エピローグ まゆ

 ゆなの上司を名乗る人から受けた説明をあまり理解できた自信はない。


 わかったのは君がいつかの未来に帰ってしまったこと、そして今の時間に私を知る君はいないこと。そして、もし出会えても、それは自殺する前の、まだ死神になってなくて私と出会う前のゆなだということ。


 ちゃんと理解できたのは多分、たったそれだけだ。


 正直ね、もう一度、飛び降りてしまおうかと想ったよ。


 だって今、飛び降りても私を惜しむ人はいないのだし。


 そう、想ったのだけど。


 少しだけ考えてしまった。


 もし君が私のことを想い出したら、何してんのって怒られちゃうかな。


 もし君の記憶が戻った時、私が先に死んでたら悲しくて泣いちゃうかな。


 寂しくて、私の跡をついてきちゃったり、するのかな。


 それで向こう側で会えたらいいのだけど、賽の河原も今、人が沢山いるらしいから、もしかしたらうまく会えないかもね。


 長く、長く息を吐いた。


 あれだけの言葉をもらっても、私は結局、自分の命がそこまで大事なわけじゃない。独りになりたくないし、寂しいのも嫌なんだけど、私が生きるかどうかは未だに結構どうでもいい。


 要するに、ゆなといる私だから価値があったのであって、ゆながいないなら、私の意味は嘘みたいに元通りだ。


 だから、これからの辛いことを考えたら、正直、この命は適当に投げ捨ててしまってもいいのだけど。


 そうしてしまった未来で君が泣くのは、ちょっとだけ嫌かな。


 私との旅を終えて戻った君が、お墓の前で泣いてしまうのは、ちょっと嫌なんだよなあ。


 そんな姿を想像するだけで、なんでか胸が苦しくなるんだ。心臓が痛くて痛くて仕方がないんだ。


 なんでだろう、その時に、私はどうせいないのに。君に見えてなんていやしないのに。


 それでも私のせいで君が泣くのは、なんでか嫌だな。さっきまでは惜しんで泣いてくれるのが嬉しかったのにね。どうせ泣くなら、私の見てるところで泣いてほしいのかな。


 暗闇の向こうで波が私を呼ぶ音がする。


 風がそっと崖の方に向かって私の背中を押してくる。


 どうしたい? どっちでもいいよ?


 そう言って委ねるように尋ねてくる。


 だから。


 だから、私は。


 立った。暗闇の崖側にもう一度。


 ゆなの上司は何も言わないまま、崖の際で風に身を遊ばせる私を見ていた。


 落ちてもいい。落ちなくてもいい。


 落ちるのも嫌だ。落ちないのも嫌だ。


 どっちでもいいし、どっちでも嫌だ。


 どっちも痛いし、どっちも苦しい。


 どつちにも、今、ゆなはいない。


 いないんだ。



 


 ゆなは。




 今、いない。




 笑いかけて、くれない。




 話しかけて、くれない。




 私が何を言っても返してくれない、私が何をしても笑ってくれない。



 一緒にサンドイッチも食べられない。一緒に川沿いも歩けない。一緒に原付で旅もできないし、写真も撮れない。一緒にアイスも食べられない、優しく拗ねてもくれない。ちょっとずつご飯を分け合ったりできない。泣いてるのを慰められない。抱きしめられないし、一緒にお風呂も入れない。キスもできないし、えっちもできない。触れられない。一緒にいれない。同じ布団で眠ったりもできない。首筋を噛んでもらえない。お説教されたりもできない。一緒にゆあの将来を心配したりもできない。一緒に。一緒に。


