私は巨大な杯。幸福
諸根いつみ
第1話
娼婦という言葉の意味を教えてくれたのは、いつもハイルのもとを訪れてくれるリージだった。
狭い鉄の部屋。低い空調の音。人工香料のバラの香り。部屋の大部分を占領するベッド。白いシーツ。ハイルはミニのワンピースを着たまま、ベッドに腰かけている。作業服姿のリージは、その隣に行儀よく腰かけている。リージはいつも、ハイルに服を脱がなくてもいいと言う。リージは、ハイルと話すことが好きなのだ。月に何回か、仕事帰りに寄ってくれる。ハイルは、なぜ彼が自分のことを気に入ってくれたのかわからなかったが、彼は、優しくて話しやすいので好きだった。ほかの人みたいに乱暴にしないし、突然怒りだしたり、説教したり、見下したりもしない。
この前、道を歩いていたら、知らない人に娼婦と呼ばれたけれど、どういう意味か知っているかとリージに尋ねた。いつも話している時の印象から、彼はなんだか頭がよさそうな気がしたので、知っているのかと思ったのだ。
「それはきみの職業のことだよ」
リージは言った。
「きみは人間だよね?」
「そうだよ」
ハイルはうなずく。お店の人がそう言っているし、お父さんもお母さんもいるから、ハイルは人間だ。
「人間なのに、どうしてこの仕事してるの? ずっと気になってたんだけど、聞きづらくて」
「なんで?」
「だって、個人的なことだから」
「個人的? なにが?」
「まあいいよ」
「えっと、なんだっけ?」
「どうしてこの仕事してるのかなって。話したくなければ、全然いいんだけど」
「お母さんに言われたの」
「お母さんに働けって言われたの?」
リージは驚いたようだ。
「どうして?」
「お母さんは、先生に言われたみたい。娘さんにいいお仕事がありますよって」
「先生?」
「うん。お仕事して、お金を先生に送るの」
「誰なの?」
「昔からお世話になってる人」
「どうしてお金を送るの?」
「そうしたら、いつか悟りが開けるんだって」
「悟り?」
ハイルは、リージが知らないことを自分が教えられると思ってわくわくした。
「心が平らになって、幸せになることだよ。先生とか、ほかの人は、悟りに近づいてるんだって。でも、わたしたちの家族はまだ全然なの。でも、頑張れば、いつかは悟って、幸せになれるんだって」
「そんなの嘘だよ」
リージは珍しくハイルの言葉を否定した。
「先生っていうのが誰なのか知らないけど、わかるよ。その人は、お金が欲しくて、テキトーなことを言ってるんだよ」
「違うの。ちゃんとした理由があるんだよ。あのね、お金は、ちゃんと貯められてて、みんなのために使われるの」
「騙されてるよ。そんなことがあるわけないじゃん。ハイルは純粋だからわからないんだろうけど、お金を集めた人は、みんなのためになんて思わないんだよ。自分のために使うに決まってるんだ」
「そんなことないよ。先生はほかの人とは違うの。悟りに近づくと、なにも欲しくなくなるんだよ」
「そんなことあるもんか。ベーシックインカムがあるんだから、本当は、ハイルはこの仕事しなくていいはずでしょ?」
「ベーシックインカムだけじゃ足りないんだって。たくさんお金がないと、悟りに近づけないの」
「悟りってなんなのかわからないけど、きっと、お金を払ってどうにかなることじゃない気がする」
「どうしてそんなこと言うの? いつものリージは優しいのに」
「……ごめん。ハイルがいいならいいんだけど、なにか嫌な目に遭ってるんだったら、力になりたいって思って」
「力になるって?」
「俺にはなにもできないかもしれないけど。でも、なにかあったら、言って」
「……うん」
なにかというのがなんなのか、ハイルにはわからなかったが、うなずくことで、リージが安心してくれるということはわかった。
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