第一章 二夜 ~遊君 濡羽(あそびぎみ ぬればね)
翌日のこと。今宵は烏太夫にお座敷があるという。
昼間に絵を描くとしても、化粧もない姿を描くわけにもいかない。
深夜まで待つか…いやいや、明日の朝方か。
さて、どうしたものか、と絵師が考えていると女主人が言った。
「太夫は引きも切れぬからね。
なかなか空いてないさ。
得意の居続けを許してやるから代わりに他の遊女も描いとくれ。」
絵師にとっては宿代は浮くし願ったりではあるものの、タダ働きをすることにもなる。少々複雑な気分ではあるのだが、烏太夫の極上の笑みが思い浮かび、悪くない、と結論付けた。
絵師は昼から夕方にかけ、支度をする遊女たちを紙に写しとりながら過ごした。
この店にいる芸妓も遊女も雅やかで麗しい見目の者が多く、なかなか描き応えがあると絵師は密かに楽しんでいる。
絵師は遊女と遊ぶ金も稼げない甲斐性なしだが美人を描くのは好きでたまらない。
この男にとって絵師はまったくもって天職と言えた。
日が暮れ、表通りに灯が入ると、店は静かなまま活気が出てきた。
店には仕出しが届き、どこかの部屋で宴が支度されている。
男は店裏に戻ってきて一休みをする女たちに話しかけては絵姿を描いて過ごしていた。
店には次々と客が上がり、場を盛り上げる芸妓も宴の給仕をする下女たちもくるくると動き回っている。
そろそろ夜半という頃、主人から太夫のお座敷がお開きになったと言伝てがきた。
男は軽く身なりを整え、昨日通された小さな板間の座敷に向かった。
「ごめんなすって。」
男が声をかけると、障子戸が僅かに開き、主人が出てきた。
今夜は主人の方が待っていたようだ。
「お待たせいたしましたか。」
男が気遣って声をかけると、主人は自分も今戻ったばかりだといい、烏太夫の部屋へと向かった。
今夜は香にかすかな酒の匂いが混ざっているようだ。
「太夫、開けてもかまわぬか。」
昨日と同じ問いかけに今夜は太夫自らが障子戸を引いた。
「おや、禿らはどうした?」
烏太夫は優しげなほほえみを浮かべ、
「もう下がらせました。禿といえど年端のいかぬ子どもが起きていていい時間ではありませんもの。」
と答えた。
「あぁ、まったく太夫は甘い。
とはいえねぇ。この時間じゃ仕方もないか。」
男は主人と太夫のやり取りを聞きながら、墨を擂り、支度を始めた。
「ところでね、お姐さん。今夜はどんなお話をしてくださいますの?
楽しみにしていましたのよ。」
主人は呆れたように軽くため息をついた。
「やんごとなき方の初回のお座敷も無事終わったことだし、ま、良いでしょ。で、何をお望み?」
主人は太夫に文句は言うものの、滅法甘い。
「この店の最初の烏太夫のお話、のお約束でしたわね。」
「あぁ、そうだったね。」
男は筆を持ち、準備ができたことを示すと、主人はポツポツと話始めた。
「もう、ずいぶんと昔のお話しだよ…。」
主人は静かだが良く通る声で語りだした。話は数百年も昔という。
この地は昔から人が多く住み、また交通の要所でもあったことから人の出入りも多く、遊里も数多くあった。
この店のある遊里は、数ある遊里の中でも大きい方で、数多くの芸妓、白拍子、遊君が集まっていた。
あぁ、その頃は太夫なんて呼び名は無かったし、遊里のお遊びも春を傾ぐだけじゃなかった。
音曲、歌舞、芝居をはじめ芸を売る者も多く、料亭と芝居小屋をあわせたような賑わいだったときく。
ここでは、宵は酒を傾けながら能や舞を愛で、夜更けは好みの相手を探すといったお遊びを楽しんでいたのさ。
ここで最も美しく芸にも秀でた高貴の君ともてはやされてれていたのが、傾城君こと遊君(あそびぎみ)「濡羽(ぬればね)」だった。