 辛いことを分け合えない。


 嬉しいことを分かち合えない。


 もうゆなを遺せない。


 それで、もし、もし私がいなかったら。戻ったゆなの時間に私がいなかったら。


 そしたら、ゆな、忘れちゃうかな。


 私のこと、いつか忘れちゃうのかな。


 嫌だ。嫌だよ。


 それは嫌だよ。


 それだけは嫌だよ。


 ああ、ああ。


 気づけば馬鹿みたいに泣いていた。


 大事な宝物を失くした子どもみたいに溢れる嗚咽が止められない。


 暗闇のせいで、境も見えない崖の端で、そうやって独り泣いていた。


 何度も泣いて、幾つも溢した。


 痛みにむせてまた泣いて、独りで震えて泣き続けた。


 ゆながいないよ、ゆながいないよって馬鹿みたいに、子どもみたいに、飽きもせずに。


 途中から、泣き止みかけても無理やり泣いて、涙を吐き切るほどに泣き尽くした。


 眼が痛い。


 喉が痛い。


 鼻も痛いし。


 なんでか耳の奥まで痛いや。


 溢れるほどに零した涙は、何度も何度も泣き尽くした末に、やかて滲むくらいしか出てこなくなって。


 叫ぶ声も気づいた時には枯れていて。


 俯いて、ぼやけた頭のまま、ふと上を見上げたら。


 月がぽっかり独りで空に浮いていた。


 そしたら、すぐ隣で、月が綺麗ですよ、っていうゆなの声が聞こえた、気がした。


 だから、なんなのだろう。


 別にそれじゃあ、何も変わらないよ。


 生きていけるほどの理由にならない。死んでしまうほどの理由にもならないよ。


 そういえば愛してるって、結局いったことなかったっけ。


 風がごうっと吹いて背中を押してくる。


 それで、どうすんの? って煽られてるみたいだ。


 いや、本当にそうなのかな。風がそんなこと言うのかな。


 膝をゆっくり立ち上げて、覗き込むように崖の底を見た。ざざーん、ざざーんと波がぶつかる音がしてる。


 波の音だ。そう、ただの波の音だ。誰かを呼んだりはしていない。


 風が吹いた。ただの風だ。別に何も尋ねていない。

 

 空を見上げたら、そこにあるのはただの月だ。


 ゆながいないと、愛の例えにも使えやしない。そもそも私、ゆながいないと、愛が何なのかさえわかんない。小っ恥ずかしくて馬鹿らしい、ただの音の羅列に思える。それくらい、ゆながいないと色んなことに意味がない。


 でも、君がいたら。


 少しは照れてくれるかな。


 もしかして、私も、って返してくれたりするのかな。


 少し肺を膨らませてから、長く長く息を吐いた。


 それから、柵に手をかけると何気なく何となく、飛び越えた。



 なんてことはない境界を越えて、公園の地面に独り、戻ってくる。



 何の感慨もないままに。何の決意もないままに。


 それから、そのままそっと歩き出した。


 ゆなの上司はベンチで軽く笑ってコーヒーを啜ってた。


 「で、生きることにしたのか?」


 「……いえ、なんか疲れただけです。……ところで、ゆなが死神から戻るのっていつなんですか?」


 「……一年後だ」


 「…………じゃあ一年後まで、死ぬかどうかは保留にしときます」


 そう告げて私は歩き出した。


 生きる意味も知らないまんま。


 死ぬほどの価値も知らないまんま。


 何も考えずに、たたぼんやりと歩き始めた。


 全ての答えは、きっとそう、一年後。


 ふと振り返ったら、ゆなの上司はいなかった。


 でもどこか遠くから、笑って眺められているような気もしていた。気がするだけでわからないから、視線を戻して前を向いた。


 そうして私はふらふらと、独り歩き続ける。


 そうだ。宿に戻ったら、ゆなの写真でも眺めよう。


 あと、ブログの写真も見返そう。


 それから、この一週間を想いだそう。


 何度も、何度も。


 もし君が忘れてしまっても、私だけは覚えていられるように。


 からん、ころんと下駄を引きずりながら歩いてく。


 夜道を独りで歩いてく。


 死なない意味も、生きる価値も持たないまま。


 あやふやなまま、歩いてく。


 目を閉じたら、瞼の裏で、笑う君が私の名前を呼んでいた。



 そうやって、一年の月日が流れた。





 ●通知:コメントが投稿されました:2022/10/03 19:37


 『名無しさん:おつですー! 今日も死神ちゃん可愛いですね。あと、ネコ! いいなあ、私も野良猫に懐かれたい』



 ●通知:コメントが投稿されました:2022/10/03 22:12


 『名無しさん:ぼちぼち紅葉の季節っすね。ってことは復活してから一年たったのか、おめでとうございまーす』



 ●通知:コメントが投稿されました:2022/10/03 23:54


 『名無しさん:一周年おめでとうございます。いつも何気ない日常の、些細な感動を残す作品に日々の癒しを頂いています。どうか、投稿者様の一年が、また素敵な一年でありますように。そして、探していた子と再会できたようで何よりです。また、二人での素敵な旅など楽しみにしています』



