第21話

***


 優に大人五人分はありそうな体調の黒蛇は、落ち着いた声音でレイチェルに語りかけた。


「私はヴェンディグの体を借りて人の世界にとどまっている。私はこの世界の生き物ではないので、人間の体の中で休まねば消滅してしまうのだ」


 レイチェルは声をなくして硬直した。

 怖がるなと言われても、自分など丸飲みにしてしまいそうな大蛇を前にしてそれは無理だろう。

 本能は叫んで逃げたがっているが、何が起きているかを確かめねばという理性がレイチェルの体を抑えつけた。

 レイチェルは震える唇で声を紡いだ。


「あなたは……ここで、何を……」


  小さく掠れた声だったが、黒蛇はきちんと聞きとめて答えた。


「十二年前、蛇の国から人の国へ逃げ出した者がいる。その罪人を探している」


 ということは、人に取り憑いている蛇がもう一匹いるのか。レイチェルは顔を青くした。


「あなたがたは……人間に害を及ぼすものなのですか? 逃げた罪人は何が目的で人の国へやって来たのです?」


 レイチェルは息を飲みながらも懸命に尋ねた。黒蛇は頭を少し低くして、しゅうしゅうと息の音を漏らした。


「罪人は、人間の「欲」を食うために逃げているのだ」

「欲……?」

「そう。人間の「欲」だ」


 黒蛇の赤い目がぎらりと光る。


「妬み、憎しみ、執着……人間が他者に抱く強い感情を、私達は「欲」と呼んでいる。「欲」は我らにとって最高のご馳走なのだ」


 レイチェルは困惑した。「欲」を食べるために逃げている蛇を罪人と呼ぶ癖に、黒蛇自身も人間の「欲」を食ったことがある言い方だ。

 レイチェルの疑念を読み取ったのか、黒蛇がしゅううと息を吐いて言った。


「人間が死んだ時、魂は浄化されて天に昇る。その際に、魂に染み付いた「欲」は取り除かれて地の底へ沈み、私達の糧となるのだ。だが、逃げた蛇は生きている人間の新鮮な「欲」を食べるために人間の世界に逃げたのだ」


 レイチェルは黒蛇の言葉を良く聞いて考えた。清らかな魂が天に昇り神の御元へ行くのだから、昇天できない醜い感情が地の底へ沈むこともあるのかもしれない。レイチェルは思わず胸の前で祈りの形に手を組んだ。

「欲」と呼ばれるものが魂の穢れとなる汚い感情のことならば、それを食べて無くしてもらえるのは人間にとっては悪いことではないのでは。と、一瞬思ったのだが、黒蛇はまるでそれを否定するように言った。


「逃げ出した蛇の名はシャリージャーラ。私達は地の底に棲む影の存在ゆえ、人間の暮らす光の世界では人間の体を借りなければ生きられない。シャリージャーラも人間に取り憑いて生きている。だが、同じ体を長年使い続けることは出来ない。肉体が朽ちてしまうので、交換が必要だ」


 レイチェルは眉をひそめてヴェンディグを見た。彼はカウチに腰掛けてレイチェルと黒蛇の会話を見守っている。


「ヴェンディグのことは心配いらない。彼は蛇の王である私を受け入れることの出来る千年に一人の肉体の持ち主だ。それに、私はヴェンディグの魂には干渉していない」


 黒蛇はヴェンディグの方へ首を傾けた。


「シャリージャーラは宿主の魂に干渉し、より深く体内に根付いている。そうしなければ宿主を操ることが出来ないからだ。私はヴェンディグの体内で休んでいるだけで、彼の意思を操るつもりはない」

「だから、俺の体には蛇の痣が浮かぶのさ」


 黒蛇の言葉を、ヴェンディグが引き取った。


「もっと深く潜り込み、魂に触れてしまえば、蛇の痣は浮かばないそうだ。だから、シャリージャーラを見つけるのは難しい。俺みたいなわかりやすい目印がないからな」


 ヴェンディグは今は白く艶やかな左頬を撫でて言った。


「逆に、シャリージャーラの方は俺の元にナドガがいると知っている。「生贄公爵」は有名だからな」


 レイチェルははっとした。


「では、もしもシャリージャーラとやらの方がこちらを攻撃しようと思えば……」


 レイチェルはヴェンディグが離宮に引きこもり、他人を近づけない理由の一端を垣間見た気がした。


「心配はいらない。シャリージャーラは王である私には勝てないと知っている。だから、十二年間逃げ続けている。人間の肉体を乗り捨てることを繰り返してな」


 一気にいろいろ聞きすぎて、レイチェルは頭がくらくらしてきた。レイチェルの様子に気づいたのか、ライリーが「少し休みましょうか」と言い水差しから水を注いでレイチェルに渡してくれる。

 レイチェルはありがたく水を飲んだ。意識していなかったが、喉がからからになっていた。



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