雨男は虹を追いかけて
滝川創
前編
やまない雨はない、なんていう言葉がある。
僕はその言葉を信じることができない。
なぜなら僕の周囲ではいつ何時も雨が降っているから。
頭上には常にどす黒い雲がついてくる。それは自分の体の一部であるように一緒に動く。
いつからこうなったのかは覚えていない。
このじめじめとした性格も降り続ける雨が少なからず関係しているのだろう。
人間、雨の日を嫌う方が多数派であるように思う。
大量の湿気を連れて歩く僕はどこへ行っても忌み嫌われ、町を転々としてきた。
今現在、住んでいる町は平穏な田舎町といったところだろうか。町から少し行くと、広大な荒れ地が広がっており、乾燥地帯がどこまでも続く。
僕はそんな町で、いつもアルバイトを募集している寂れたパン屋に勤めていた。
「おはようございますジェフさん」
店長のジェフは客もいないのに、いつも大慌てであちこちを走り回っている人だった。
そんな彼が、今日ばかりは渋い顔をして立っている。
「シリル、話がある」
促されて椅子に座ると、彼はため息をついた。
彼の背後の壁は、古い屋根の隙間から流れた雨が染みこんで黒くなっていた。
「お前は今日でクビだ」
苦しそうに言う彼の言葉はがらんどうな店内に響いた。
そんな気がしていた。どこへ行ってもこうだった。
それは誰のせいでもなく、降り続ける雨のせいなのだ。
「何故、僕はクビになるのでしょうか」
答えはわかっている。それなのに聞いてしまう。
彼は顔をしかめて、たいそう言いにくそうに教えてくれた。
雨が降ると客足が減るから、と。
「短い間でしたがお邪魔しました」
僕は店を出た。元から客が来ていたのかも怪しいパン屋を追い出され、もう行くあてが見当たらなかった。
僕は傘も差さずに町を歩いた。
僕はいつでも雨と不幸をばらまいている。自分は疫病神なんじゃないかと思い当たることもあった。
町を徘徊していると、ホテルの廃墟に辿り着いた。
立ち入り禁止の柵を乗り越えて中に入る。静まりかえったその空間が自分にぴったり合っている気がした。
暗いロビーは埃っぽく、壁や天井には蜘蛛の巣が張り巡らされていた。
当たり前だがエレベーターは動かなかったので、階段で屋上までのぼった。
このホテルは四階建てで、屋上は思ったよりも高かった。
フェンスは破れているところがあり、そこから簡単に外側へ出ることができた。
雨あしはさっきよりも強まっていた。大粒の水滴が頭を叩きつける。
空を見ると、自分からちょっと離れたラインからは雲が一切れもなく、晴天に町が輝いているのが望めた。
頭上に広がるこの雲と晴天との境界線ははっきりしていた。
そこは近く見える。五分も歩けばこの雨から出ることができそうに見える。
だけども今まで、引かれた線を跨げたことは決してない。そしてこれからも恐らく、ない。
それは虹のようなもので、見えるけれども近づけば遠ざかっていくのだ。
手を伸ばすが降り注ぐ陽差しはそのずっと先にある。
自分の頬に手を当てた。
濡れている。
この冷たい水滴がどこから来たものなのか、僕にはわからなかった。
高所恐怖症には十分に恐怖を感じられる高さだ。下は見ないで屋上の端に立つ。
死ぬ直前だけでも陽差しを浴びることが出来たらどんなにいいだろう。この屋上から日なたに飛び込んで消える。
まるでヴァンパイアみたいだ。
もしかするともう、日なたに出たところで死んでしまう体になっているかもしれない。それでもいい。命を絶ってでもこの湿った檻から抜け出したかった。
長い間、悲惨な思考が頭の中をぐるぐると回っていた。
それでも、そのうちに頭が動かなくなってきて、ずっと震えていた足もいつの間にか固まっていた。
どれくらいそこに突っ立っていたのかわからない。
いつまでも雨はやまない。
僕は飛んだ。
落ちていく、というよりのぼっていくような気分。
雨粒が静止しているように見える。
雨になったみたいだ。
足から冷たい水滴に包まれる。
浮遊感。暗い闇。
息が苦しい。
あまりの苦しさに手足を振り回してもがく。
「ぶはっ」
顔を出したのはプールの水面だった。
ホテルの下にはプールがあったのだ。空だったはずのプールには、満杯の水が溜まっていた。
屋上で佇んでいるうちに雨水が溜まったのだろう。
濡れた体を引きずってプールサイドに上がる。
体はピンピンしていた。そういえば昔から怪我だけはほとんどしたことがなかった。無駄な頑丈さだ。
結局僕は死ぬことさえできない無力な人間なのだ。
もう一度屋上まで階段をのぼるのが億劫で、ホテルを出た。それから近くの丘へ登った。
丘の向こうには一軒家がぽつんと建っていた。
丘の上に立つ木に腰をかけて空を眺める。
いつの間にやら日は暮れて遠くの空も暗くなっていた。
次に起きたら荒れ地へ行こうと思う。荒れ地だったら誰にも会わずに済むだろう。
僕は目を閉じた。
***
ほんの少し休むつもりでいたのに、だいぶ長い間眠ってしまった。
視界の明るさに目を覚ますと、辺りに赤い光が広がっていた。
目をこすってもう一度確認すると、向こうの家が燃えていることがわかった。火事だ。
僕は家へ向かった。
水で死ねないのならば、火で死ねば良いのではないか。
僕は家の中にどかどかと入っていった。
一階には誰もいなかった。
階段を見つけてのぼった。
二階廊下の中央に立って目を瞑った。しばらくしたら、僕は灰になっているだろう。
そんな風に思っていたのは束の間、崩れ落ちた天井から降りそそぐ雨が頬を打った。
家の火はほとんど消えかかっていた。
なんて馬鹿なのだろう。火が水で消えることなんて子どもでもわかるはずなのに、死ねると思い込んだ馬鹿な自分にうんざりした。
死を前にして頭がおかしくなってしまったのか、寝ぼけていたのかわからないが、どうでも良かった。
すすり泣きが聞こえて足元に目をやると、一人の女性がしがみついていた。
長く黒い髪の毛と青く透き通った目が美しい女性だった。ボロボロの服を着ている。
逃げ遅れていたようだ。彼女の潤んだ目がこちらに向けられ、僕はその目を見つめ返した。
「助けてくれてありがとう」
掠れた声でそう言う、彼女の目から涙が溢れ出した。
僕は小さく頷くと彼女を後に家を出た。
家は焦げて崩壊しかけているものの、火は完全に消えていた。
もう寝付けそうにないので、荒れ地を目指して歩き出す。
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