阿片窟
あきかん
嵐の前の邂逅
第1話 彩蘭と侍
この街は雨が降り続けている。
人々の日常はしとしとと降る雨で洗い流され、生活の匂いはかき消される。血の匂いさえも。
清王朝末期の魔都香港。アヘン戦争が起きる前、夢と欲望と悪事がこの街の住人だ。人はそれに差し出される供物に過ぎなかった。イギリスとの強い繋がりによる本土との軋轢、それに伴う清王朝の介入、そしてこの土地を牛耳ってきた三合会がにらみ合う。この三者の均衡によって街の平穏は保たれていた。
1人の女が香港の裏街道を走っていた。名を
彼女を追う数人のイギリス人。金髪碧眼のその姿はこの街では目立つ。そして、彼らに手を出す者は余程の物知らずだけだ。その背後には大英帝国の軍隊が控えている。彼らを敵に回して生き残る事は黒社会の住人でも容易ではない。
彩蘭が追われているのには理由があった。イギリスが阿片を我が国へ輸入しようとしているのを彼女は掴んだ。しかし、それは東インド会社にさとられる。
この時代、阿片は特権階級にのみ許された娯楽であった。それに関与していたのは香港の闇を仕切る三合会。当然、利害対立が生まれる。そして、この事実を王朝へ報告すれば、この街の均衡は崩れ去るだろう。
彩蘭は徐々に追い詰められていた。土地勘があろうとも所詮は男と女。体力の差は覆しようがない。
「いくら出せる」
建物の角を曲がろうとして、笠を被った男に声をかけられた。見慣れぬ服に倭刀を腰に携えた侍。
「望むだけ」
彩蘭は簡潔に述べた。
「そこの角で隠れていろ」
侍は刀を抜きながらそういった。追手のイギリス人は直ぐそこまで迫っていた。
彩蘭が曲がった先は行き止まり。クソ倭人が!と、心の中で悪態をつく。己の命をあの侍に託すしかなかった。
追手のイギリス人も剣を抜き侍へと駆け寄る。
「参る」と、短く口にして侍は向かって来たイギリス人に斬りかかった。
上段からの袈裟斬り。その勢いのまま下段から斬り上げる。2拍で2人。少し距離が空いた最後のイギリス人は、懐から拳銃を抜こうとする。侍はそのイギリス人に向けて刀を投げる。投擲槍の様に真っ直ぐな軌道を描いた刀は、イギリス人の胸を貫いた。
侍はゆっくりと歩いて刀の刺さったイギリス人に近づいていった。降り続く雨はイギリス人から流れた血を洗い流す。侍は刀を抜き鞘へと納めた。
「終わったぞ」
侍は彩蘭に声をかけた。
「感謝します。謝礼は容易でき次第お持ちします」
「謝礼はまだ良い。それよりも私を用心棒に雇って貰えないか」
彩蘭は少し悩む。倭人を雇うと処理が面倒だ。何より目立つ。しかし、この侍がみせた実力は惜しい。
「わかりました。雇いましょう。先ずはお名前を伺ってもよろしいかしら」
「私の名は石田時之助。時代に取り残された侍だ」
その場限りの口約束では無い。彩蘭の天秤は侍へと傾いた。これから訪れるだろう闘いに否応無く巻き込まれるのが分かっている以上、少しでも強い味方が必要だった。
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