第16話 紅梅

 授業終わりの教室。学級日誌の枠組みに、当たり障りのない記述を羅列していた。


 日直ということもあり必然的に、クラスメートが日替わりで担当することになるそれが今日、僕に回ってくる。


 ホームルームを終えた放課後に少しだけ、教室の自席で居残りをして、机の上に筆記用具と共に並べていた。


 そして時間割通りに教科名と担当教師の苗字、簡潔な授業内容、僕個人の感想。

 横六列の不規則な四角欄の空白を埋める。


 最後に今日の総括と、早退遅刻欠席者の生徒名を書いて、担任教師に提出するだけになっていた。


「……」


 僕は総括の欄に『授業は問題なく進行していました。もうすぐ三年生になり、肌寒い季節が続きますが風邪などを引かないように心がけたいと思います。 皆本』と記し、欠席者の生徒の苗字を書こうとして、一旦止める。


 それから僕の担当するページに消しゴムをはさんでから一つ前をめくり、担当者と欠席者の名前だけ見る。


 この作業をひたすら繰り返して、やがて以前僕が担当したページまで遡ると、無感情に頷き、消しゴムを挟んだページへと戻る。


「やっぱり、ほとんど書かれてない……」


 そもそも学級日誌なんて然程さほど、重要視もされていない業務連絡だ。


 クラスメート全員と担任教師が共有しているから、それを乱すような言葉は使用出来ず、皆が似たり寄ったりな文章になる。


 ましてや欠席者が誰かなんて、りゃくになっていてもおかしくはない。


 それでも僕は、この学級日誌にまばらにしかいない、シズの苗字である『くすの』の名をそこに、筆圧を込めて書き記した。


「うん、行こうか——」

「——あれ皆本、まだいたのか?」

「……えっ?」


 僕に背後から話し掛けてきたのは、同じクラスで後席の男生徒である武藤たけふじだ。


 旋毛せんもうの流れに沿うミディアムヘアを整髪料で量感を作る美意識と、ゆとりある姿勢と着こなし。顎周りに余計な脂肪分が無く、実年齢より大人びて映る。


「珍しいな、皆本が放課後に居るって」

「いや、あの……」


 そして僕の机の上にある学級日誌を見て、大方察しがついたみたいだ。


「ああそうか日直……てことは明日俺か?」

「うん、今回は席順だからね」


 同級生の誰にでも言えるけど、僕がこうして話題を振られることは稀だ。

 応対が間違っていないか不安になる。


「それ、もう書き終わってね?」

「これから渡しに行こうかと……」

「……皆本のすげぇ丁寧だな」

「えっ? いや、大したことしてないけど」


 武藤の感想に混乱する。


「そうか? あ、それ渡しに行くんだろ?」

「うん」

「だよな、邪魔して悪かった。また明日な」

「えっうん、また明日……」


 逃げるようにそそくさと教室を出る。

 武藤と別れてから僕は職員室へと向かい、かしこまりながら入室すると、残念ながら不在だったため、クラス担任の先生のデスクに学級日誌を置く。


 そのまま校舎を後にして、シズの居る病院へと徒歩で向かう。


 正門から緩やかな勾配を下り、軒並みへと続く、通学路として特殊整備された歩道に乗り上げる。

 そこから病院の所在地が示された看板がある交差点前まで、約一時間を要する見慣れた道のりを進む。


「今日は教科書とか色々詰まってるけど、問題はないかな」


 右肩に掛けた荷物類が圧迫する。

 一年前の僕なら音を上げて、一度家に帰っていたかもしれない。


 最初の頃はただ歩いているだけなのに、病院に到着する頃には息が上がっていた。


 一応、疲労が蓄積している日はバス停を利用する事も出来るけど、それでも三十分は掛かる上に病院とは逆方向に進行する必要があるため、最近はその頻度が高くない。


 僕の膝や脚のこともあり、長時間の徒歩は両親や看護師さんには心配されていた。

 けれどむしろ。脚腰あしこしや体力強化に繋がっていて、リハビリ当初に突き付けられた衰えをようやく取り返した感覚さえあるから、何も全てが悪い訳ではないし、今では息もそれほど上がらなくなり経過は良好だ。


