49. 構うものか


 学内の隅っこに存在する屋外プール、水面は一面ガラスのようにまっ平で、まるで学園祭の賑わいなど嘘みたいにさざ波一つ立っていない。シンッとした静寂のさ中、錆びた鉄がキィッと軋む音が響く。部室の扉を静かに開いて中を覗くとその空間は真っ暗で、小窓から差し込む陽光が、部屋の隅っこにうずくまる一人の少女を、遠慮がちに照らしていた。


「柴崎?」


 俺がその名前を呼ぶと、ウェーブがかった薄紫色の髪がバネのように飛び跳ねる。

 体育座りの恰好でちょこんと佇んでいる柴崎が顔をあげて、猫のような瞳が丸々と大きく見開かれた。


「――あ、天津……、さん……?」


 柴崎が俺の名前を呼んで、俺は彼女にゆっくりと近づいた。すると彼女は脱兎のごとく立ち上がり、慌てたように両腕で顔を覆ってしまう。


「み……、見ないでっ! 私の顔、見ないでください!」


 まるで我が子を守る親猫のように警戒心をあらわにした柴崎に対して、俺はピタリと足を止めて、一瞬たじろいでしまった。柴崎は両腕で顔を隠したまま狭い部室内を駆け始める。自身がいる反対方面の壁へと向かった彼女は――

 こともあろうに、天井近くに設置されている部屋の小窓を開け放って、そこから脱出を図ろうとしだしたのだ。


「――お、オイッ、何してんだよッ!?」


 唯一の出入り口であるドア付近には俺がいるから、そこから部屋を出ることは難しいと判断したのだろう。小柄な体を精一杯伸ばして、小窓の窓枠に手をかけた彼女は、懸垂運動の要領で自身の身体を持ち上げた。そのままもぞもぞと全身を動かし、彼女の上半身だけが外の世界に飛び出す。ちょうど窓枠が彼女の腰のあたりを支える恰好となり、しかし身体がひっかかってしまったのか、それ以上進むことができないようだった。室内にいる俺の目には、バタバタと無様に足を動かしている柴崎の下半身だけが映る。

 ……幼稚園生が履くようなクマちゃんパンツが丸見えになっている事実に関しては、彼女の名誉のためにも、あとで記憶から抹消しておいてやろうかな――


「いたいッ! いたいッ! あばばばばばッ!?」


 窓枠が身体にくいこんで痛いのだろうか。柴崎の奇声が俺の耳に飛び込んで――、俺はなんだか、あまりにもバカみたいな彼女の奇行に、全身から毒気が抜け落ちていくような感覚を覚えた。「……何やってんだ、ったく――」とこぼしながら、俺は未だバタバタと足を動かしている彼女に近づいた。

 俺は柴崎の腰のあたりを両腕で抱えて、「おい、暴れんなよ」と彼女に声を掛けた。そのまま彼女の下半身を引っ張り込む。小柄な彼女の身体は、俺と同じ高校生とは思えないほど軽かった。


 俺は彼女を引っ張り込んだ勢いでバランスを崩してしまい、彼女を抱えたままコンクリの地面に尻もちをついた。俺の腰の上に乗っかる恰好になった柴崎が、なおもその場から逃げ出そうとしたので、俺は彼女の両肩を掴んで、グリンと強制的に彼女の身体をコチラに向けた。


 鼻先十センチメートルの距離。「あっ……」と声を漏らした柴崎の顔面が俺の視界いっぱいに映り、彼女の顔面は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。


「あ、天津さん……、私……、わ、私……ッ!」


 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった彼女の顔が、くしゃっと赤子のように潰れ始める。あられもない泣き顔を晒す彼女の表情は、彼女が童顔なコトもあいまって、さながら母親に怒られた後の小学生みたいだ。

 柴崎は、ヒックヒックと嗚咽を洩らしながら、堰を切ったように声を溢れさせた。


「私……、天津さんのコト、好きなんですっ! もう、どうしようもないくらいに、あなたのコトばかり、ずっとずっと、考えちゃうし、あなたと話していると、自分が、自分でいられなくなってしまうんですっ!」