烏太夫はそこで、あら、と声を上げた。
「遊女ではなく、遊君?」
「あぁ、そうさね。
昔は男女関係なく芸を売りにして客を楽しませることを生業とした者を遊君と呼んでいたらしい。
今の芸妓や役者もみな同じ扱いで、遊里に集まり芸を披露し、夜のお相手を務める者もいたんだよ。
濡羽は太夫の想像通り、男の遊君だ。
ここは寺社も多く、武士もかなり集まっていたことから、稚児や衆道を求められることも多くてね。男の芸妓や若衆(年若い男娼)も数多くいた。
太夫は知らないかも知れないが、今もこの地には陰間(男娼)を置く店も数多くあるんだよ…。」
知らなかった、と太夫と絵師は顔を見合わせた。
主人は、話がそれたねと言うと、つづきを語りだした。
この濡羽、というお人はやんごとなき血を引いておられ、また、武士の出でもあった。
本来はこんな場末の遊里にいるようなお方ではなかったが、その血筋ゆえにずっと命を狙われており、身を護るのに随分と苦労をされていたようだ。
濡羽の生きていた頃は公家も武家に圧されて混乱していたし、そもそも公家は跡継ぎでもない限り母方で面倒を見るものと決め込んでいたらしい。
帝の御落胤であっても身分卑しい武家の娘の産んだ御子、しかも既に次の帝となる東宮も決まっていたのだから、そんな庶子の末子などどうでも良かったのだろう。当然のごとく見捨てられていた。
さらに不幸なことに濡羽は幼い頃に母を病で喪った。
母方の武家に引き取られたものの、血筋と不穏な頃合故に家に置いておく事は濡羽もその武家も危険にさらす、火薬を裸で置くのようなものだった。
濡羽はすぐに山寺へと預けられ、身を隠したつもりだったが、この寺も安全ではなかった。
濡羽は出自を隠して山寺へ入ったものの、その血筋からくる身分を知る寺の高僧たちは忖度した。
高貴な御子に他の小僧のような下働きなどもってのほかで、特別の扱いをされることとなった。
それに濡羽は母譲りの天人のごとき美貌だったそうだから、幼い頃からさぞかし目立っていたことだろう。そうして同僚であるはずの他の小僧から知らず知らずのうちに妬みを買っていた。
すぐに稚児として生臭な僧に目を付けられ、事情を知らされている高僧がいくら言っても濡羽を狙う者は後を断たなかった。他の小僧どもの手引もあり夜中に濡羽の部屋に潜り込もうとする輩は多かった。
一緒に寺に預けられていた乳兄弟の従者と共に隠れたり、策を講じて何度も退けたが、さすがに嫌気がさしてしまい、ついに二人で山寺を抜け出した。
寺に預けて、ものの数か月で武家の家に逃げ帰ってきた二人に濡羽の叔父にあたる武家の頭領は驚き、頭を抱えた。
寺に事情を聞いても要領を得ず、仕方なく人を遣り確かめたところ、明るみ出たのはこの稚児騒動。
武家は約束していた寺への寄進を当然のごとく取り下げることにした。
また、金を出したくない公家はこういう時は話を利用する。
庶子とはいえ御子への狼藉は見過ごせないと言い出し、寺への援助を止めると言い出した。
おかげで濡羽は寺からの逆恨みも買うことになってしまった。
行くところもない濡羽と従者はそれでも武士として身を立てようとし、見よう見まねで武芸を覚えた。
二人は武芸の筋もよく、叔父である頭領もそれを認め、武芸を教えた。
これまで命も貞操も狙われつづけた二人は武芸の必要が身に沁みている。
二人にすれば身を護るため、ただ必死だっただけなのだが、上達は他の者より明らかに抜きんでて早かった。
今度はそれが裏目になった。
ここでも同年代の武家の子らからの妬みを買ってしまい、濡羽は武家の中でも孤立することになってしまったのだ。
幼かった濡羽がようやく元服を迎える頃、帝が武家を退け復権をもくろんで武士全体を巻き込んだ乱が起きてしまった。