 そしてなにより、僕の脚でシズに逢える。


「今日は少し早足で行こうか。面会時間を確保しないと——」


 僕はその両脚に鞭を打つ。

 すると路肩を走行する、同じ中学校の制服を着た生徒に颯爽と追い抜かれてしまう。


「……速い、な」


 その人は自転車に乗っていた。

 ふとしたこういう時に、僕が未だ恐怖を克服出来ないまま自転車に乗れないことが、どうしようもなく歯痒くなる。


「……っ」


 中学生になってから、一度だけ試しに跨ったことがある。


 片方のペダルを踏むまでは順調だった。

 だけど、事故当時の記憶が徐々にフラッシュバックしてきて、その衝撃と剥き出しの脛骨けいこつと筋肉に大量の血液。


 そうして僕の視界が捻じ曲がり、身体が浮遊するような感覚に陥ると、その不安定な精神状態が生死の境目を予感させ、やがて太鼓バチで連打されたような動悸まで引き起こす。


 それを抑制しようとすればするほど脈拍は加速して行き、僕を責め立てる。


 負荷に耐えることが叶わず、僕は自ら地面に倒れ込む。すると先程までの異常が嘘のように解放されて、僕はその安堵と不甲斐無さだけを残し、自転車から退いていた。


 僕はまだ、あの事故に囚われている。


「急ごう……」


 自転車に乗ることが出来ればもっと効率が良かったなんて、たらればの考えは、するだけ無意味だ。


 これが僕の現状だと受け入れるしかない。


 そうこうしていると病院の看板が視界に映り、相も変わらず交差点の左折を促すので、僕はそれに従う。


 そこから暫く直進して、歩行者専用の煉瓦舗装に移り、点字ブロックを踏まずになぞって行くと病院の敷地内まで導いてくれる。


 いつも通りに僕は、病院の本館ではなく小児科の病棟へ向かう。


 そちらで面会受付を申し込む。

 容態や治療法の関係で謝絶されることもあるから欠かせない工程だ。


「今日はいつもよりも少し遅かったね。学校行事……はこの時期に何かあったかな?」


 僕がその申請中に、顔見知りの看護師さんに声を掛けられた。

 佐藤さんと言って、田宮さんよりもかなり先輩の方で看護師長を請け負っている人だ。


「えっと僕、日直だったんでそれで——」

「ああそっか、なんか懐かしいねえ。いや、この仕事にも日直はあるんだけど、学校のはもう縁がないからね、おばさんだから」

「いやいやそんな……」


 お互いに手順を熟知しているお陰で、雑談を交わしながらでも面会申請を無事に済ませることが出来た。


「今日もシズによろしくね」

「あ、はい」


 軽く会釈をしてから僕は、シズの病室へと通路奥の階段を上る。


「……」


 そうして病室の前に着くと、珍しく扉が閉ざされていた。いや、正確には割合として開かれていることの方が多いと言うべきだろう。


 僕は念の為ノックをして確認する。

 するとすぐに、室内から扉がスライドして開かれる。


「シズ、もう終わったの——」

「あ、田宮さ——えっ?」


 田宮さんが僕と認識するや否や、俊敏に扉を閉ざしてしまう。

 こういったことは今までなくて、当惑とシズの身に何かあったのかと勘繰ってしまう。


「あの……」

「ごめん笹伸、今は来ないで。

 ちょっとそこで待っていてくれるかな?」


 なんだか少し、焦っている気がした。


「え、はい……」

「あっ、シズが帰って来たらすぐに教えて」

「分かりました」


 僕は了承こそしたが、何事かは分からない。

 けれど田宮さんの言葉から読み取るに、シズは大丈夫だと判断して、指示に従って通路の片隅に待機した。


 恐らくなんらかのトラブルが起きて、田宮さんが対応に追われている。


「……っ」


 内心の何処かで一抹の不安は残る。

