7. 見てわかりませんか? チュパカブラです


 彼が見せた不可思議なリアクションのせいか、すれ違った彼があの、『月代つきしろ蒼汰そうた』だったからなのか――、真意のほどは定かではないが、私はまるで、世界が止まってしまったような心地を覚えていた。すぐ近くにヒマリもヤエもいるはずなのに、半円の球体に覆われた透明な空間で、私と月代くんだけが、この場所に存在しているような気がして―― 


「月代、どこ行くんだよ? 美術の授業もう始まってるぞ? ……っつって、俺らも遅刻確定なんだけど」


 ヒマリの快活な軽口によって、私の意識がリアルに返還される。

 月代くんも、ハッ、と慌てたような表情を見せていた。私とヤエとヒマリと、三人の視線が彼に集まり、月代くんは地面に目を落としながら早口でまくし立てはじめた。


「ああ、えっと……、ちょっと、気分が悪くなっちゃって、五限目だけ保健室で休ませてもらおうかなって」


 キョロキョロと忙しなく眼球を動かしている月代くんを、私たち三人は無言で見つめていた。居心地が悪くなったのか、彼は「それじゃあ、僕は」と私たちに再び背を向け、早足で階段を駆けのぼり始める。私は思わず、「お大事に!」と彼の背中に向かって大声を投げた。


 少しの間、私たちは黙ってその場に突っ立っていたが、「体調が悪いようには見えませんでしたけどね」とヤエが首をかしげたのを皮切りに、私たち三人は再び美術室に向かって足を動かし始めた。

 ヒマリがボソッと、「アイツ、今……」と独り言を漏らしていたような気がしたけど、その真意はわからない。私はというと、さっきの月代くんの表情が頭から中々離れられないでいる。



「ぐぬっ……」


 うら若き花の女子高生とは縁遠い呻き声が私の口から漏れて、私は両掌の指先に全神経を集中させていた。思わず呼吸をするのも忘れて、肩にギュッと力が入って、バキッ――、という嫌な音と共に、私の全神経がブツリ切断される。

 彫刻刀の刃を立てすぎたせいか、版木の深い部分で刃先がつっかかってしまったミスを犯した私は、まぁいいかと無理矢理押し進める作戦を強行するも――、見事に失敗。

 ふぅっ、と胃の中にたまっていた息を一気に吐き出した私は、持っていた彫刻刀を机の上に乱暴に置いた。そのまま作業を再開する気にはなんだかなれず、無意識で頬杖をついた私はボーッとクラスの授業風景を眺めはじめた。


 美術の授業では席の指定が特にないため、大体の生徒は仲の良いグループ同士、雑談を交えながらきゃっきゃと創作活動を楽しんでいる。非常勤の美術講師がそれなりにフリーダムな性格をしているのでよっぽどうるさくしなければ怒られないし、気楽に臨める美術の授業は我がクラスでも人気の部類だ。

 私の隣りでは、ヤエが未確認生物画の完成にせっせと勤しんでいるし、私の視線の一直線上では、ヒマリら仲良し男女六人グループがまるで合コンの如く顔と机を向かい合わせていた。

 ヒマリの目の前に位置するボブカットヘアの女子が、なにやら両手を広げて大袈裟なジェスチャーを披露している。無駄にでかい胸でワイシャツがはちきれそうだ。「私、見たんだから、こ~んな大きい――」とか言ってるんだけど、……おい、片手に彫刻刀を持ったまま腕あげんなよ、あぶねぇって――、私は一人ハラハラしていた。

 目の前のヒマリがまさに私の苦心をくみ取る様に、振りあがっている彼女の片手に指先を向け始める。どうやら彼はボブカット女子の奇行を注意してくれている様子で、指摘された彼女はハッとした顔を見せて、「ゴメンゴメン」と謝っているようだった。……よかった。


