09.Both
いつの間にやら、もう夜のとばりがおり始めていた。街灯が点き始めて、レストランやらパブやらのネオンサインがせわしなく自己主張を繰り返している。そんな地上を、空は我関せずとばかりに、みるみるうちに薄暗い赤紫色が黒に塗りつぶされてゆく。
そんな夜の時間帯に、俺はフードを目深くかぶり、マスクをつけて――要は顔がほとんど見えない状態で――余り治安がよろしくなさそうな裏通りを歩いていた。すぐ前にルーラが、そしてすぐ後ろにイトが、一緒に歩いている状態でだ。
「……いいか、まだ絶対喋るな。背を丸めて、なるべく小柄に見せろ」
後ろからイトが、ごく小さな声で耳打ちしてくる。俺は指示通り、なるべく息を殺して、猫背になって歩いていた。
俺たちは今、この街の有力者であるという、『ベル』と呼ばれる医者に会うため、なるべく人目につかないよう病院を目指していた。
目的は俺を保護してもらうことと、『青いバラの錠剤』を調べてもらうためだ。信頼できるのかという不安がない、といったらウソになる。
『この辺のやつらは、みんなベルから薬を貰ってる。よっぽどマジにキレたやつでもない限り、あいつの家を襲うようなのはまずいないさ』
『わかった。けど、そのベルってやつ自身は、どうなんだ? その……言える立場じゃないのはわかってるけど、大丈夫なのか?』
『そこは……まあ、頑張ってくれ』
そんな会話を、出発する前にイトとしたわけだが、『頑張ってくれ』とはどういう意味なのだろうか? 少なくとも強姦されたり、ドラッグ漬けになるようなことはないとは言われた。しかしベルについて話していた時、イトもルーラも何とも渋い顔をしていたのが、いやに気になった。
「ここだよ、段差があるから気を付けて」
ふと気づいたら、ルーラが建物のドアの前に立っていた。
グルグルと考えているうちに、どうやら到着したらしい。暗くてよくは見えないが、簡素な白塗りの、けれどところどころ塗装が剥げている建物だった。
少しだけ段差のある入り口。その味気のない蛍光灯で照らされたドアに、これまた無機質な、赤い十字マークが描かれている。ここが件の病院のようだ。
「……なあ、ハリ」
周りに誰もいないから大丈夫だと判断したのだろう。後ろで警戒していたイトが、俺に話しかけてくる。俺は少しだけ反応が遅れて、彼女の方を振り向いた。
「ベルのことだけどさ、その……本気でいやだったり、どうしても無理そうなら言ってくれよ。別の方法だって、無いわけじゃないからさ」
「……いや、大丈夫だ。ありがとう」
ここまで来て、今更わがままを言う気もない。もう今朝みたいなことはごめんだし、何よりここまで骨を折ってくれている彼女たちを、困らせるようなことはしたくなかった。
俺の言葉を聞くと、彼女は小さくうなずいた。
そうしているとルーラがドアをノックして、そして返事も待たずにドアを開けた。
「ベルー、いるー? おーい」
玄関に入る。建物の中は少々古びてはいるものの、いかにも町病院の待合室、といった光景が目の前にあった。
そんな病院をきょろきょろと見回して、しばらく。ルーラが三回目の呼びかけをしようとしたところで、奥の方からサンダルを履いた人が、のそっとした動作で、猫背になって出てきた。
「……なんだね一体。時間外だよ、君たちィ」
そう言いながら、こちらに近づいてくるその人は、白衣を着た妙齢の女性だった。毛先の部分が少し外側にハネた、余り手入れをしていないような茶色いセミロングの髪と、黒ぶちのメガネをしているのにも関わらず、隠しきれない隈を携えていた。
こんな時になんだが、ダウナーな色気のあるお姉さんだと、つい思ってしまった。
彼女がきっと、ベルなのだ。
「イト、ルーラ。『錠剤』が切れたんなら明日また来たまえ。十倍の深夜料金を取られたくはないだろう?」
「まだ8時前だよ、ベル。年寄りのアンタにゃ深夜かもしれねえけどさ」