 ●通知:その他15件のコメントが投稿されました



 ※



 ●通知:コメントが投稿されました:2022/10/04 17:15


 『名無しさん:たった今、ゆなが死神を辞めて元に戻った。学校の場所はわかるな? 校舎の裏手の茂みの所にいる。多分死にかけてるから、できたら助けてやってくれ』


 ●通知:コメントが投稿されました:2022/10/04 17:15


 『名無しさん:じゃあ、ゆなによろしく』




 ●通知:『名無しさん』がコメントを削除しました:2022/10/04 17:16




 ※



  


 一年前、私は死神の女の子と二人、旅に出た。



 余命一週間を宣告された最期の旅。



 そして、今まで失ってきた人生を取り戻すための、そんな旅。



 ただ、私は結局、その旅で命を終えることはなく。



 死神の少女に助けられて、そしてその少女を失って、独り、旅を終えた。



 ゆなが、何者なのか。そもそも死神が何なのか。



 ゆながいなくなった直後に、その上司を名乗る人から話を聞かされて。



 正直、よくわからないことも多かったけれど。でも、確かに分かったことが一つだけあった。



 ゆなはきっとこの空の下、どこかで生きている。



 探していたら、きっと会える。



 たったそれだけの指針をポケットに入れて。



 私は最期の旅を終えた。




 ※




 結局、あの旅は私に何をもたらしたのだろうか。 


 現実的な話をすれば、私がやったのは仕事を辞めたことと、連絡を絶って一週間ばかり失踪していたことくらいのものだ。


 一週間の終わりに、旅先で原付を売り払って、私は電車に乗って元の街に帰ってきた。


 一週間かけて、たくさんの感情とゆなの面影を遺し続けた私の旅路は、電車を使えば丸一日であっさりと帰り着いてしまっていた。


 まるであの旅そのものが夢みたいなものだったのだと言われたみたいで、少し不思議な気分を感じながら、私は自分の部屋に帰り着いた。


 一応、失踪扱いで一悶着あったみたいだけど、私の意思でどこかに行っていただけとあって、警察もあまり大きな騒ぎにはしなかった。親もなんだか心配した様子だったけど、ことがことだったので深い追及もあまりなかった。下手にパワハラとかで掘り下げられても困るだろうし、会社から特に文句が出たりということもなかったらしい。


 そうやって、私の周囲は一瞬だけ波打つみたいに騒ついて、そして嘘みたいに凪いでいった。


 あの一週間で、別に多くのことが起こったわけでも、私という人間が根本から入れ替わったわけでもなんでもない。


 親からの言葉は相変わらず現実的で耳が痛いし、私自身はその後の就活でも案の定なかなか振るわなかった。


 わがままを通しまくった日々が嘘のように、いつもの私に戻っていた。ただ、時折、一言二言、本音を話せるようになったくらいだろうか。


 そんなこんなで、半年ほどしてようやくありついた仕事で、私は今日もあくせくしながら働いてる。


 下町の小さな写真館で、館長が「ジジイだけだと若い子が寄り付かないから」という理由で採用してくれた。給料は前勤めてたところの半分くらいしかないけれど、残業はほとんどないから、余裕があって私的にはちょうどいい。


 写真館といっても、そこにいるだけだと仕事がないから、老年の館長の荷物を持ちながら、よくあちこちに写真を撮りに行く。


 会社の記念式典とか、地方のお祭りのイベントとか、学校の卒業記念とか。まあ、色々。


 よくよく考えたら、大学の写真部でやっていた活動とあまり変わらない。館長は未だに暗室でフィルム現像していて、私の大学もだいぶ仕組みが古かったから無駄にその経験が生きてしまった。


 早くデジタルに変えましょうよ、といっているのだけど、館長はあんまり聞いてくれない。お前の写真はそれでいいが、俺の写真はこれだと言ってかたくなに譲ろうとしない。まったく、仕方のないお爺ちゃんだった。


 そうやって私は日々を他愛もなく過ごしてる。


 まあ、でも、いつか働いてた時より、幾ばくかマシな気分なのは確かだけど。


 なにせ時間も心も余裕はあるし、背中を突き動かすような死にたい衝動も失って、随分と久しい。

 

