31.Pray

 昔、子どもの頃に、母親によく海に連れて行ってもらっていた。

 砂浜と、端っこにテトラポッドが積まれている、そんな海辺だ。

 とは言っても北国の生まれなものだから、そこはとても泳げるような場所じゃない。

 けれど、昼下がりに見た、雲一つない空の下の水平線は、今でも記憶に残っているくらいには綺麗だった。

 天国では、みんな海の話をするという。もしこの話が本当だとするならば、俺はフランシスに昼下がりの海の話を聞かせたい。


 ……いや、違うな。聞かせるんじゃない。

 見せよう。

 いつか彼女を連れて行って、昼下がりの海を見てもらおう。

 彼女が本当に天国に行ったときに、仲間外れにされないよう。




 ◇




 空が赤紫に染まっている。西の空では陽がオレンジ色を引き連れて沈みかかっているのが見えるに、時刻はもう、夕暮れだ。

 俺は『モンタナ・ファミリー』の屋敷、その屋上に立って、ただその夕暮れを明かりがつき始めた街並みと共に、ぼうっと見ていた。

 西海岸の特徴なのか、温暖な気候の割に、海から運ばれる潮風は程よい冷気を帯びている。

 あとはタバコの一本でもあれば、黄昏るのにこれ以上ないシチュエーションだろう。


(とは言え、無いものねだりをしてもしょうがないか)


 そんな、正直取るにも足らないようなことを考えていると、後ろの方から、風の音に紛れて足音が聞こえた。誰か来たんだろう。けれど、何故か俺は振り返る気になれなかった。


「上手いことやったみたいじゃないか、黒髪黒瞳」


 それはリネンの声だった。どうにも感情の読み取れない、淡々とした、そんなトーン。

 彼女はそのまま、俺の隣に来て、フェンスの上に手を置いた。彼女もまた俺の方を向かず、明かりがつき始めた街をじっと見ている。


「肩は? 大丈夫なのか?」


「あんなもの、怪我のうちにも入らない」


 そっけなく、リネンは言った。


「『錠剤』さえ使えば、大抵の傷は自然治癒で済む。寝てれば痕もなく勝手に治るんだから、神様に祈るのがどれだけ無駄かってのがわかるな」


「そりゃあいいな、これからはチャック・ノリス・ファクトでも唱えとけよ」


「なんだ、それ?」


「お祈りさ、神様より強力なやつ」


 しょうもない応酬をしながら、俺はリネンを横目で見た。今の彼女はタンクトップを着ているから確認できるわけだが、確かに、昨日あんなに抉られたはずの肩の傷が、まるで嘘だったかのように消えている。

 『錠剤』というものがどういう薬なのか、実のところ俺はよくわかっていない。しかし、あれを一粒飲めば、マーベル・ヒーローもかくやというような身体能力を、一時的にだが手に入れられるという。便利だが、同時に不安を煽る話だ。


「……悪かったな」


 言いづらかったのだろう、リネンはとても小さく、そう呟いた。


「……何の話だ?」


「とぼけるなよ、お前を守るどころか、殺される寸でのところを助けられた。おかげで、この様だ」


「ああ、そういう」


 そこまで聞いて、ようやく彼女の言っていることがわかった。多分、最初にこの屋敷に来た時のこと。フランシスに会ったときのことを言っているのだろう。


「気にするなよ。お互い生きてるんなら、ことも無しさ」


「……それじゃダメなんだよ。それじゃあ、私がイトに負けたことになる」


 彼女は落ち込んだトーンで言った。


「アイツがお前を守れるのに、私は守れないなんてこと、あっちゃいけないんだ。アイツができることで、私ができないなんてこと、あっちゃいけない。そんなことになったら、私は永遠に、アイツに見下されるだけだ」


 ……なるほど、どうやら彼女が謝ったのは、俺への罪悪感というより、自分のプライドとコンプレックスの問題らしい。まあ、彼女が俺に罪悪感なぞ抱くわけもないだろう。何だか、少しでも心配したのが馬鹿みたいに思えてしまった。