首謀者が帝となれば、濡羽は複雑な立場になった。
濡羽は迷うことなく武家の一員として戦うことを選んだ。
濡羽からすれば、自分を見捨てた帝より武家を選んだだけのことだが、公家はそうは取らない。
また、武家からしても嵐の目である帝の血を引く濡羽は獅子身中の虫といえる。
いつ裏切って帝に付くかと疑いの目で見られることになり、さらに孤立を深めるとともに、不穏の源としてて始末しようと目論む身内からも狙われることになった。
濡羽は戦の間、公家と身内の武家の双方から命を狙われ、安心できる場所はないことを思い知った。
濡羽の唯一の味方であった従者の少年は濡羽と死地を超え、深い絆を結んでいた。
この従者も端正な顔だちの見目麗しい少年だったそうだ。
濡羽と従者は公家につく敵の武士と味方の刺客をかいくぐり、山中に逃げ込んでいた。
とはいえ、いつ見つかって殺されてもおかしくない状況は変らない。
従者は主であり、弟分の濡羽を自分が守ると決めていた。
そして、濡羽を守るための一計を案じた。
辛いときも、戦の中でも、遊びを思い付くのが得意な二人はいつも何かしら考えては遊び、状況を楽しもうとしていた。
そんな遊びの一つとして、濡羽に自分と入れ替わろうと提案した。
従者の事を濡羽が若君と呼び、従者は濡羽のことを冠者と呼ぶ。
面白がった濡羽はしばらくこの遊びを続け、身を隠していた。
ところが、思わぬ所に思わぬ敵が潜んでいた。
二人が隠れた山は、かつて二人が預けられた山寺の修行場だったのだ。
そこには荒っぽい偽山伏や僧兵崩れの野武士が徒党を組んで陣取り、山賊のような有様でいた。
この無法者の中にはかつて幼い二人を襲い、撃退されて恥を搔かされた僧も混じっていたのだ。
こうした僧崩れは二人を執拗に襲ってきた。
二人は必死で戦ったものの、気づいた時には数で勝る山賊どもに囲まれ、逃げ場を塞がれていた。
こやつら山賊は組織立っていないだけに質が悪い。
頭領と目される者を倒せばそれで総崩れになる武士と違い、奴らは勝手に動き回る。
しかも山行で鍛えられたその身体はその辺の武士より余程屈強で素早く、しなやかに動きまわる。
いくら武芸に秀でた二人でも同時に多数の猛者を相手に斬り結ぶことは難しい。
二人はどんどん追い詰められ、背中は谷、三方を山賊どもに囲まれて包囲を狭められていった。
山賊はかつて搔かされた恥を逆恨みし、二人を嬲り殺そうとしていた。
従者は濡羽を谷に突き落とし、自分は山賊どもに正面から突き進んでいった。
濡羽は深い谷を滑り落ち、足を捻って動けなくなってしまった。
それでも腕の力で上へと這い上がり、従者を助けなければ、と必死だった。
しかし、またもや深く積もった落ち葉に滑り谷底まで落ちて気を失ってしまった。
気を失う直前、山に住む烏の大群が大騒ぎする声が耳に残った。
その後、自分の身に何があったのかはまったく判らない。
濡羽が目を開けると、そこは知らぬ場所だった。
濡羽が谷に落ちたころ、ちょうど山で荒行をしていた山寺の阿闍梨(あじゃり)は、烏の異様な大騒ぎを不審に思い、烏の集まっている場所へと向かった。
すると、阿闍梨の眼前にはむさ苦しい僧崩れの山賊どもと首から血を流し、横たわる少年の遺体があった。
山賊どもは落ちぶれても元は山寺の僧。山寺の主たる徳の高い阿闍梨には従わざるを得なかったのだろう。
山賊に詰めより事情を聞くと、阿闍梨は激怒し、彼らを禁足にした。
そのうえで山狩りをし、一羽の烏が寄り添っていた濡羽を見つけ、この里に連れてきたという。
阿闍梨は濡羽らを覚えており、過去の事情も熟知していた。
濡羽を山寺に連れ帰るのはかえって危険だと判断してのことだったのだろう。
