22.Bicker
――お前、私と寝ろ。
部屋が静寂に包まれる中、リネンが俺に向かって言ってきた言葉を、頭の中で反芻する。逆に言ってしまえば、あんまりに予測してないことを予測していない相手に言われたものだから、答えることもできず、ただただ固まることしかできなかった。
イトが落としたコップが、水びたしになって床に散らばっている。それが嫌に今の空気を重くしている気がして、息苦しかった。
「……おい、聞いてるのか?」
俺がダンマリしていることが気に喰わなかったのか、リネンは眉間にしわを寄せて、首を傾げて俺を睨み付ける。
「あ、ああ……その、つまり?」
「何度も言わすな。私と寝ろ黒髪黒瞳。そうすりゃ、ハンバーガーだろうがブリトーだろうが好きなだけ喰えるようになるさ」
「ちょっと待てオイ」
割り込むように、イトが声を発した。何故か妙に殺気立っており、その声はいつもよりも1オクターブほど低い。正直、少し怖いと思った。
「お前ついにクスリのやりすぎでアッパラパーになったのか? ハリがお前とヤることと金を稼ぐのに何の関係があんだよ?」
「そ、そうだよ! アンタただハリくんと、その……シたいだけなんじゃないの!?」
イトの言い分に、顔を真っ赤にして同調するルーラ。怒っているというよりも、この手の話題に耐性がない、という感じだ。
「そーだそーだぁ! ヤるなら私も混ぜろー!」
「ややこしくなるから黙っててよラミー!」
ついにラミーまで悪乗りし、収拾がつかなくなってきた。状況に追いつけてない俺は何かを喋るタイミングなどわかりようもなく、ただ困惑しているしかできない。どうしたものか……。
「……君の言う『ツテ』と関係があるのだろう?」
そう言ったのはベルさんだった。イトたちはピタリと話を止め、もしゃもしゃとハンバーガーを食べている彼女を見る。
「大方、ハリくんを使ってこの辺を占めている連中に媚びを売るというところか。彼は餌としては最上だしな」
ベルさんがそう続けると、リネンは「ハァ」とため息を吐いて、口を開いた。
「言い方は大いに気に喰わないが、概ねそんなところだ。食い物と寝床をねだる程度なら、釣りがくるくらいの献上品だろ?」
「しかし、危険ではないのか? そいつらが取引を無視して、彼を強奪するなんてことになったら――」
「ない。連中は私とイトを知っている」
ベルさんが言い切る前に、リネンはそう断言した。その顔は自信のそれすらなく、ただ『当然のことだ』といわんばかりの表情だ。イトの方を見ると、彼女はリネンの方を見て、気に喰わなそうな顔をしていた。
「いくら美味そうな肉があるからって、腹をすかせた虎が2匹もいるような檻に、入るようなバカはいないさ」
そう言うリネンの眼には、凍えるような冷酷さがあった。つい今までグロッキーになっていたとは思えないほどの圧だ。
「……待てよ、全然質問の答えになってねえ」
しかし、イトはそんなリネンの雰囲気を何ら気にすることも無く、彼女を指さして口を開く。それに対しリネンは、面倒くさそうな目でイトを見つめ返した。
「なんだ、指をさすなよ」
「お前の言う『ツテ』ってのはわかったよ。何を考えて『ウィンストン・ヒルズ』くんだりまで来たのかってのもな」
「けどよ」イトは続ける。その先のことは妙に言いづらいようで、ほんの少しだけ、前半に比べてどもっている。
「なんでそれが、お前がハリと、その、あー……寝るってことになるんだよ」
「別に、必ず本当にファックしなきゃいけないわけじゃないさ。文字通り『私と寝る』だけでもいい」
「だとしてもだ、全然繋がりが無いだろ?」
「……その……やっぱ、個人的にシたいとか?」
ルーラが恥ずかしそうに、人差し指をツンツンとさせながらリネンに聞く。そこまで恥ずかしがってまで聞くほどのことでもないと思うが、どうなのだろうか?