「――アカネ、何サボってるんですか」

 平和の到来に一人満足していた私の真隣、ボカロ並みに抑揚のないヤエの声が私の耳にヌルリ入り込む。ギョッ、と思わず頬杖を解除した私が彼女に目を向けると、さきほどまで版木を削る作業に無心になっていたヤエは手を止めていて、相変わらずのジト目で私を凝視していた。


「べ、別にサボってねーし。疲れたから休んでただけだし」

「休み時間外に休んでいるというのであれば、それはやはりサボりなのではないですか」

「……うっせ、お前は私の上司か小姑かっつーの」

「どちらでもないし、どちらも疲れそうなので御免被りますね」

「こっちから願い下げだっつーの。……ってかヤエ、先週から気になってたんだけど、ソレ、何の画なの?」

「見てわかりませんか? チュパカブラです」

「――わかるかっ! ってかなんだよチュパカブラって!? 聞いてもわからんわっ!」

「アカネのソレは……、ゴリラですかね」

「――猫だよっ! ちくしょうっ!」


 限りになくゼロに近かった私のやる気ゲージが、限界突破してマイナスを越え始めたのは言うまでもなかった。さすがにヤエも疲れてきたのか、はぁと息を洩らしながらグリングリンと首を回しだす。ピタリ静止した彼女が、斜め上に目線を向けながらボソリ声を漏らした。


「それにしても、変わってますよね」

「……はっ?」


 主語も脈絡もないヤエの問いかけ。私の片眉が吊り上がるのは必然だ。

 彼女は少しトーンの落とした声で言葉を紡ぐ。


「月代さんですよ。いつも一人でいるし。誰かと話しているところ見たことありませんし。……もしかしたら私、授業以外で彼の声を聞いたの、さっきが初めてだったかもしれません」


 唐突に出現したその名前に、思わず私は彼がいる方に目をやってしまった。六限目から復帰した月代くんは教室の隅っこで、一人黙々と版画製作に勤しんでいる。

 私はヤエの方に視線を戻して、できるだけ興味のなさそうなトーンで声を返した。


「……まぁ、世の中広いし、色んな人がいるワケだからさ。クラスに一人はいるでしょ、そういう子も」


 急に『月代くん』というワードを出され、内心、私は一人で焦っていた。でも、突発的に返した割りには私の返答内容は我ながら正論だ。特段不自然ではないはずの会話の流れに、しかしあさっての方向に目をやっているヤエは何故か腑に落ちた表情を見せない。


「そりゃあまぁ、そうなんですが。……なんていうか、彼、『コミュ力が低いから人の輪に入れない』って感じしないんですよね。よく見ると顔は整ってるし。……なんか、『他人に接触されるのを自ら拒絶している』、とでも言いますか」


 ブツブツと宙に向かって言葉を放り投げているヤエは、もはや私に話しかけているんだか、独り言を言っているんだかがわからない。……ヤエがこのモードに入ると、口弁が止まらなくなるという事実を、私はイヤという程知っている。私としてはこの話題を早々に断ち切りたい気持ちがあるんだけど、たぶん彼女はソレを許してくれない。


「それに彼、たまに片耳だけイヤホンしているじゃないですか、さっき階段で会った時にもつけてましたし。変わってるとは思いませんか?」

「それは、ただ単にラジオか何かでも聴いているんじゃないの? 私、二年生の時も月代くんと同じクラスだったけど、前からそうだったよ。そこまで変ではないでしょ」

「体調が悪くて保健室に行くときにまで、ラジオを聴く人なんていますかね。それに、月代さんがつけているイヤホン、どこにも繋がってないって噂があるんですよ」

「……えっ?」


 互角のラリー合戦を繰り広げていた私とヤエだったが、ボレーショットのような彼女の隠し玉に私は思わずお間抜けな声を上げ、言葉を窮してしまう。虚空を見つめていたヤエの視線が移ろい、彼女は満足気なニヤけ顔を私に向けた。

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