第5話 ケモノの雄叫び

その日から、男は小屋に住むようになりました。

男は、源ジイのように釣りをすることはなく、時おり島にくる大型の船から、食料やら機械やらを運び入れて生活していました。その中には、懐かしいパリパリのドックフードもあり、以前からシロが使っていた皿によそってくれました。

〔シロといると、すごくほっとするよ〕

皿に書かれていた文字から、名前を知ったらしく、男は、よくそんなふうに声をかけてくれました。


男の仕事は、向こうの島の鳥たちを観察することでした。

昼間、カメラやビデオを肩にかけて小型のボートで出かけ、夜には、持ちこんだコンピューターに鳥たちの姿を映しだしていました。それをにらみつけながら、しきりに何かを書いています。

どうやら、鳥たちがあふれる向こうの島は、特別な場所だったようです。


一度、シロの耳が折れ曲がるような風を巻き上げ、ヘリコプターが空から降りてきました。

男は、ネクタイをしめた人間たちを小屋にまねいて、鳥たちの数や生活について熱心に説明しました。

シロは、耳を澄まして聞いていましたが、気になるケモノのことについては、一言も語られませんでした。

どうやらケモノは、男の仕事を邪魔することなく、うまく鳥たちを口にしているようです。


[しかし、ひとり暮らしはたいへんだろう?」

立ち去る前に来客がたずねました。

[いいえ、素敵な相棒がおりますから]

どこかできいたような質問と答えでした。男がゆったりと背中をなでてくれる一方で、シロは鼻の先が熱くなり、続けざまに三度もくしゃみをしました。



そうして日は流れていきました。

いつの間にか、シロの生活は居心地よくもどっていました。腹が減ることはなく、人間の温もりに触れながら眠ることができたのです。

それでも、どうしてもケモノに会いたくなり、五日とあけずに小屋をこっそりと抜けだしました。

近ごろは、卵を産んで、ひどく攻撃的になっている鳥であふれているせいか、ケモノは突っ走ったりはしませんでした。けれど、その息をひそめた足取りに、かえって張り裂けんばかりの命の力を感じました。


[シロにとって、あちらの島は何なんだい]

ある日の明け方、大雨にずぶぬれになって帰ってきた時、不意に問いかけられました。

シロは慌てました。

もちろん、男と出会ったのは向こうの島でしたし、シロが通っていることを知っていても不思議はありませんでした。

でも、隠していたものを引っぱり出されたようで、ひどく体裁が悪くなりました。

悪さをしているわけではありませんが、鳥を口にするケモノに会いに行くことは、男を裏切っているように思えたのです。


[たぶん君も、僕と同じように、あの島から生きがいをもらっているんだよね]

男は一人うなずきながら、尻尾をたらしたシロをタオルで拭いてくれました。

「あんさんの言うとおりさ」

シロはそっとつぶやきました。

島通いはばれていましたが、今さら大っぴらに行くのもおかしいので、その後も、こそこそと小屋を出て通いました。


コソドロの友だち、チュウ公ですが、男が小屋にやってきてから、めっきり姿を見せなくなりました。男の食料をカリカリやっているところを叩かれてこりたのでしょう。それでも、元気にやっているらしく、軽い足音が、床下や壁の隅に聞こえました。



夏にさしかかったある日のこと、無線機に耳を傾けていた男の顔が急に険しくなりました。仕事仲間からよからぬことを聞いたようです。

[鳥たちがあぶない。いってくる]

男はいつものカメラも持たずに小屋を出てボートに乗りこみました。走りさった先は、向こうの島です。


…おまえもいくんだ…

胸の奥で誰かがうなったようでした。それは、一度聞いたケモノの声に似ていました。

潮はまだ引きはじめていませんでしたが、シロは小屋から飛びだして、海岸を突っ走りました。磯辺から荒海に飛びこみ、小さく見える黒い島を目指して必死に泳ぎました。やがて道が現れ、荒砂を蹴りたてて進みました。


向こう島の磯辺には、三つのボートが揺れていました。小さいのは一緒に暮らしている男のもの。もう二つはかなり大きく、いくつもの鳥の巣箱が積まれていました。

男が小屋を飛び出していった理由がわかりました。誰かが、この島の鳥を盗みにきていて、それを止めに来たのです。


草原まで登った時、倒れている男の姿が目に飛びこんできました。殴られたのか、腹を押さえて苦しそうにうめいています。その向こうで、箱を抱えた五人の人間が、卵からかえったひなをつかまえていました。


ズダーン!

