第30話
***
目を覚ましたレイチェルは、天井を見上げて目を瞬いた。
何か、違和感がある。が、それが何かはわからない。
どうも腑に落ちないような、不自然なような。
レイチェルがその違和感がなんなのかを思い出したのは、侍女に身支度を整えてもらい、メイドが運んできた朝食を平らげた後だった。
***
早朝だというのに、招かれざる客が訪ねてきた。
「お久しぶりです、兄上」
にこにこと笑顔で遠慮なくズカズカ入ってきたのは、ヴェンディグの一つ年下の弟にして王太子である第二王子カーライルだった。
ヴェンディグは面倒臭いという感情を隠さずに顔を歪めた。
「こんな朝っぱらに何の用だ?」
「ははは、申し訳ない。執務があるもので、なかなか時間が取れず」
ヴェンディグとよく似ているが兄より遥かに柔和な面立ちのカーライルだが、その腹の内が結構黒いことをヴェンディグは知っている。
「用がないなら帰れよ」
「用ならありますよ。兄上、婚約おめでとうございます」
いやあ、めでたい。と言うカーライルに、ヴェンディグは苦虫を噛み潰した顔をした。嫌な予感がするのだ。
「つきましては、こう、ぱーっと盛大に婚約式を行いましょう!」
「断る」
案の定、ろくな提案ではなかった。
「何故ですか!? 王侯貴族の婚約には正式な婚約式が必要でしょう! この国には明るい話題が必要なんですよ! ぱあーっと、華やかな式を執り行いましょう!」
「生贄公爵と侯爵令嬢の婚約が明るい話題になる訳ねぇだろ。呪われた公爵の元に人身御供で差し出された令嬢の不幸に国中が涙するわ」
ヴェンディグは口を開けて大欠伸をした。婚約式など行える訳がないだろう。ヴェンディグが人前に姿を現せば、蛇の痣を見た者達が恐怖に慄くだけだ。
「おやあ? 大変な大恋愛の末に結ばれた運命の二人だとお聞きしましたが?」
「うるせぇな。帰れよ、王太子様」
ヴェンディグがしっしっと追い払うように手を振った。
その時だった。
勢いよく扉が開いて、血相を変えたレイチェルが走り込んできた。
「閣下! 申し訳ありません! 私、眠り込んで閣下に運んでもらうだなんて、なんて失態を……っ! 閣下は昨夜もお疲れだったでしょうに、私……私、ちゃんと自分で部屋に戻るつもりだったんです! 勝手に部屋に押しかけた挙句に眠ってしまって閣下の手を煩わせるだなんて、そんなつもりは……」
昨夜の己の失態を論って必死に謝罪したレイチェルは、ヴェンディグの部屋にいたもう一人の男性がライリーではないことに気づいてはたと黙り込んだ。
「初めまして。貴女がレイチェル・アーカシュア侯爵令嬢ですね?」
「え、は、はい……」
ヴェンディグによく似た面立ちの青年ににっこりと微笑みかけられて、レイチェルは思わず後ずさった。
「私はカーライル・ディンゴート。ヴェンディグ・カーリントンの弟です」
それ以外にいないとは思ったが、やはり王太子殿下その人であったと知りレイチェルは蒼白な表情になった。
「も、申し訳ありません、ご無礼を……」
「いやいや、義姉上となる方にお会いできて光栄です。出来るならゆっくりとお話しさせていただきたいのですが、そろそろ戻らねばならず… …」
カーライルは冷や汗だらだらのレイチェルにそう告げて、うきうきした足取りで去っていった。
「……びっくりしました。王太子殿下とのお話を邪魔してしまい申し訳ありません」
レイチェルは胸を押さえてほっと息を吐いた。
一方のヴェンディグは頭を抱えて深い溜め息を吐いた。
「……誤解されたぞ、今の……」
レイチェルはぱちぱちと目を瞬いた。
***
大金持ちの侯爵は王都に別邸を持っていた。そこには侯爵の気に入りの女が住まわせられることもある。故に、その少女が現れた時、別邸の使用人達はまた主人の悪い癖かと思っただけだった。
だが、少女には買われてきた悲壮感はなく、かと言って商売女には見えなかった。
粗末な服を着ているが堂々とした態度の少女は、別邸を預かる執事に向かって言い放った。
「今日より、この家は私の物となります」
「なっ……」
狼狽える執事に書類を渡して、少女は妖艶に微笑んだ。
「モルガン侯爵がこの家を私に譲るとお認めになられました。皆様は、以後私にお仕えくださいますよう」
にわかには信じられないが、書類には確かに家を譲渡する旨と侯爵の署名があった。
「私はパメラよ。よろしくね」
得体の知れない少女に易々と従える訳がない。
けれど、どうしたことか、パメラと名乗る少女の目に見据えられると、頭がぼんやりとしてその命令を聞かねばならないという想いが湧き上がってくるのだった。
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