「何度も言わせるな、君とは2、3歳程しか歳が離れていないはずだろう? ……おや、そのずいぶん大きい人は誰だい、新顔かね?」
そう言って、ベルさんは俺を指さす。
イトは俺の方を見て、小さく簡単なジェスチャーをした。顔を出せとのお達しのようだ。
俺は意を決して、マスクをとって、フードを脱いだ。
「……なにかの冗談かね、これは?」
まさに絶句といった表情を見せながら、ベルさんはイトにそう聞いた。
「……いろいろ、立て込んでてな。奥で話そう、頼みたいことがある」
そう言ってイトは、ベルさんの返事を待つことなく、俺とルーラを連れだって奥へ歩いていった。
◇
「ふぅむ……それはまた、難儀なことに巻き込まれたものだな」
奥の診察室で、イトは今朝からの出来事を大まかに話した。ベルさんはそれを、いつの間に持ってきてたのか、飲みかけのビール瓶を片手に、実に興味深そうに聞いていた。
「端的に言う。ハリの保護と、この『錠剤』の調査を頼む。アンタならどっちもできるだろ?」
そう言いながらイトは、ごくごく小さな紙袋を懐から出して、その中身をベルさんに渡した。
「ほう……これが件の『クリーピーローズ』とやらか。本当に『錠剤』なのかね、これは?」
「さあな。できれば、そこも含めて調べて欲しい」
イトにそう言われながら、ベルさんは青いバラの形の錠剤、『クリーピーローズ』を興味深そうに見つめる。
「ふむ……なるほど、わかった」
彼女はそう言って、薬を紙袋に戻して、それを机に置く。
すると、今度はゆっくりと俺の方に向き直して、にやりと笑って、俺を見た。
「しかしまさか、タダでやれなんて言わないだろう?」
「……なにがお望みですか?」
その言葉に、俺は息をのんで、戦々恐々としながらそう聞いた。思い出すのは、今朝あの誘拐犯たちにされかけたこと。震えそうな声を、何とか耐えた。
「ハリくんにちょっとでも変なことしてみろ。その頭かち割って、ケツに入れてやる」
普段の様子からは想像できないような低い声で、ルーラは言った。イトも言葉こそ発しないが、いつ銃を抜いてもおかしくないくらい、殺気立った目でベルさんを見ている。
そんな彼女たちの様子をからかうように、ベルさんはあっけからんと、両手をひらひらとしていた。
「アハハハ、やれやれ、私をその辺の下品な輩と一緒にしないで貰いたい。心配せずとも、ハリくんには指一本触れるつもりはないよ」
「……では何を?」
俺が緊張しながらそう聞くと、彼女は間髪入れず言い放った。
「欲しいのは君の精液だ」
「…………あー失礼、今何と?」
聞き間違いだろうか? できれば聞き間違いであってほしい。
そう考えながら両隣を見ると、先程の殺気は消えたが、イトはそれはそれは深いため息をこぼし、ルーラにいたっては本気で引いているのだろうと安易に想像できるほど、顔をゆがませていた。
「精液だよ、精液。いや体液なら何でも欲しい。血、涙、汗、鼻水、尿などなど。君から出るありとあらゆる液体を私に無償で提供してくれるのであれば、この話考えてもいい」
「あー……イト、説明してもらえるか?」
「コイツ、頭は良いのにえげつない変態で有名でさ。あーつまり……」
「……つまり?」
そう聞くと、イトは勘弁してくれとでもいうように、頭を抱えて、心底疲れた表情で言った。
「……『イチモツ』を生やそうとしてんだよ。自分の身体に」
俺はそれを聞いて、もう何も言えなくなった。
「変態とはなんだ! 君たちは男性器より敬虔で神聖なものがあるというのかい!?」
何やら酔いが回って来たらしく、興奮した状態で叫ぶベルさん。俺はそれに何かしらリアクションなどできるはずもなく、ただその様子を眺めていた。
恐らくは、俺が考えていた不安は杞憂に終わったのだろう。俺はなるべくそう思うように努めた。
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