第4話 宿にて
「新婚さんかい? まさか、駆け落ちじゃないだろうね」
人の良さそうな宿屋の主人に笑いながら言われ、アリスはぴしっと笑顔を硬化させた。
その横に立つラファエロは、「笑えてないよ」とアリスに素早く囁いてから、満面の笑みを浮かべてみせる。
「そんなところですよ。今日はロカ湖の観光をしてきました。空気が美味しくて、ゆっくりしていたらこんなに遅くなってしまった。何しろ二人でいると、時間が過ぎるのがあっという間で」
「はっはっは、そりゃそうだろうさ。見ればわかるよ。今が一番良い時期なんじゃないか」
「それ。みんなそう言いますけど、俺はそうは思わないんですよ。今よりもこの先の未来の方が、ずっと輝いているのに間違いない。なぜなら、これからは二人一緒に歩んでいけるのだから」
くーっ、と感極まったように声を上げる主人を、アリスは固い笑顔で見つめていた。
「そうそう、笑顔良い感じ。さっきよりもずっと自然だ」
主人に向かってにこにこと微笑んだまま、ラファエロが小声で耳打ちしてくる。
表情を変えずに聞き流しながら、アリスもまた声を抑えて応じた。
「こういうのを、茶番、と言うのではないかしら」
「不満?」
視線を感じて顔を上げると、アイスブルーの瞳が、面白そうな輝きを湛えて見下ろしてきていた。
しっかりと目を合わせてしまってから、アリスはさっと顔を背ける。「そういうわけでは」と早口に言った。
カウンターに立っていた主人は、宿帳をぱらぱらめくりながら、ひどく楽しげに言う。
「ちょうど良かった、一部屋空いている。新婚の二人にはなかなか良い部屋だよ。朝までごゆっくり」
* * *
工房を脱出してからすぐに、ラファエロが「宿に馬を預けている」と言うので、連れ立って向かった。
上品な印象のラファエロに似合いの、毛並みの良い葦毛が一頭。「乗って」と促され、「乗馬なら私もできないわけでは」と言い出すこともできずに、同乗することになった。
そのまま夕暮れの町を抜け出し、街道を走り抜けて、隣町に到着。目抜き通りに位置する、門構えのしっかりとした宿屋に部屋を求めて、現在。
「空いている客室があって良かった。荷物は何もないけど、かえって身軽で良いね。必要なものがあるなら、朝になってから揃えよう。まずは食事かな」
調度品の揃った部屋を見回し、ラファエロはテキパキとした口調で言った。
アリスは入り口付近で壁に張り付いたまま固まっていたが、ラファエロは部屋の中を横切り、こじんまりとした暖炉を覗いたり、身をかがめてベッドの下を確認している。立ち上がると、今度はクローゼットの中や、窓の建て付けを触って調べていた。
(使い勝手を見ているというより、異変がないか、脱出経路は確保できるか考えていそう。手際が良い。慣れてる。それを私に隠そうともしないということは、警戒しているのは私以外の相手。やっぱり、叔父上の手の者という線は薄そうだけど……)
アリスは、ちらっとブルー系のキルトカバーに覆われたベッドに目を向けた。一台。
新婚と勘違いされたのを、特に訂正していなかったラファエロである。
追手がかかっているかもしれない以上、アリスからも二部屋にしてほしいとか、そもそも
(馬一頭に大人が二人、しかも早駆け。密着。そして宿では新婚のふり……ベッドはひとつ)
気になる箇所をあらかた確認し終えたらしいラファエロが、アリスの視線に気付いて「どうしたの?」と小首を傾げて聞いてくる。
軽く束ねて肩に流した銀髪が、さらりと揺れた。アイスブルーの瞳は、湖面のように澄んで邪気もない。
「何も」
胸の前できゅっと拳を握りしめつつ、アリスは小さな声で返事をした。
ラファエロの姿を視界に入れると、二人で馬に乗った時のことを思い出してしまう。
手綱を持つ手が後ろから伸びてきて、広い胸に包み込まれる形で触れ合ってしまった。その温もりが、いまだに背や腕に残っているような気がして、落ち着かない。
さほど広くない部屋で、ベッドが一つという状況も、意識してしまえば心臓が勝手にびくつきそうになる。
(そんな場合じゃないのに。彼は今日出会ったばかりの相手で、これまでの出来事はすべてお互いに必要があってしていること。今まで、仕事で男性と話すことくらいあったんだから。こんなことで意識するなんて、私がおかしい)
ラファエロが何者かすらわからないが、訳ありで、やけに腕が立ち、おそらく親切な性格だということはひしひしと感じている。だから手を貸してくれている。決して、アリスに一目惚れしたなどといった理由ではないはずだ。
勘違いしないようにしなければ。
「周囲に警戒を怠るつもりはないが、空腹ではいざというときに頭が回らないし、力がでない。行きましょう、アリス」
戸惑いを処理しきれていないアリスに対し、ラファエロは優しげな声で、そう言った。
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