「……お前、本当はイトの大ファンだろ?」


「ハアッ!?」


 俺が意趣返しとして言うと、リネンはずいぶんと素っ頓狂な声をあげた。


「だってお前、何かにつけてイトを引き合いに出してるじゃないか。自分で気づいてるのかはともかく、相当憧れてるんだと思うよ」


「違う! 勘違いもいい加減にしろ! ただ私がアイツより下に見られてるのが、納得できないだけだ!」


「ああ、わかったよ。そういうことにしとこう」


 結構面白いなコイツ。そう思っていると、彼女は俺を睨みつけながら、両の手を握りしめていた。どうやら、仕返しの言葉がなかなか見つからないようだ。


「ッ……そんなことより、お前はどうなんだ? お前、あのイカレた獣人女を、エレーミアの側につかせたみたいじゃないか」


 リネンは少しムキになったようで、指をさしながらそんなことを言ってきた。


「フランシスのことか?」


「それ以外にないだろう。それで、どうやって奴を誑かしたんだ? この女ったらしが」


「人聞きの悪いこと言うなよ。別に、俺が何かしたわけじゃない。逆だよ、俺のわがままを、あの子が聞いてくれただけ」


「はあ?」


 リネンは納得いってない声を出した。まあ、そんな反応にもなるだろう。


 結果だけ言うと、フランシスは生き延びた。

 昨日の夜、教会でのフランシスとの問答の後、すぐにベルさんが来て、彼女に応急処置を施した。彼女が『獣人』ということもあってか、寸でのところで一命をとりとめ、今はウィンストン・ヒルズにある病院の、集中治療室ICUに放り込まれているらしい。

