第7話 「恋人だけど」

 本格的な暑さがやってきたと感じたのは、耳元で叫ぶジージー音で飛び起きたからだ。

「なんでいるの、なんでいるの!」

 人語の分からない虫相手に、大地は吠えた。窓を開けていたわけではないのに、一匹のセミが迷い込んで壁に止まっている。

 しばらく固まっていると、セミはぼとっと鈍い音を立てて床に落ちた。

 動く気配はないが、死んでいるとも思えない。究極の選択を迫られている。

──急募。セミをどうにかする方法。

 写真付きでSNSに載せ、どうにか助けを求めると、次々と返信があった。

──手で取る。

──窓を開けて下敷きとかで追い払ったら?

──家に行こうか?

 全部却下だ。

 タイムラインを下に見ていくと、Tこと達彦が子供とプリンを作る写真があった。

──タオルを被せる。

 返信ではなくダイレクトメールを寄越したのは、アキこと千秋からだ。

 わざわざ見えないやりとりを選んだのは、何か理由があるかもしれないと、深読みをしてしまう。

 頬がだらしなくなるのを引きしめ、画面をタップした。

──タオルがいいの?

──数日放置してみ。ホウキか何かで触れても動かなければ、タオルごと包んで捨てる。

──ほーう。詳しい!

──日常茶飯事だからな。

──都会ってなんでこんなにセミ多いんでしょうね。鳴き声は嫌いじゃないんですけど。

──俺は好きになれん。やかましい。

──ひぐらしとか鳴き声綺麗だよ?

──ひぐらしはまあ分かる。

──ねえ、今何してます?

──洗濯物取り込んでる。雨降ってきた。

 外を見るが、雲一つない快晴だ。

 どこかでお天気雨が降っているのかもしれない。

──会いたい。

 困惑させると思いつつも、優しいメールをくれるものだから、つい心の声を漏らしてしまった。

 電話がかかってきて、大地はワンコールで耳にスマホを当てる。

『お前な……』

 盛大なため息と共に、かすれた低めの声が聞こえてくる。

「だって」

『だってじゃない。会いたくなるだろうが』

「そっちなんかガヤガヤしてません?」

 どたばたと誰かが走り回る音がして、子供の絶叫が聞こえる。

『いつもだから気にすんな。ちょっとばたついてる。それより今は夏休み中だろう?』

「うん。文化祭もある」

『じゃあ行くか』

「文化祭に? 来るの?」

『ああ。いつ?』

 日程を告げると、千秋は分かった、と一言だけ言って電話を切った。

 本当に忙しいようでいつも以上に素っ気なかったが、わざわざ電話をかけてくれ、大地は頬が緩むのを押さえきれない。

 これではいけない、と唇に力を入れ、あまっているタオルで小ぶりの爆弾にそっと重ねる。

 動く様子もない。かといって今すぐ捨てる覚悟もない。

「数日はこのままかな……」


 普段の地味な大学が嘘のようで、カラフルな風船やフラワーアーチのように飾りつけられた門をくぐると、並んだ屋台に出迎えられる。

 ソースの香りがし、焼きそばの前には人だかりができていた。

 朝食はヨーグルトのみだったせいで、空腹を知らせる音が鳴る。

「チラシをどうぞ!」

 よそからの客だと思われたのか、満面の笑みでチラシを渡された。

 大地もとくに名乗るわけでもなく、お礼を言って鞄にしまった。

 腕時計を見ると、まだ待ち合わせまで一時間ほどある。

 昼食は一緒に食べる約束をしているので、目の前の焼きそばを食べるわけにはいかない。

 隣でひまそうにしているわたあめの店員に声をかけると、跳ね上がった。

「え? 買ってくれるんですか?」

「ひとつ下さい」

「ありがとうございます」

「場所があまりよくなかったのかもしれませんね」

「ソースの匂いにやられてしまって、みんな焼きそばやお好み焼きに向かうんですよ」

 間に挟まれたわたあめ屋は、悲鳴を上げる。

 クジか何かで決めたのだろうが、これでは売り上げも目に見えている。

 大きなわたあめを一つもらい、裏庭へ行ってベンチで食べた。

 立ち上がろうとしたとき、誰かが目の前で立ち止まる。

 大地は顔を上げ、呆然と男性を見つめ、戦慄が走った。

「ケイちゃん……?」

「大地……なんでここに」

 昔の記憶が次々と駆け抜けていく。それはまったくいいものではなく、俯く自分ばかりだった。

 結局は捨て去れないのだ。昔の思い出も記憶も何もかも。捨てたはずでもストーカーのようにつきまとう。

「ここの大学生だから」

「お前もなのかよ……」

 彼はがっくりとうなだれ、眉間にしわを寄せた。

「もう昔のことだから」

「そんなん分かってるよ」

「なんか……変わったね」

「俺は、昔からこのままだ」

 彼は声を荒げると、回りにいる人たちは足を止める。

 そんな中、ひとりだけこちらに向かってくる人がいた。

 しっかりとした上背に黒い革靴とは対照的な、ジーンズとTシャツというラフな格好。

「大地、待ち合わせはここじゃないだろう?」

「千秋さん……」

 『ケイちゃん』は大地と千秋を交互に見ては、訝しみながら腕を組んだ。

「誰?」

「恋人だけど」

 しれっと質問に答える千秋に、やきもきしたのは大地だ。

 『ケイちゃん』の顔面蒼白をよそに、千秋は大地の背中に手を回して引き寄せる。

「ほら、行こう?」

 手に込められる力は強く、離すつもりは微塵もない。

 道は分からないはずなのにどんどん進んでいき、まだ準備中の体育館の中で足が止まった。

「びっくりした……いきなり現れるし」

「俺も驚いた。ポスターになってまで追いかけてくるんだな」

「え?」

「あいつだろ? これ」

 壁には同じポスターが隙間なく貼られている。

 政治選挙のように顔写真が並び、そのうちの一人が『ケイちゃん』だった。

「ミスコンなんて今もやってるのか」

「僕には縁がないけど。千秋さんは良い線いきそう」

 千秋は目を細め、大地を睨んだ。

「ほんとに? 出たの?」

「……無理やり」

「すごいすごい。結果は?」

「二位」

「千秋さん以上にかっこいい人いたってこと? 見る目ないね」

 千秋の顔が迫ってきて、心の準備ができないまま唇が重なった。

「お前っ……わたあめ食べただろ?」

「ちょっと、なんでここでするの!」

「一緒に昼食食べる約束だったはずだぞ」

「信じらんない……人が多いのに!」

「誰だよ、さっきの男は」

 妙に苛立ちのこもった言い方だ。

 観念して、大地も口を開く。

「早川啓介。関東に来てるのは知ってたけど、まさか同じ大学だったなんて」

「あんまり仲良さそうな感じじゃなかったが」

「めちゃくちゃ、死ぬほど恥ずかしい話なんですけど」

「今より恥ずかしい話なのか」

 回りを見ると、女子生徒が口元を押さえてこちらを見ている。キスの代償は大きすぎた。

 大地は千秋の手を引っ張り、体育館を出た。

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