 ひどく不器用に、ひどくあけっぴろげに。

 おそらく、丸裸のまんまの柴崎の吐露が、狭い屋内に響き渡った。


 耳の奥で彼女の声が反響して、俺は彼女のコトを、無表情でジッと見つめていた。


「……でも、あなたがアカネを好きなのはわかってたし、あなたが私のコトなんか、一ミリも見ていないコトも知っているし、……私、アカネのコトを大好きだけど、同時に、アカネなんかいなければよかったのにって、そう、思ってしまう時もあって――、あなたにフラれた過去をなかったことにしても、あなたが好きって気持ち、消えてくれなくて。……都合の悪い現実から逃げてしまった自分を、アカネのコトを憎んでしまう自分を、どんどん、嫌いになっていって――」


 柴崎の台詞の中には、イマイチ内容を理解できない箇所があった。……俺にフラれた過去を、なかったことに?―― でも、質問で彼女の言葉を遮る余地はなさそうだ。およそ平静には見えない柴崎は、感情が溢れるままに声を吐き出し続けていた。


「私って、最低なんです。私なんか、誰かを好きになる資格、ないんです――、でも、天津さんを好きって気持ち。止めるコト、でき、なくて。……私、どうすればいいか、全然、わ、わかんなくなっちゃって――」


 柴崎の顔は、相変わらず涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。普段は和人形みたいに綺麗な顔面が悲痛に歪んでおり、白い肌は天狗の鼻のように赤く染まっていた。

 ……俺は、前に何度か女の子に告白された経験があるけど。

 柴崎の告白は、俺の目の前にいる柴崎の顔は――

 今までの、自分をよく見せるコトしか考えてない、自分をカワイク見せるコトしか考えていない、他のどの女の子達よりも、愛らしかった。

 だから。


「……私……、私――、って、えっ……?」


 柴崎が、潤ませた目を大きく見開いて、嗚咽をピタリと止めて、キョトンとした顔でまじまじと俺を見つめ始めた。

 俺は彼女の表情の変化の意味を、最初は理解するコトができなかった。

 ――でもすぐに腑に落ちる。俺は頬に、冷たい何かが流れるのを感じたんだ。

 彼女は信じられないって目をしながら、か細い声を漏らす。


「な……、なんで……? なんで、天津さんが、泣いているん……、ですか?」


 柴崎のその言葉で、俺は確信した。

 ……俺、やっぱ、泣いてるのか――


 俺は右腕の袖でそっと涙をぬぐって、「ハハッ」と自嘲気味に笑った。柴崎はなおもポカンと呆けたように俺を見つめている。俺は地面に目を伏せて、ポツポツと、力ない声をこぼしはじめた。


「俺さ、たぶん今、めちゃくちゃ嬉しいんだよ。俺のコトを好きって、本気でそう言ってくれたの、柴崎が初めてなんだ。……だから俺、泣いているんだよ」


 俺が彼女に視線を戻すと、柴崎は困惑したように八の字眉を作っている。


「……な、なんで。天津さんモテるから、今まで、女の子に告白されたコト、いっぱいあるんじゃないですか? 現に、そういう話、聞いたコトあるし――」

「そうじゃ、ないんだ。……確かに、俺を好きだって、付き合ってくれって言ってくれる子は今までいたけど……、みんな、嘘っぱち。心の中では、俺を好きなんて、誰一人思っちゃいなかった」

「えっ……、どうしてそんなコトがわかるんですか? エスパーじゃ、あるまいし」


 俺はふぅっと息をついた。自分ができうる限り、最大限に真剣な顔を作って、柴崎の顔をまっすぐに見つめた。

 俺たちの視線が交錯して、幼子のように不思議そうな柴崎の顔が俺の目に映る。

 俺は徐に、口を開いて。


「俺さ、人がウソを吐いているかどうか、わかっちゃうんだよね。そういう力、持ってるんだよね。……一種の、超能力ってやつかな」


 柴崎が、「えっ?」と声を漏らした。信じられないモノを見る目つきで、彼女の顔面は疑問符で埋め尽くされている。

 俺は構うものかと、賭けに出ていた。

 彼女が本音を俺にぶつけてきてくれた以上、俺とて、彼女に本心でぶつからなければならない。俺はそう感じていたんだ。

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