-54- 教会3
そして、その中腹が目的地だ。
”果ての東壁”と呼ばれる山脈の麓には
当然、大聖堂へと足を運び管理者たる大司教がしてくれると。
しかし、
向かう場所を示された時、大司教に向かうか向かわないかを問われた。
推薦状があるからと言って、そこに必ず向かわなけらばならない訳では無い。その時は大司教に一生なれず、今の司教から階位は上がる事は無い。階位は上がらぬが罰則がある訳でもないので、八割位の司教はそこへ向かうのを躊躇い、司教のまま一生を過ごすことになる。
何故、大司教への道を躊躇するかと言えば場所にある。
”果ての東壁”と呼ばれる天高くそびえる山脈の中腹。恐らく四千メートル近くは登らなくてはならない。登り慣れた共を連れて行けるとは言ってもそこまで自らの脚で登る必要がある。
司教と言うぬるま湯の階位どっぷりと浸かってしまった彼らには登るだけの精神は持ち合わせていない事が多く、九割もの司教が登る前に諦めてしまうのだ。
そしてもう一つ。大司教への道を諦める原因がある。
それは”果ての東壁”で約一年に渡る厳しい修行を課せられるのだ。
空が間近に迫る場所では空気が薄くなるのは誰でも知っている。もちろん、
それに、四千メートルもの高地あるのだから世俗とは無関係だろう。
いくら司教とは言っても人の欲を全て抑えきれる筈も無い。
睡眠欲はそれなりに取る事は可能で欲になりえない。
食欲は満腹とまでは行かなくても食べるに苦労する事は無いだろう。
だが、性欲はどうであろうか?
自らを律し、他人に求めぬのであれば可能であろう。だが、そんな仙人みたいな人間は皆無であると言わざるを得ない。
司教であれば信徒とその様な関係を築く事もある。一度のみの関係もだ。まぁ、とっかえひっかえとは言わずとも、それなりに欲のはけ口はある。
信徒からすれば優秀な司教と仲良くなっていたい、もしくは優秀な司教の種が欲しい、などの理由はあるだろうが。
司教はそれをただ利用しているだけなのである。
そこでだ。
性欲を信徒で発散している司教が厳しい修行へと向かったらどうなるだろう。
司教である
これら最悪な条件を告げられてしまえば登るのを躊躇うのもわかるだろう。同時期に集まった司教の大部分はそこで脱落してしまったのだから……。
「全く、軟弱な司教が覆い。嘆かわしい事だ……」
そんな言葉がぼそりと飛び出してしまう。
神の教えを一身に受けて人々を救う手伝いを至高と考えぬ輩の多い事が嘆かわしい。
息が苦しくなってゆく中でそう
神の試練に望まぬ司教が多いと嘆きながら登る事十数日。
”果ての東壁”の中腹に突如現れたそれは余りにも違和感しかない。
これほど巨大な建物が地上から見つけられぬのは何故だろうと思いつつも到着したことに
※これにて第2部は終了となります。
第2部の人物紹介等を挟んで第3部を始めます。
次もよろしくおねがいします。
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