 辛いことは、少なくなった。


 死にたかった気持ちは少し薄れて、崖から飛び降りようとしたことも、自分より年下の女の子と肌を重ねたことも、会社を辞めて飛び出したことも。


 何よりあの旅そのものが、何処か遠い過去のことみたいだった。自分の身体を通してたしかに感じたことなのに、どこかボヤけて、滲んで、曖昧になってしまったみたいだ。


 本当にたくさんのことがあったけど。

 


 でも私は結局、私のままだ。



 相変わらず、鈍臭いし、細かいところは抜けているし。


 焦ると簡単に周りが見えなくなるのもおんなじ。


 怒られると思うと不安で、仕事の進みが遅くなるのも変わってない。


 館長は私がパニクるといつも、落ち着けって言いながら、おまんじゅうを手のひらに載せてきた。お地蔵さんへのお供物の余りだそうで、落ち着くんだけど、おかげでちょっと太りそう。


 そんな感じで、生まれてきてよかったのか、確信がないまま生きてるのも、変わってない。


 変わらないまま、不安なまま、なんとなくで生きている。



 意味も価値もわからないまま。



 最近のブログは、ツイッターやインスタと並行して始めたら、そこそこ見てくれる人も増えてきた。最近は反応にいちいち一喜一憂して心が落ち着かないから、投稿だけして反応は見ないように心がけてる。


 最初の頃にブログで反応してくれた数人は、未だにコメント欄で時折顔を出してくれる。正直、ありがたい限りだ。


 ブログに載せていた写真は、あの日の夜を皮切りに姿を変えていた。ゆなの写真がずらっと並んでいて、当時はコメント欄は大慌てだった。


 ゆなが死神じゃなくなったことで、誰にでもゆなが見えるにようになったみたいだ。


 そういえば、1ヶ月ほど前にゆあからメールが届いてた。インスタを見ていたらもしや、と思って連絡してくれたらしい。少し心配だったけど、電話したら元気そうだった。両親から叩かれたりしない? と聞いたら「最近はないよ!」と楽しそうだった。最近……ねえ。果たして笑っていいのだろうか、……いいんだよね?


 私の両親はよく心配してくるのは変わらずだけど、こちらから少し距離を置くとあまり細かくは言って来なくなった。「元気?」って連絡が月一でくるくらいのものだ。


 


 そんな風に、私は今日も、あの日から地続きの私のまま生きている。




 自信が無くなったり、不安になったら、いつかの言葉を思い出しながら。




 ただ、風のよく吹く崖につくと、ちょっぴりだけ死にたくなる。




 なにせ、私を知ってる『ゆな』は、今いないから。




 それがちょっと寂しいから。




 そんなことを考えていた、とある秋の夕暮れのことだった。




 館長と一緒に、高校の卒業アルバム用の写真を撮りに来ている時のことだった。




 スマホに届いたゆなの元上司からの通知を見て、私はすぐさま校舎の裏手まで、全部ほっぽり出して駆け出した。




 窓から見まわしてあなたを見つける。三階から飛び降りたあなたは、近くの木の根元でうずくまっていた。それを見つけて、すぐに何も考えず走りだした。後ろから館長や先生方が慌てて呼ぶ声がするけど、気にしない。そんなの全部終わった後だ。



 今はただ一刻も早く、君の所へ。



 一階に行ったら、窓枠を乗り越えて外に出て、そのまますぐそこの君へと駆け寄った。



 飛び降りたあなたは全身が傷だらけで痛々しく、口から数滴血が滲みでていた。



 私は慌てて、救急車に電話を掛けて。



 「——たすけて————まゆ」



 君の声を聴いた。



 それだけで、情けないけど、涙がぼろぼろ零れてきた。



 ああ、ああ、ああ。



 私を知る『ゆな』がそこにいた。私と旅した『ゆな』がそこにいた。



 生きる意味をくれた君が、そこにいた。



 ありがとう。



 ありがとう。



 あなたが生きてくれていて、本当によかった。



 遠く向こうで、私とゆなに気付いた先生と館長の声が響いてた。












 ※











 「……え? 私、飛び降りる前にお姉さんに会ってるの……?」


 入院先に顔を出したら、病院のベッドでゆなはちょっと面白いくらい、包帯でぐるぐる巻きになっていた。そして信じられないとでもいうように、口をあんぐり開けて私を見てくる。