 その手持ち無沙汰が助長して、人通りにまで気が回らない。


「皆本? 何してるのこんなところで」

「えっ? あ、シズ」


 そこにシズが近づいて来ていることに全く気がつかなかった。


 僕はシズの様子を伺う。

 体調を著しく崩してはいないみたいで、寧ろ嬉々として僕と接してくれている。


 何故僕がそう思うのかというと、先程からシズの動作が何かと大袈裟だったからだ。


 両手を広げ、上体を傾かせて、瞳を輝かせ、そして声の抑揚も弾んでいた。


「そうだ、田宮さんがシズを呼んでたよ」

「うん、皆本は入らないの?」

「ここで待っているように言われたからね」

「ふーん……ああ、そういうことか」


 シズは素っ気なく返答すると、病室の扉の方へ向かう。それはもう淡々とした体裁だ。


 僕はその姿に胸騒ぎがしたけど、病院ということもあり静観していた。


 シズは強めに扉をノックする。


「葵さーん」


 すると病室内から田宮さんが訊ねる。


「……ちゃんと教えた通りに出来た?」

「うん!」

「そう。でもごめん、こっちがまだ終わってなくて、せっかく笹伸も来てくれてるのに」

「大丈夫。私、皆本と一緒にいるから」


 シズが田宮さんへそのように報告して、僕の方へと向き直る。


「ふっふっふ」

「……っ」


 そして、僕が悟ったときには遅かった。


 即座にシズの口角が不意に持ち上がる。

 近付いてすぐに僕の腕を両手で掴むと、無理矢理に引き寄せたシズは、脚を使ってスライド扉を開き、手荒く入室させた。


「おぉ……」


 中学生になってからは成長期ということも相まって、シズも慎んで振る舞うことを覚え、かつての御転婆さは鳴りを潜めていた。


 けれどその片鱗もまだ伏在ふくざいさせていることを僕は、この一連の流れでまざまざと見せつけられ、不覚にも微笑んでしまう。


「葵さんただいま」


 シズはそう言いながら、もつれた両脚のまま体幹を保った僕を把握して、腕から導いてくれた両手を離し、何事もなかったかのように扉を閉めていた。


「……改めて、こんにちは」

「もう……折角隠してたのに、やっぱりこうなったか」


 田宮さんは観念したと言わんばかりに溜息を吐いて腕を組む。

 そうして僕とシズを見比べていた。


 その双眸そうぼうは、わる餓鬼がきに世話を焼く近所のお姉さんみたいだと直感で思う。


 そうして僕の病室を眺める。

 飛び込んで来たのは。ぜんとする田宮さんと、透明の大袋に詰め込まれたシーツに、状況からしてシズが着用していたと思わしき病院服の袖も見受けられる。


 それを洗濯に出すのか、はたまたゴミとして廃棄するかまでは判別出来ないけど、どちらとも受け取れる形態だった。


 一見した限り。胃液などが逆流してせり上がり、それがベッドや衣服にも掛かったと考えれば説明が付くと推論した。


 しかしながら懸念点もある。

 一時的にシズがこの部屋を立ち去っていたこに加え、会話内容から田宮さんがシズになにやら教示しているようだった。


 そして田宮さんが遠ざけていたのに、シズがこうして僕を平然と招き入れたことも異様に感じられる。


 思考を逡巡しゅんじゅんしていると、シズがスキップをしつつ僕の眼前めのまえにまで到達する。

 目がしわになるほどつむり、笑窪えくぼが際立つ破れそうな満面で、効果線のように自身の威勢を引き立てるダブルピースをしながら、爛々らんらんと告げた。


「皆本! このたび私、初潮を迎えることができました!」

「……しょ、しょちょう?」


 僕がある程度、シズの歓喜を理解した上で、その意味が正しいかどうかまでは自信がなくて敢えて疑問形で訊ね返すと、シズが補足する様に重ねて答えてくれた。