従者の少年は山賊に嬲り殺される前に自らの首に刀をたて、自刃したという。
話を聞き、嘆き泣き崩れた濡羽を哀れんだ阿闍梨は従者の遺品をもらい受けて濡羽に寄越してきた。
濡羽はその形見で生涯従者を弔い続けたという。
その後の濡羽は出自不問のこの地に身分を偽り隠れ棲むことでその身を護ることを選んだのだと伝わっている。
そうそう、濡羽もその名の通り烏に縁があってね。
預けられた山寺から抜け出した際、山中に巣から落ちた子烏がいた。
近くに天敵の鷹がおり、烏の親も近づけない様子だった。
可哀想に思った濡羽はこの子烏を拾って連れ帰り「翠(あお)」と名付けて可愛がった。
この子烏は大きくなっても濡羽を慕い、懐いていた。
この烏の翠が濡羽を絶命の危機を救い、従者の尊厳を護り、そして、濡羽に寄り添って遊里までついてきた。
それを知った濡羽はこの翠を今まで以上に可愛がった。
濡羽という遊里での呼び名は翠の美しい羽根色と濡羽の黒髪の美しさを表した「烏の濡羽色」から取られたものだ。
濡羽は身を売ることはなく、里では得意の舞や竜笛、琴を奏で披露していたが、達者な芸の腕と天人のような美貌はこの里を訪れる者全てを魅了していた。
また、遊里に来てからも武芸を鍛え上げ、武士であることを誇りとしていた。
濡羽は遊里でこれまでとはくらべものにならないほど、穏やかな日々を送ることができた。
命を狙われることのない暮らしは物心がついて初めてだったのだ。
昼間は芸と武を磨き、夜は芸で遊里を彩る。
烏の翠も夜は仲間の烏とともに塒に帰っていったが、昼間は濡羽の近くに暮らしていた。
濡羽が呼ぶと飛んできて、濡羽の話を聞き、餌をもらい、仲睦まじい様子だった。
そんな穏やかな日々は長く続かなかった。
濡羽にとって最後の不幸が襲い掛かってきた。
かつて濡羽を襲った山賊が、この遊里の繁盛ぶりに目をつけ、焼き討ちをかけ、その財を奪おうとしたのだ。
濡羽は武士として刀を執った。そして、遊里の男たちも手に武器を取った。
彼らは懸命に戦ったが、数の差と戦の経験に差があり、次第に不利な状況に傾いていった。
濡羽は遊里の一室に追い込まれ、絶望的な状態であった。
翌日、ようやくこの地を治める守護配下の武士の一団が遊里にやってきたが、既に戦いは終わっていた。
遊里は荒れていたが、すべてを焼きつくされておらず、女性と子供たちは隠れていて無事だった。
山賊どもはなぜか全滅しており、最後に濡羽が籠城した部屋は一面の血の海だったが、濡羽も山賊どもの骸も無かったという。
それ以降、濡羽の姿も、また、濡羽に寄り添っていた烏の翠も見たものはいない…。
主人は話を切った。
「太夫、私が知っているこの店最初の烏に所縁の者、の話だよ。
あぁ、烏太夫とは呼ばれていないか。」
息詰まる話を一気に聞き終えた烏太夫と絵師は顔を見合わせ、ほぉ、大きく息を吐き出した。
烏太夫はしみじみとした声で言った。
「にしても、この濡羽にはもう少し幸せな時間を味わってほしかったと思って。
なんだか救いがないんですもの。」
「そうさねぇ。濡羽はどう思っていたか判らないけどね・・・。
で、絵師殿、絵姿はどうだね。」
絵師が恐る恐る紙を差し出すと、息を詰めて話を聞く烏太夫の絵姿はやはり愛らしい。
主人は顔をしかめると
「・・・やはり、可愛いらしすぎる。明日は、お座敷の太夫でも描いてもらうかねぇ。
明日も居残りだね。」
そう言って、盛大な溜息を付いた。
「太夫、明日はお話はなしだよ。」
烏太夫はちょっとがっかりした顔をしたが、しおらしく、
「はい」
と返事をした。
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