 「うん、そうだよ? ほら、覚えてない? 部活の写真撮りに行ったでしょ? 私はネット使って居場所調べてたから、事前にゆなのこと、わかってたしね。でも、ゆなは死神になる前だから覚えてなかったみたいけど」


 「う……あ、……ほんとだ!? ちゃんと記憶がある。しかもその後、お茶したよね?!」


 「うん、駅前で会った時に、適当に話付けて奢ったでしょ。よかった、ちゃんと覚えてるんだね」


 「う……う……うにゅわー??!!」


 ベッドの脇に座って喋りながら、順々にゆなの記憶を確かめていたら、ゆなはぎったんばったんと身悶えしだした。なんかお医者さんが、割と全身の骨にひびが入ってる、とか言ってたんだけど。そんなに動いて痛くないのかな。同室の人たちも、なんだなんだとこっちを見ているし。


 そしたら、ゆなは案の定、わき腹を抑えると、ぎりぎりとさっきとは違う理由で身悶えだした。


 「ほら、もう、暴れるから……」


 「う……だって、私、お姉さんにすんごい失礼なこと言ってた気がするもん」


 「まあ、失礼というか。ゆな視点だと実質初対面で急に声かけてくる大人だもんね、結構ツンツンされたのはあるかな」


 「あばばば」


 ゆなはそう言うとどこか顔を真っ赤にしながら、動かない手足で器用に枕に顔をうずめた。


 「『私、正直知らないです。誰ですか?』とか」


 「あばば」


 「『何目当てですか? あなたぶっちゃけ不審ですよ?』とか」


 「やめて、やめて、やめて」


 「『何知ってるか知らないけど、あんたに私の何が分かんの』とか言われたけど、まあそれくらいじゃない?」


 「殺して! 今すぐ私を殺して!!」


 ゆなは枕に顔をうずめたまま、また、ぎったんばったんと暴れ出した。そして、今度はベッドの枠に足をぶつけて、そのまま痛みにうずくまっていた。


 「まあ、でも突然声を掛けてくる不審な大人という点では、何一つ間違えていないわけで」


 「そうですけど……え、ちょっと待って、私なんかもっと酷いこと言ってた気がする」


 「しょうがないよ。私も分かってた……分かってたけど、正直、ちょっとへこんなだなあ、あの日は」


 「……ごめんなしゃい……本当にごめんなしゃい」


 ぐさっときた言葉ワーストワンが『もしかして変態ロリコンなんですか?』なのは黙っておこう。事実一年前に手を出しているので心から否定できない。その日の私は家に帰って無言で枕を濡らすしかなかった。


 なんて回想をしてると、ゆなは心から申し訳なさそうに、ひびの入った身体で必死に謝ってくる。私は軽く笑いながら、ひらひらと手を振った。


 「いや、いいよ。ていうか、知らないんだから、仕方ないって。むしろ私の方がなんかごめんね」


 「うう……でも」


 「ていうか私、実はゆなのこと隠し撮りとかしちゃったし……」


 「え…………それはなんか、本当に変態っぽい」


 ゆなは一周、呆けた後、ぼそっとそう言葉を漏らした。あまりに無意識に言った言葉は、だからこそ素直に私の心に響いてくる。


 そうだよね、ちょっときもいよね。ああ……。今度は、私が真っ赤になる番かな。いや、まあ、でも致し方ないんだけど。そう言われても、何一つ言い返せないことをしているのだから。面識のない女の子に近寄って、隠しどりって、ああ。


