胃魔我和夜市模戸

鷹山トシキ

第1話 受苦無有数量処

 俺は朝比奈泰朝あさひなやすともって人物が好きだ。

 主君・今川氏親から偏諱を受けた。駿河国において太原雪斎らと共に家中では重鎮であった。天文17年(1548年)の小豆坂の戦いでは、一族の朝比奈泰能や子・信置らと共に参戦。永禄2年(1559年)には関口親永と共に松平元康(後の徳川家康)の後見人も務めた。安祥松平家(後の徳川氏)のみならず、大給松平家などの他の松平氏一族や牧野氏などの小指南役であったとみられる。


 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて、尾張国の織田氏の急襲によって窮地に陥った今川本陣で奮戦、鉄砲により負傷し討死したと伝わるがこれは誤りで、実際には戦場を離脱した後で主君・義元の戦死を聞いて深く悔やんだという。その後も、今川氏真の下で奉行人を務め、永禄9年8月22日(1566年9月5日)に死去。


 今川商社の運転手、朝日奈拓郎あさひなたくろうは父親の裁判費用に困っていたところ、キャバ嬢の紅光子くれないみつこから一攫千金の詐欺計画を持ちかけられる。

「そんなの嫌だ」

 変な虫が酒の中に入っていたが、構わずに飲んだ。それ以来、拓郎はウイスキーだろうが、ワインだろうが何を飲んでも酔わなくなった。

 光子に話したら、「それはきっと中国の酒虫しゅうちゅだね?」と教えてくれた。

 

 俺は浜松城にやって来た。

 浜松城の前身は15世紀頃に築城された曳馬城であり、築城時の城主は不明である。16世紀前半には今川氏支配下の飯尾氏が城主を務めていた。この頃の引馬城は、江戸時代の絵図にみられる「古城」と表記された部分であり、現在の元城町東照宮付近にあたる。


 徳川家康が元亀元年(1570年)に曳馬城に入城し、浜松城へと改称。城域の拡張や改修を行い、城下町の形成を進めた。徳川家康在城時における浜松城の具体像は不明確であるが、古文書や出土遺物から現在の本丸に向けて城域が拡張されたことが窺える。また、徳川家康が築造した浜松城は、土造りの城であり、石垣や瓦葺建物を備えていなかったとされる。


 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い以後、江戸時代を通じて徳川家譜代大名の居城となり、浜松城から豊臣色は失われる。江戸時代の浜松城主は九家二十二代に引き継がれていき、歴代の城主によって城域の改変・改修が進められた。


 堀尾氏在城期に創建された天守は、17世紀のうちに姿を消し、天守台のみが現在に伝わる。以降、天守門が浜松城の最高所に位置する建造物といえ、江戸時代を通して浜松城を代表する建物であったことが窺える。


 明治6年(1873年)の廃城令により、浜松城の建物や土地の払い下げが行われ、三の丸、二の丸の宅地化が進行した。天守曲輪と本丸の一部は大きな開発を免れ、昭和25年(1950年)の浜松城公園開設に至る。

「いやぁ、ゲジゲジ」

 滋賀の人をゲジゲジって周囲の人間は馬鹿にしてくる。コイツもその一人だ。

「何だよ、朝日奈さん」

「最近、虫がうるさいよな?」

「コオロギとかな?」

     

 受苦無有数量処じゅくむうすうりょうしょ

 嘘をでっち上げて、目上の人を陥れた者が落ちる。獄卒に打たれて傷つくと、その傷口に草を植えられる。成長し根を張ったところで引き抜かれる。

 俺は朝日奈さんに滋賀出身と言って陥れた。

 本当は東京出身だが、コロナで感染拡大してるし自粛警察におそれを抱いていた。

 今川商社は名古屋市にある。

 酔っていてどこを歩いていたか分からないが、車に轢かれて死んだと、閻魔様が言っていた。  


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