5.5つめの人生

愛する人がいる、ということは、果たして本当に幸せなことだろうか。

この時の私の思いは、ただこれひとつにつきたような気がする。

それくらい、私には、全身全霊で愛した人がいた。

別に、自由恋愛が制約されていた時代ではない。

だが、私は愛してはいけない人を愛してしまった。

それは私の、義母-



『もう、だめだ、と思った。

 これ以上、とても 耐えられない。

 もがけばもがくほど、深みにはまってゆく。

 まるで、蟻地獄のように。 底なし沼のように。

 抜け出すことが、できない。

 助けてほしい。 あの人に。

 あの人にしか 助けられない、この闇。

 一寸先も見えない、心の闇。

 照らすことができるのは、あの人だけ。

 闇を取り除くことができるのは、あの人だけ。

 

 想像もしなかった。

 こんなに苦しむとは。

 恋愛が楽しいなんて、誰が言った?

 嘘だ。

 苦しくて苦しくて。

 こんなに苦しいならばいっそ、やめようか、とも思った。

 やめられたら、どんなに楽だろう。

 やめられない。

 そんなことは わかっていた。

 自分の気持ちに気づいたそのときから。

 やめられない。

 苦しい。

 抜け出したい。

 気づいてほしい。

 あの人に。 』 



親父は、20も年下の女と再婚した。

若く、美しい新妻。

それが、彼女との出会いだった。

だが、親父はほとんど家にはいない。

そして、家にいるのは、私だけ。

その新妻-私の義母-はどこか、鼬を思わせるような人だった。

彼女は私より少し年上だったが、つかみ所がなく、年の割に無邪気で。

そして、時々寂しそうで頼りなげで。

私が彼女を支え、彼女は私を頼る。

そんな、一見何でもないような関係の中、私はいつしか彼女に惹かれていった。

彼女もおそらくは、私の気持ちに気付いてただろう。

だが、彼女が私の気持ちに応えてくれることは無かった。

こんなことなら、いっそ出会わない方がよかった。

何度も何度も、そう思った。



『“今日、ブル-だな”

 ばかいっちゃ、いけない。

 ブル-なんかじゃ、ない。

 ブラックだよ、ブラック。

 すべてを飲み込む、漆黒。

 黒という色は、美しい。

 美しいけど。

 何か はかりしれない妖しさが、ある。

 おかしいな。

 恋愛って、ピンクなのに。

 イメ-ジ的には、ピンクなのに。

 僕にとっての恋愛は、黒。

 苦しくて苦しくて。

 苦しいなら、やめてしまえばいい。

 でも、やめられない。

 あの人は、それほどまでに僕を惹きつけ、そして・・・・突き放す。

 美しいけど、冷たくて。でも 妖しい魅力で僕を惹きつける。

 僕は何もできずに、あの人を待つ。

 ただ、ふりむいてくれるのを。

 一歩動くと一歩引き、一歩下がると一歩出る。

 そういう人だ、あの人は。

 待ってるよ、貴女を。

 ふりむいてくれるのを、待ってる。

 ここで、待ってる。

 だから。

 助けてほしい、闇から。

 僕のすべてが、のみこまれてしまう前に。 』



親父が家に帰ってくると私はよく、友人の家を泊まり歩いた。

たまらなかった。

親父とあの人が仲良くしているのを見るのは。

親父があの人のすべてを自由にできると考えるのは。

そして、そんな自分が何より一番、醜く思えて、何日も家に帰らないことが続いた。

いっそ、親父が死んでくれれば。

そんなことさえ、願っていたように思う。

そしてそれは、現実のこととなった。



私は一度だけ、罪を犯した。

償っても決して償いきれない罪。私の心から決して消えることのない罪。

親父が亡くなった晩、私は親父の隣であの人を、抱いた。

寂しそうで、頼りなげで、今にも消えてしまいそうなあの人を見ていると、もう、自分を抑えることができなかった。


ずっと、願っていたはずだった、心の底から。

満足すべきはずだった。

だが私の心を満たしたのは、とてつもなく大きな後悔の念。拭いきれない、罪悪感。

あの人の吐息が、指先が、唇が、私に触れる度に、それは私の心に傷跡を残し、その痛みから逃れるためにまた、新たな傷を付ける。

その傷が、いつしか致命傷となることも知らずに。



あの人は、私の前から去っていった。

あの人にとって、私の家にいる理由はもうない、ということだろう。

あの人は、永遠に、私の前から去ったのだ。

親父の位牌と傷跡を残して。



私は狂いそうだった。

いや、実際の所、もう狂っていたのかも知れない。

心の傷達は一斉にうずき始め、その痛みはとどまるところを知らず、遺影の中の親父はまるでそんな私をあざ笑うかのように、苦しむ私を笑って見つめる。

風の噂で、あの人が再婚したことを知ったその夜。

私は自らの手で命を絶った。

親父の遺影の前で、あの人の面影をしのびながら。

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