「えーと、生理のことだよ。女の子が大人の身体になった証って感じかな? 簡単に言えば粘り気のある血が出るやつ」

「ああ……」


 それは、僕が聴いても大丈夫な話じゃない気がする。なのにシズは更に続ける。


「私はこれが全然来なくてねー、早い人は小学生くらいでも経験するらしいんだ。まあ大体想定はしていたんだけどね、ようやくだよ。ベッドの上で失敗しちゃったけどねー」

「……」


 ライムライトを浴びたようなシズとは対照的に、僕は冷淡に頷く。


 内心ではもっと、シズとその感情を分かち合いたいのは山々だけど、結局どう反応すれば良いか戸惑ってそうするしかなかった。


 こういうことは、異なる性別の人に伝えること自体がはばかられることをなんとなく、クラスの雰囲気などで察していたから、難しい問題だ。


「それってその、僕に言ってよかったの?」

「うん。というか、一番に教えようって昔から思ってたよ?」


 シズは僕の思考じゃ到底届かない、柔軟な見識を持っている。こちらが少し困ってしまうくらい。


「僕に教えられても、正直あんまりよく分からないんだけど」

「ははっそれはそうだよー。

 だって皆本は男の子だもん。だから私が一方的に伝えて、どんな反応してくれるかなーって、やっぱりちょっと困ってたね」


 シズが僕に対し、かぐわしい微笑を魅せる。溢れる感動に起因して、この狭い空間で、昔よりも技術を磨いた小躍りを披露する。


 当然それもあるけど、シズの肢体も成長して、躍動的な所作に化けているせいもあり、どこかれいに映える。


「こういうの本当は言えないものなんだけどな。同い年の男の子なんて特に」


 僕とシズの会話を見守っていた田宮さんが呆れたようにそう呟く。

 激しく同感だったけど、表情には出さないようにした。


 その田宮さんのそばにある大袋は、シズの満悦の結晶で、おそらく僕が容易に触れるのは躊躇ためらわれる代物だ。


 僕が一目でそれと分からなかったのは、田宮さんが巧妙に折り畳んでいるせいだろう。

 仮にそれが衆目に晒される事を想定しての配慮みたいだ。


 同性としての共感か、それとも田宮さんの良心か、もしくはその両方だろうか。

 いずれにしても、その甲斐かいしょうが僕とは桁違いに、田宮さんにはあるみたいだ。


「じゃあ皆本にも報告出来たから、葵さん、ちょっと病院にいるみんなに言いふらして来るねー」


 シズはそう言うと、いつのまにか扉の取手に右手を掛けていて、田宮さんの返事を待っていた。


「……シズが良いなら私は止めないけど、貧血気味の症状を感じたらすぐここに帰って来るか、それも無理そうなら周りの人にちゃんと助けを求めること、約束して」

「はいっ!」


 シズが空いた左手を威勢よく挙げて、約束を結んでいる。


「あと無ければ仕方ないけど、色付きの大きな袋がないか訊いてくれないかな? 出来れば真っ黒のやつ」

「わかった。またあとでね葵さん、皆本も」


 そうしてシズは、自信の成長を吹聴するために流離さすらって行った。


 取り残された僕と田宮さんは茫然と見送っていた。


「……嵐のように去って行きましたね」

「シズに恥じらいは無いのかな……いやあるよね流石に。あるけどそれより嬉しさが勝ってるんだよね、あれは」


 田宮さんがいぶかしくも微笑んでいる。


「普通はあんな風に言いませんよね?」

「うん。私も当時は、母親以外には話せなかったよ。段々と女の人なら誰にでも起こることって割り切れるようになって、友達や同僚と気軽に話せるようになるんだけどね」


 新しいシーツを敷く作業を再開させながら、僕の知る由も無い実体験を田宮さんは語る。


「シズ、凄く喜んでましたね」

「そうだね。どちらかというと最初は不安になる娘の方が多いけど……シズは、場合によっては一生経験することが無いことも覚悟してたから、余計に嬉しいよね」