雷のような轟きが耳を打ちました。

ひなを守ろうと襲いかかる親鳥に、一人が猟銃を向けていました。

激しい音はつづき、そのたびに羽根が飛びちり、鳥たちは見えない力に弾かれたように、地面に落ちました。


…命の鎖を守れ!…

すぐ近くで誰かが叫びました。

ケモノです。とうとう姿を現しました。シロと同じような犬の形をしていて、目の前で陽炎かげろうのように揺らめいています。ケモノはそのまますうっと、シロのからだに入りこみました。


ウーオオーーン

猛々たけだけしい吠え声が、ノドの奧からほとばしり出ました。

風を切って走りながら、シロはやっとわかりました。

『この激しい息づかいと突っ走る足音…それをもっているのはおいら。ケモノは、おいら自身だったのだ!』

そのまま腹の底からわき出てくる力に、からだを任せました。それは人間との生活で無理に押さえることを学んでしまった力でした。

シロはずっと不安だったのです。人間の前で荒々しいケモノの顔を見せたら、また捨てられるのではないかと。だから、源ジイとの思い出が残っているあちらの島では狩りができなかったのです。


一方、こちらの島には、人間との思い出はありませんでした。それで、自分の内にすむケモノに会うことができたのです。近くにいるようでも姿は見えず、臭いさえもしなかったのは、シロ自身だったからです。


『命の鎖…この島の鳥たちは、厳しい季節においらの命を支えてくれた。今だって、人間とのあいだを取りもってくれている。

源ジイ、おいら、見つけたぜ。あんさんが言っていた【守らなきゃならない鎖】ってやつを!』


[あいつ、犬を連れてたのか」

見知らぬ人間たちは、突然現れたシロに慌てていました。抱えていた箱を落として引きつった顔をしています。


『こいつらには、生半可な脅しじゃダメだ。なにせ、同じ人間を傷つけ、ひなをとるためには、平気で親鳥の命を奪う連中なのだ』

シロは許しませんでした。

口が裂けるかとばかり牙をむき出して飛びかかっていきました。

[シロ、気をつけろ!]

後ろから叫び声が聞こえました。ふらりと立ち上がった男がさしたほうを見れば、銃口を向けた人間の姿がありました。


ズダーン!

筒の先から炎が飛び、わき腹に炭火に触れたような激しい痛みが走りました。でも、シロはひるみませんでした。地を蹴って高く跳び、猟銃をもった人間の腕に牙を突き立てました。

[た、たいさんだあ]

ゼイゼイと悲鳴をあげ、その人間は、なかばぶらさがったシロを必死に振り落としました。

男たちは、大きな石を握りながら後ずさりし、草原から姿を消していきました。


「まだこりないのか!」

シロは、後ろに近づいた人間に飛びかかりました。

[こらこら、僕だよ]

聞き慣れた声がしましたが、燃えあがったケモノの息づかいはおさまりませんでした。噛みついた腕から、血が滴りだした時に、ようやく元のシロにもどりました。


[ありがとう、君のおかげだよ]

男がいいました。

それはずっと前にも聞いた言葉。ほろにがい感謝の言葉でした。

結局、シロはまた人間に噛みついてしまったのです。こともあろうに、一緒に暮らしているひとにも。

『今度は、一足飛びにあの世いきだ』

自分の腹から、ドクドクと流れる血を見つめながら観念しました。


『けど…』

シロは満足でした。

命を支える大切なもののために、精一杯のことをしたのです。

優しく抱きかかえてくれる男の顔がかすみはじめました。まぶしい空が暗く狭くなっていきます。



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