「ふん、そんなわけないだろうが、この発情腰ぎんちゃくが。お前と一緒にするな」
「……え、発情腰ぎんちゃくって何、うちのこと!?」
予想外のリネンの一言に、ルーラは思い切り憤慨した。いやまあ、確かに随分なネーミングセンスだとは思う。
リネンはそんなルーラを気にも留めず、テーブルにある袋からハンバーガーをひとつ取り出して、包み紙を乱暴に開く。
「別にファックするのが私じゃなくたっていいんだ。重要なのは毒見だ」
そう言いながら、彼女はハンバーガーを頬張る。
「……ピクルスが入ってる」
ボソッと、そう呟くのが聞こえた。少しだけ顔をしかめているのを見るに、きっと嫌いなのだろう。
イトはそれを気にした様子もないが、ただリネンの言ったワードに疑問を持つ。
「毒見?」
「そうだ。お前はママ・ロザリアになるべく近づかないようにしてたから知らないんだろうが……」
リネンがママ・ロザリア……ロジーの名前を口にした途端、イトは顔を険しくする。
それに構わず、指についたハンバーガーのカスを舐めながら、リネンは続けた。
「ママが他の富裕層相手に、『例の薬』をプレゼンしていたのを、何回か見たことがあった」
俺もイトも、その言葉に目を見開いた。『例の薬』、それは言うまでもなく……。
「……『クリーピーローズ』」
俺の思考のその先を、ベルさんが先回りして口に出した。
『クリーピーローズ』、それは対象を意のままに操る『錠剤』。服用者本人ではなく、服用者に近づいた人間をマインド・コントロールするという、まさに魔法のような薬だ。
ベルさんは合点がいったような顔で、その先を続ける。
「なるほどな。あの薬の恐ろしいところは、近づいただけで効果が出るということだ。本人がいくら毒を盛られることに気をつけていようがな」
「そういうことだよ博士。今の話で分かったと思うが、すでに何人かの金持ち共の間では『クリーピーローズ』は知れ渡っていると思っていい。ママの支配外のこの西海岸でもだ」
リネンはそう言って、再びハンバーガーを口に運び始める。
「当然、私の『ツテ』だってそうさ。だから、黒髪黒瞳に毒が入ってないことを証明しなくちゃいけない」
「……お前の言い分はわかったよ。何がしたいかも理解できた」
そう言いながらも、イトの顔はどこか納得していない様子だ。それにはリネンも気づいているようで、食事の手を止め、イトを睨み返す。
「なんだ? まだ何か言いたいことでもあるのか?」
「……ハリの意思はどうなんだよ? お前さっきから、コイツを使う話なのに、コイツを無視して話してばっかだ」
「何を言うかと思えば……」
心底呆れかえったような視線を、リネンはイトに向ける。
「なぜ男の意見なんぞ聞かなきゃいけない? お前は車に乗る時に、いちいち車のご機嫌を取ったりするか?」
「なぁんか、イトって変だよねぇ。男の子を人間みたいに扱うじゃん。それはちょっとやりすぎじゃなぁい?」
リネンの言葉に、ラミーも同調する。
……しばらくなかったから忘れかけていたが、そうだ、この世界で男というのはこういう扱いだったんだ。
基本的に道具と同じ。需要と希少性はあるから理不尽に虐げられることこそないものの、やはり女性との間には絶望的な上下関係がある。
いまさら驚くことも無いが、この価値観の違いをまざまざと見せつけられると、やはりここは異世界なのだと改めて実感させられる。
「……もう一度言ってみろ」
まるで抜き身のナイフのような、明確に殺意のこもった声を発して、イトはリネンたちを睨み付ける。
それはルーラも同様で、今にも喰って掛かりそうな雰囲気だった。
「落ち着きたまえ、イト」
そう言ったのは、ベルさんだった。
イトは彼女の方を向く。
「このままママ・ロザリアから逃げていても、いずれは窮する。その前に他の大きい勢力の庇護下に入るしかないんだ。君の言い分はわからないでもないが、手段を選んでいる場合ではない、だろう?」
まるで聞き分けのない子供に諭すように、ベルさんはイトを説得する。
すると、イトは困ったような顔で俺を見た。困ったような、納得していないような、そんな顔。
……そんな顔しないでくれ。俺だってやらなきゃいけないことは、わかっているつもりだ。だから、俺はこうやって言うしかないのだ。
「イト。俺は出来るよ」
「でも、ハリ……」
「生きるためだ。それに、俺だってそろそろ、ブリトーを好きなだけ食べれるくらいの金は欲しい」
思わず俺は、そんな茶化すようなことを口に出してしまった。が、強がっていると思わせてしまったらしい。イトは俺を見て、酷く悔しそうな顔をした。
何かフォローを入れるべきなのだろうが、何も言葉が浮かばない。
「……ハリくん、いいの?」
「大丈夫だよ、今度は俺が身体を張る番だ」
俺は心配そうに見るルーラにそう言って、リネンとラミーの方に顔を向ける。
「それで? 毒見はリネンがしてくれるとして、実際にお出しする人は誰だ?」
「……ここらへんでは『レザボア・ハウンド』なんて呼ばれている。ごく最近、世代交代があった『モンタナ・ファミリー』のボスだ」
「鼻の利く、『獣人』の女さ」
そう言ってリネンは、ハンバーガーの最後の一切れを口に入れた。
……『レザボア・ハウンド』、『モンタナ・ファミリー』。色々物騒な名前が次々出てきた。
ただ、これだけは聞かなければいけないだろう。
「リネン」
「なんだ?」
「……『獣人』って何?」
「……お前、義務教育受けてないのか?」
『この世界のは』と言いたかったが、話がこじれそうなのでやめた。
そんなもんで、リネンが心底呆れたような顔を向けてくるのを、俺はただ甘んじて受け入れるしかなかったのだった。
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