 「…………変態でごめんなさい」


 控えめに言って、なんだか生きてるのが恥ずかしくなってきた。やはり、あの夜飛び降りておくべきだったんじゃなかろうか。


 「え? あ? ああ……、そ、そんなことないよ。お姉さんは的には覚えてるんだもんね。仕方ないよ! だ、だから落ち込まないで……」


 「うう……ごめんなさい。年下の女の子を好きになって隠し撮りする変態でごめんなさい……」


 「おーうい、おねえさーん、もどってきてー」


 羞恥心でゆなのベッドにうずくまっていたら、頭をぺしぺしと叩かれた。顔を上げたら、ふみふみと包帯からのぞく指で私の頬を引っ張られる。


 「……うう、ごめんね。ゆな」


 「もう……だから、私の方こそ変な態度取ってごめんってば。それに私お姉さんが変態でも好きだから大丈夫だよ」


 「うう、ありがとう……」


 なんだか、絶妙にフォローされてない気もするけれど。私は滲む涙を拭きながらそっと体を起こした。そんな私に、ゆなは優しく微笑むと、ぽんと頭に手をのせてくる。それから、髪を梳かすみたいに、そっと優しく撫でられた。


 「それに、もう言っちゃったんでしょ? 私と恋人って、あーあ、学校に行ったらからかわれちゃうな」


 「う……その件に関しては本当にごめん……」


 ゆなはちょっとからかうように私に笑いかけてくる。私は思わず、もう一度、頭を下げ直すばかりだ。


 あの日、ゆなが飛び降りて意識を失った後、私は大慌てで救急車を呼んだ。それから、救急隊員が到着してからも必死に声をかけ続けていた。そして、あろうことか救急車にも学校の先生と一緒に乗り込んで付き添ってしまった。ただ、あんまりに鬼気迫る様子だったから、周囲もなんか勢いで納得してくれてたみたいだ。そして、学校の先生にこの子の親戚か何かですかって聞かれたから、思わず『恋人です!!』と宣言してしまったのだった。なんでか、それでみんな信じてくれちゃうし。


 「先生とかは、『嘘としてはあまりに突拍子すぎるから、逆に本当なんだろうな』って想ったらしいよ?」


 「そ……そっかあ」


 いや、でも本当にどうしよう。これでゆながいじめられたりしたら、どう責任取ればいいのか、ああ。なんて私が頭を抱えていると、当のゆなはけらけら楽しそうに笑ってた。


 「いや、でも面白かったよね。眼が覚めたら、『なんで飛び降りた?』より先に、『あの人、本当に恋人か?』って聞かれるんだもん。そうだよーって答えたら、答えたで、先生は驚くわ、お母さんはひっくり返るわ、警察もなんでか感心してるし、みんな私の自殺とか正直二の次になってたよねー」


 私としては結構いたたまれない場面だったのだけれど、当のゆなは面白がるばかりだった。


 「特にお母さんの顔が面白かったよねー。絶対、私の成績とか習い事とかどうでもよくなってたもん、完全に処理落ちしてた。そんでその後、まともにしゃべれてなかったもんねー。あ、でもねお姉さん、意外とあの場面で言っちゃったのは正解かもよ? 結構、特殊な状況だったからみんな納得したし、これで堂々とできるしね。みんなの前で公言できてるってのは結構強いんだよ」


