマンティコアの巨大な生首を引き上げた。塩の粒を散らしながら生気を失ったマンティコアの首が一同をねめつける。作法に従いハミルの美しい奥方が失神して優雅に崩れ落ち、控えていた侍女たちに担がれて奥に消えた。

「もうよい」

 首をワイン樽に戻したリグは再び跪いた。

 家老筆頭のクラムスが声をかけた。

「先日、リンツ市の冒険者組合から知らせが参った。特級冒険者パーティー『青い閃光』五人のうち三人は無事蘇生したそうだ」

「それは何よりでございました」

「その三人が口を揃えて言うには、魔獣は最も愛しき人の姿を借りて現れたという」

 すかさずガヌロンが口を開いた。

「おぬしもそうだったか? 最愛の者の姿をしていたのか?」

「はい、名は明かせませぬが、最も好いたる者の姿でございました」

 まさか姫様でございましたと答えるわけにはいかない。

「おぬしのような男にもそのような者がいるのだな」

 ガヌロンが愉快そうに笑った。釣られてハミルや家老たちも笑い声を上げた。

 ガヌロンが再び問うた。

「しかし何故おぬしは魔獣の術中にはまらなかったのだ? 特級の冒険者でさえ逃れられなかったほどの術に」

 一瞬の沈黙の後、リグはゆっくりと仮面を外し、ガヌロンを凝視した。大広間の空気が緊張する。そしてリグは顔面を更に醜悪に歪めた。笑ったのだ。封印されていたリグの笑顔が衆目に晒される。かすかな悲鳴が上がり、控えの侍女たちの何人かが卒倒する。気丈な姫ですら美しい顔から血の気が失せた。幾多の戦場を潜ったガヌロンすら恐怖で顔が強張った。

「それがしはおなごからあのような妖艶な顔をされたことがございませぬ」

 リグは皆の反応を楽しむようにゆっくりと答えた。

「いやはや、まことに気味の悪い顔でございました」


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