裏通りの下駄の音

四十物茶々

裏通りの下駄の音

 カランコロンと下駄の音が、暗い路地に響いている。


 深夜残業を終え、終電で最寄り駅まで帰ってきた佐々木菜々美ささきななみは、先程の通りを左折した時から背後を着いてくる下駄の音が耳に触って仕方がなかった。菜々美が足を速めると下駄の音も早くなり、ゆっくりと歩くと下駄の音もゆっくりになる。


 完全につけられている……。


 菜々美の背中に嫌な汗が流れていく。急いで大通りに出なければ、と焦れば、焦る程足が縺れる。カランコロンと下駄の音はまだ一定だ。人通りの多い大通りまであと少しという所で菜々美は通り側からくる三人の男を視界に収めた。


 ――助かった。


 そう菜々美の胸に安堵の気持ちが宿ったが、男たちの顔を目視した瞬間その気持ちは掻き消えた。獣の様にギラつく瞳を隠さず、菜々美の身体を品定めする男たちに、呼吸が止まる。


「お姉さん一人?」

「俺たちと遊ぼうよ」


 アウトローな雰囲気を隠さない男たちの一人が、菜々美の右腕を掴んだ。随分と力が強く、骨が軋む。


「止めてください!」


 菜々美の悲鳴のような甲高い叫び声が、暗い通りに吸い込まれて消える。何が可笑しいのか、ケラケラ笑う男たちの口角が嫌に歪む。ニタリと音を立てて歪む口角の奥でぎらつく嫌に白い歯に、怯える菜々美の顔が映っていた。強い力で引かれる腕が肩から抜けてしまいそうだ。


「一緒に行こうぜ!」

「家まで送るし」


 もう一人の男の手が菜々美の方に触れた瞬間、風が吹くように周囲の空気が変わったのが分かった。空気が淀む。

 先程から後ろを追いかけてきていたカランコロンという下駄の音が、真後ろにまで迫っている。菜々美の肩を持つ男が、冷凍庫に入れられたようにガタガタ大きく震えながら、青い顔で「拙いって」と呟いた。

 刹那、男の身体越しに体が後ろに恐ろしい力で引っ張られた。思わず菜々美の肩を離した男が通りの奥まで引き摺られていく。「ぎゃぁああああ」と耳を劈くような断末魔が、徐々に小さくなっていく。その場に思わずへたり込む菜々美の右腕を掴んでいた男が、膝を震わせて罵詈雑言を並べ立てているが全く耳に入ってこない。

 「なんなんだよぉ!」と泣きそうな声で大通りに向かって走り出した男たちの身体が見えない物にぶつかり壁に押し付けられていくのが見える。骨が軋み、内臓が圧迫され、喉の奥から悲鳴と空気が漏れていく。ロードローラーで圧縮されていくように、ゆっくりと体を潰されていく男たちの眼に、黒い黒い靄が見えて菜々美はぎゅっと目を閉じって両の手を合わせた。

 ブチュンと言う耳障りな音が響き断末魔が止む。


 恐る恐る祈るような気持ちで眼を開けると目の前にはニタリ顔の大きな大きな黒い化け物が立っていた。


「タスケタ、タスケタ」と菜々美の周りを周回する化け物が歩く度、先程のカランコロンという音が響く。呆然と化け物を眺める菜々美の脳裏を、昔々、布団の中で読んだ妖怪大図鑑のあるページが過った。


「べとべとさん?」


 名前を呼ぶと化け物は嬉しそうに大きな口をさらに大きく歪めて「タスケタ、タスケタ」と笑った。まるで小さな子供ではないか。自分の行った悪行が、善行で塗り潰されている。菜々美は恐る恐る手を伸ばし、べとべとさんの大きな体に触れた。表面はぬめっとしていて、蛙に触っている時のような質感がする。ゆっくりと体を撫でながら、菜々美の身体は震えていた。歯の根が合わずにカタカタと歯が鳴るのが不愉快だ。


「助けてくれてありがとう。べとべとさん」

「タスケタ、タスケタ」

「べとべとさん、ついてくる?」


 菜々美が震える声でそう問いかけるとべとべとさんは動きを止めて不思議そうな顔をしていた。「先へお越し」と言われたことはあるが「ついてくるか?」と問われたことはない。


「一緒に帰ろう?」


 膝が震えて立つとこが出来ない菜々美と暗い通りを交互に見詰めて、べとべとさんは「アイ」と大きく元気に肯定の返事をした。真っ暗な通りに、月明かりが差し一人と一匹を優しく照らしていた。

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