 「それならいいけど……」


 なんて、話をしているときだった。病室のドアがガラッと開いた。二人してそちらを振りかえると、私より一回り程年上の女性が、そこに立っていた。


 ゆなの、お母さんだ。お見舞いに来て、何度か顔を合わせているけれど、私と眼が合うと一瞬たじろいだようになった。


 ただ、少し迷った後、ゆっくりベッドの傍まで歩いてくると、私に向かって無言でお辞儀だけをしてくれた。


 私も、正直、どう対応したらいいかわからなくて、軽く会釈だけ返す。


 それから、ゆっくりゆなに向き直ると、持っていた紙袋をそっと置いた。


 「これ、新しい着替え持ってきたから。あと必要なものいくつか入れてあるわ」


 「うん、ありがと」


 ゆなはどことなく微笑みながら、気兼ねなく答えを返す。その様子じゃあ、むしろ母親の方が緊張しているようにさえ見えた。


 「また、必要なことがあったら連絡して」


 「うん」


 「習い事や塾の先生にはしばらく休みの連絡入れといたわ」


 「うん、そこはまあ。帰ったらまた相談するよ」


 「じゃあ、また来るわね」


 「うん、ばいばい」


 そんな短いやり取りを、ゆなとお母さんは繰り返す。そして私にもう一度お辞儀をすると、どことなくぎこちないまま病室を立ち去っていった。


 後には、どことなく呆けた私と、何かを受け容れたような、優しい微笑みを浮かべたゆなだけが残っていた。


 「お母さん、大丈夫なの?」


 色々と、難しい家庭だっていうのはゆなからも、ゆなの上司からも、学校の先生からも聞かされていたけど。


 どことなく、距離を感じるのも確かだった。


 ただ、ゆなは落ち着いた顔で、軽く首を横に振った。


 「多分、あんまり大丈夫じゃないかな。きっと、いろんなことがあって混乱してる。今まで自分が信じてきたものがなくなったから、怖いんだと思う」


 「なら……」


 「でも、私にはどうしようもないからね。私は私なりの幸せ見てるし、お母さんはお母さんなりの幸せを見てる。私が飛び降りたことで、そこが違うってはっきりとわかっちゃった。お姉さんの存在も結構インパクトおっきかったんじゃないかな。


 ……だけど、そこから先は、お母さんにしかどうにもできないよ。どういう結論を出すのかはあの人次第。まあ、何にしても大人だから時間はかかると思うけどね」


 ゆなはそう言って、ぐいっと背伸びをしてからベッドにごろんと転がった。



 「誰だって、死ぬくらいの想いをしないと、そうそう簡単には変われないからね」



 それから、そう言ってゆっくりと眼を閉じた。


 「寝るの?」


 「うん、ちょっと疲れちゃった」


 「そっか、おやすみ」


 「うん、おやすみ」


 「……」


 「……ねえ、まゆ」


 「なに?」



 「生きててくれて、会いに来てくれて、ありがとう」



 「……うん。私もゆなが生きてくれてて、本当に良かった」



 「……そっか、じゃあ、本当におやすみ」



 「……うん、おやすみ」



 ゆっくりと髪を撫でると、あなたは程なくして寝息を立てだした。



 すーすーと、穏やかな眠りの音が聞こえてくる。



 そうやっていると、ふと想い出したことがあった。



 たくさんのため息を今まで聞いてきた。



 たくさんの失望を今まで見てきた。



 そしてきっと、誰より私の諦めを、私は今まで受け止めてきた。



 こんな、自分、無くなってしまえと、そんな呟きをずっとずっと、深い心の底で繰り返してきた。



 今でも時折それは聞こえてくる。



 でも、そんな寂しい心でも寄り添えるものは確かにあって。



 それに気づいたのは、最期の一週間にわがままを言いだしたのが、きっかけで。



 ゆなを好きになったことで、その芽はゆっくりと伸びていって。



 ゆあを助けたことで、それは大きく葉を伸ばして。



 最期の夜に、それは確かにつぼみになって。



 ゆなを探すうちに、それは確かに花開いた。



 死ぬほどの想いはしたけれど、私は大して変ってない。



 私は結局、私のまんま。強いて違いを上げるなら、ちょっとだけ生きてもいいかなって想えてる、その程度。



 自分に対して積み上げたたくさんの『嫌い』を肥料にして、少しずつ育った『生きてもいい』って心が、今、私を支えてる。



 理由もない。意味もない。



 ゆなの上司は、『誰かの人生を救ったらそれが生きる意味になる』なんて言ったけど、実はそれもピンと来てない。



 なんだかよくわからないまま、いつ想い始めたかすら、あやふやなまま。



 『ま、生きててもいいのかな』って、私は今日、想ってる。



 いつか告げた『生まれてきてよかった』も、決してウソではないけれど。きっとそれだけじゃないんだと、なんとなく想う。



 ただ、なんとなく、ぼんやりと、私は『今日、生きててよかったな』って想えてる。



 死ぬほどの想いをして、最期の一週間の旅をして、私が変わったことはそれくらい。



 曖昧に、ぼんやりと生きながら、好きな子の寝顔を眺める、そんな日々。



 穏やかな、他愛のない今日を、理由もなく生きる、そんな人生だ。



 だけどまあ、それでいいいかと想ってる。それがいいんだと想ってる。






 ふと思い立って、カメラをカバンから引っ張り出した。



 ファインダーを覗いて、中央に君の寝顔を合わせて、じっと待つ。



 いいと想ったタイミングでシャッターを切った。



 かしゃっと、スマホより少し控えめな音を鳴らして、カメラはそっと撮影を終える。



 そうした後に、眠るあなたに私はそっと笑いかけた。



 窓から吹いた、秋の涼しい風が撫でるように、私達の間を通り過ぎていった。

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