第2話 イギリスから来た怪物
「失敗は許されないのだ」
ヒュー・ハルミトン・リンゼイはデスクに座り独り言を口にする。
東インド会社の幹部である彼は、本土の大英帝国から密命を受けていた。阿片を清王朝で流行らせろと。
清王朝を知らぬ軍幹部は、「猿如きに我々を逆らえる力はないだろ。簡単な仕事だ」と軽くいう。しかし、この土地に住む私の信頼する部下の見解は別だ。マーシャルアーツが盛んなこの国で我が物顔で横暴を働く事は出来ない。マフィアには優れた格闘家が何人もいる。清王朝が抱える精鋭も侮れない。いくら拳銃を用いても我らの首が跳ねられる事例を数多く見てきた、と報告があった。軍事力を盾に戦争を仕掛けるのならば可能であろう。しかし、本土からの要求は別だ。政略、調略の類をもって開国させろとのお達しだ。
故に、本土から増援を頼んだ。多くは香港で基盤を作る為の人員だ。ただし、ジェイムス・マドソンは違う。暴力をもって清王朝の黒社会に対抗する為に、私が直接要請した。
ジェイムス・マドソンは軍事違反を犯した死刑囚であった。罪状は味方殺し。数十人もの友軍を射殺した狂人だ。
奴を運んだ船は、明日港に到着する予定だ。
同時刻、香港から少し北に位置する厦門市の沖合に、イギリスの商船が停泊していた。ロード・アーメストと書かれたその船の中では、一騒動が起きていた。
時はさかのぼる事、数刻前。商船とは名ばかりの船員達は、ある商品の下へ集まっていた。商品の名はジェイムス・マドソン。友軍殺しの罪人は、この船唯一の商品として運ばれていた。
手足をきつく結ばれたジェイムスに、船員達は殴る蹴るの暴行を重ねる。友軍殺しの罪に対して罪状の重さ以上の制裁が行われるのは、古今東西関わらない。
ゥゥアァー、と低い唸り声しか上げることが出来ないジェイムスに対して、船員達は飽きてきたのだろう。手足の拘束を解いてしまう。これが悲劇の始まりであった。
ジェイムスは力弱く立ち上がる。フラフラと心許ないその立ち姿を船員達は嘲笑う。
1人の船員が前に出た。フラン二等兵。彼は軍に入る前はボクシングを名を上げていた。故に、他の船員達はこれから起こる事態に心躍り目を輝かせる。
フラン二等兵は両手を上げてジェイムスに近づいていった。油断するな、という方が難しい。彼はボディに入れて悶絶させてやろうと企んでいた。
フランは左ボディを繰り出した。腎臓撃ちである。くらえばボクサーと言えども苦痛で膝を屈する物である。しかし、その左拳はジェイムスに突き刺さることはなかった。
ジェイムスはフランの左手首を掴んだ。呆気にとられるフランと船員達。その時間が命とりとなった。
軽く手首を捻られたフランは地面に転がった。ジェイムスはフランの喉を踏みつける。ドン!と大きな音をたてたそれは、喉の気管を潰しただけでなく、頸椎をも踏み砕いていた。
ジェイムス・マドソンはバリツの使い手であった。バリツとは名探偵シャーロック・ホームズが編み出した格闘技である。それは、日本の古武術とボクシングを組み合わせたような武術であったという。
船員達は一瞬焦り、そしてジェイムスに襲いかかる。しかし、それも返り討ちとなった。
先頭をきった船員の顎にジャブを入れる。バランスを崩した船員を掴み振り回し、彼に続いてきた数人を薙ぎ払った。
それを見ていた船員達は各々ナイフを抜いた。ジェイムスはそれを無手で迎え討つ。
ジェイムスは3人に囲まれた。1人に対応出来たとしても、他の2人に刺されるだろう。彼らは息を合わせてナイフを突き刺してきた。同時に襲いかかってきたナイフに対して、ジェイムスは力が抜けたかの様に、腰からくだけて地面に倒れた。
突然の事で船員達の勢いは止まらず、互いを刺してしまう。その空きにジェイムスは立ち上がり、1人の船員からナイフを奪い投げ飛ばした。
他の2人から距離を取り、ナイフを構えたジェイムスに船員達は腰が引ける。しかし、彼らにも意地がある。仲間殺しの罪人に背を見せるわけにもいかない。意を決して、2人はジェイムスに襲いかかった。1人は手首を、もう1人は喉笛をかき切られた。
彼等の血が部屋の床を汚す。足下が悪くなる。これでは、襲いかかるのも難しい。
後ろで控えていた船員の1人が懐から拳銃を取り出した。ジェイムスに銃口を向ける。それと同時に、ナイフが彼に突き刺さった。
この後、清王朝に捕縛されたロード・アーメストの記録によれば、計15名の船員が命を落としていたと伝えられている。また、ジェイムス・マドソンの名は歴史上には存在しない。彼はこの時、船から逃げ出していたからだ。
数日後、ジェイムス・マドソンは単独でヒュー・ハルミトン・リンゼイの使い下へ訪れる。ここまでは、ヒュー・ハルミトン・リンゼイが思い描いた青写真の通りであった。
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