 とりあえずのところ、命に別状がなくなった程度には快復の兆しが出ているらしく、胸をなでおろしたのを覚えている。


「……まあ、どうにしろ、フランシスやつが生き延びたんなら、それはそれで面倒なことが待ってるぞ」


 意味深に、リネンはそう言った。

 『何故?』とは聞けない。その予想は、おおよそ俺と同じものだろうから。


 ――するともう一度、屋上のドアが開く音。

 俺は今度こそ、そっちの方向を見た。


「……なんでお前がハリといんだよ、リネン?」


 見ると、不機嫌そうな顔をした、イトがこちらに歩いてきていた。


「お前にそんなこと、いちいち教える義理なんてあるか?」


 売り言葉に買い言葉。ただでさえさっきの話題で不機嫌になったのか、今度はリネンがそう言った。


「ああ、また誰かに連れ去られちゃ困るからな」


「フン、あれは少し油断してただけだ。次はしくじらない」


「いらねえよ、今後は私が守る」


「……ハッ、大した面倒見の良さだ。そのまま下の世話もしてやればどうだ?」


「あ?」


「……あー、イト?」


 流石にこのままじゃ埒が明かないので、俺は二人の話に割って入った。


「何か、俺達を探してたんじゃないのか? 急いでるみたいだったけど」


「ああ……レザボア・ハウンドがお呼びだぜ。多分、『今回の件』だ」


 今回の件、それは言うまでもなく、フランシスのことだろう。


「……まあ、楽しい話ではないだろうさ、覚悟はしておくんだな」


 リネンはそう言って、足早に昇降口の扉へと向かう。俺とイトもその後についていった。


「……なあ、さっきリネンと二人で、何の話してたんだ?」


 ふと、イトがそんなことを聞いて来た。その言葉は『二人で』を妙に強調していて、どこか刺々しい。


「別に、なんてことない話だよ」


「……あっそ」


「……なんかあったか?」


「何でもねえよ」


 イトが何故か不機嫌になって、そっぽを向いてしまった。

 何かまずいことでも言ってしまったのかもしれない。エレーミアの話が終わったら、それとなく謝っておこう。

 ふと、振り返って、ウィンストン・ヒルズの街並みを見る。

 夕暮れのその街は、その灯の裏側にあるものを全部覆い隠して、酷く静謐で、神聖なものに見えた。




 ◇




「ああ、ハリくん、こっちこっち」


 シャンデリアに照らされたサロン室。その扉を開けると、ルーラが俺を見つけて手招きをしているのが見えた。

 四角いテーブルを囲う形で、ロの形のレイアウトに配置されたソファに皆座っているようだった。手前のソファが空いていて、右側にルーラとベルが、左側にラミーが。

 そして奥のソファには、エレーミアが足を組んで座っていた。


「座って」


 彼女は静かにそう言った。

 言われるがまま、空いているソファに座る。俺とイトが手前のソファに、リネンがラミーの隣に座った。


「……揃ったことだし、そろそろ始めてもいいかしら?」


 その言葉に皆返答せず、ただ黙ってエレーミアの方を見る。それこそが開始の合図だ。


「まずは、今回のフランシスの騒動について、巻き込んでしまったことへの謝罪と、彼女を助けてくれたことへの感謝を述べさせていただくわ。ありがとう」


「……前置きは結構だ」


 エレーミアの言葉に、イトがそう被せてきた。


「お言葉だが、通り一遍の挨拶が長いのは、アンタの欠点だよ、レザボア・ハウンド」


「おい、イト」


 リネンがそれを制止しようとするものの、それに構わず、イトは言葉を続ける。


「どの道もう、『持ちつ持たれつ』になるのは避けられねえだろ。言えよ、まだ私たちに出て欲しい演目があるんだろ?」


 イトがぶっきらぼうにそう言うと、エレーミアは一瞬目を逸らした。

 ちょっとだけの沈黙。

 その後、彼女は口を開いた。


「……はっきり言うわ。『モンタナ・ファミリー』に入ってもらいたいの」


 俺達を見回して、彼女は明確にそれを口にした。

 彼女はその先を続ける。


「今、うちはかなり危ない状況なの、知ってるでしょう?」


「……君の妹のことだろう?」


 彼女の問いかけに答えたのはベルさんだった。

 フランシスが? どういうことだ?

 多分、そんな疑問が顔に出てたんだと思う、ベルさんは俺を見ると、そのニヒルな表情を崩さず、説明を始めた。


「ハリくん、教会でフランシスが殺した、『ママ・ロザリア』の手下の死体を見ただろう?」


 俺はそれを聞いて、ある考えが脳をよぎった。

 それを見て、彼女は嬉しそうに頷いた。


「今察したとおりだ。カルテルの構成員を、特殊な事情があったとは言え、別のファミリーの身内が拷問紛いの殺しをした。これは非常にマズイ。特にこの世界では一等にマズイことだ」


「……戦争になるかも、てことですか?」


「『かも』じゃないわ、なるのよ。このままだと確実に」


 俺の問いに、エレーミアがそう補足した。

 ママ・ロザリア。赤毛のロジー。最初に俺を拉致して、『クリーピーローズ』の服用者にしようとした。大規模麻薬カルテルのボスだ。


「しかも追い打ちで、フランシス自身が『モンタナ・ファミリー』の構成員の大部分を切り殺しちまった。今のまんまじゃ、組の存続自体はおろか、レザボア・ハウンドの命も危ういってわけだ」


「当然、その妹もな」イトはそこまで言って、あごに手を当てる。わかってはいたつもりだが、ずいぶんと良くない状況のようだ。


 ……フランシスを助けて、大団円でハイ終わり、等というわけには当然いかない。今起こっている事態は、間接的にではあるが、俺が遠因を作ってしまったんだ。


「……勝手なことを言っているのはわかってる、けれどお願い。貴方達が味方についてくれたら、ファミリー復興までの時間が、かなり稼げる」


 エレーミアはそう言って、真っ直ぐと俺を見た。


「フランシスが帰れる場所を、守ってほしいの。あの子に、自分の罪を償うチャンスを与えて欲しい」


 彼女ははっきりとそう言った。その言葉は、家を守るボスとしての責任であり、また姉としての、妹への愛情を測るに十分なものだった。


「……だ、そうだが、いかがかね、諸君?」


 どこか芝居がかった身振り手振りをしながら、ベルさんは俺達をざっと見まわした。


「なんでアンタが仕切ってるんだ? ……もともとそのつもりだったんだ、異論はないさ」


「リネンが良いならぁ、私もオッケー」


 リネンがぶっきらぼうに、ラミーが笑いながら、それぞれ同意を口にする。


「……まあ、このままじゃどっちにしろジリ貧だ。寝床と餌さえくれるんなら、文句ないさ」


「わ、私も! ちょっと、恐いけど……」


 イトは腕を組んで、ルーラはちょっとひきつった笑いをして、同様に賛同の意を示した。


「……貴方はどう、ハリさん?」


 エレーミアがそう言って、不安そうな顔で俺を見た。

 ……そんな顔をされても、言えることなんて決まってる。


「反対する道理もないよ。それに、まだフランシスに話したいこともある」


「……ありがとう」


 ずいぶんと遠回りになったが、これで、とりあえずは当初の目的である。『モンタナ・ファミリー』への参入を達成できたわけだ。

 ただ、これは終わりじゃない。きっと、更に大きな渦の入り口、またそこに立っただけなのだ。


(……フランシス)


 キミに海の話ができるのは、いつになるんだろうか。

 昼下がりの海の、雲のひとつもない水平線を見せられるのは、一体いつの話になるのだろうか。

 どうか、もう少しだけ、頑張ってくれ。

 留守番は、しっかりしておくから。


「……ハリ、どうした。ぼうっとして?」


 話し合いが終わって、緩慢とした空気が流れ始めるなか、イトは俺を見て、そう聞いて来た。


「いや、ただ……」


「ただ?」


 不思議そうな顔の彼女に、俺はこう答えた。






「きっと、綺麗だ」


「え?」


「昼下がりの海は、きっとさ」



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