 シズと共にしている期間だけなら僕よりも長い田宮さんは、その実情をより深く知っているようだ。


「……それはどうしてですか?」


 不躾を承知で僕がそう訊ねると、田宮さんは既に時効だと理由を答えてくれた。


「——インターネットで検索したら解っちゃう内容だからいいかな。この先も一緒なら、笹伸もいずれ知ることになるだろうしね。

 その……シズに投与してた薬にね、妊孕にんようせい……は聴き慣れないだろうからえっと、生殖機能に影響を及ぼすことがあってね。事象じしょうは様々なんだけど、大幅にそれが遅れる、最悪こない事まであり得たの。例えそうなってもこれは、必要な治療だったから……」


 殊勝に田宮さんが、僕にとっても必要なことだとシズの実状を教えてくれる。


 要約すると。将来的に子どもが作れないリスクよりも、シズの命を優先した選択ということだろうか。


「シズが生きる為ってことですか?」

「そう。しかもこれはまだ序の口で、リスクは他にも沢山ある。だけど今シズが生きることを優先しないと、その将来すらもなくなる。本人もご両親も苦渋の決断だったはずだよ」

「……」


 きっとシズは知っていたんだと僕は思う。


 だからこそ。健常なら当たり前のように訪れる事柄にあんなにも喜んでいて、不安や羞恥心だってあるはずなのに、僕や他の人にもそれを証明したがっていたのかもしれない。


「でもひとずは安心……なんて言葉は相応しくないけど、私個人も懸念してたことの一つだったから、心の底から嬉しい」

「シズ本人には言いにくいですけど、僕もそんな感じです」

「ふふっ、そっか。笹伸は相変わらずだね」

「……はい」


 田宮さんの悪意のない感想に、無駄だと知りつつ僕は恥ずかしさを隠すように返す。


「とにかくその量も問題無さそうだし、シズの容態も良好。ただ、ベッドを派手にやってくれたなー……まあ最初だからね」


 ここに居ないシズに、田宮さんはどうやら皮肉を言っているようだけど、その手作業を行う横顔から歓喜の感情が滲み出ている。

 だからその言葉も、二人が気心知れた仲だからこそだと僕にも遠目で分かる。


「さてと。直ぐに終わらせないとね」

「田宮さん。僕がここにいると邪魔になりますよね、どこかに行きましょうか?」

「そんなことはないけど、笹伸はこういうの気にするよね」

「はい……」


 遠慮気味にそう言うと田宮さんは察してくれたようで、すぐにその提案をしてくれた。


「じゃあ、シズにこのカーディガンを届けて貰おうかな? もしかしたら外に出てるかもしれないし、今日は寒波が来てるらしいしね。笹伸、お願い出来る?」

「はい」


 僕が返事をして、ハンガーに掛けられていたいつかのカーディガンを、田宮さんから少し畳んだ後に手渡される。


 そうして僕は扉の取手を掴むと、田宮さんの居る方へと振り向く。


「それじゃ行ってきます」

「はーい。転ばないように、足元には充分気を付けてね」

「あ、はい」


 最近では定番になりつつある忠告に頷いて、僕はシズの病室を離れ、病院の敷地内を彷徨うろついているであろうシズを探す。


 流石に小学生の時のような縦横無尽の行動はしないだろうから、小児科病棟の周辺もしくは庭園くらいに居ると僕は推測する。


 その言いふらしている内容からも子どもより大人の方が理解しやすいので、僕は庭園が最有力だと判断して真っ先に向かう。


 途中にすれ違った看護師さんや患者さんにも僕はシズの事で話し掛けられる。


 相手の方達がシズが僕にも伝えているのかどうかを訊いて、逆に僕がシズの居場所を訊き返して別れる。


 その情報から、庭園に居るという僕の推測は確信に変わる。


 そうしてそこに辿り着くと、木製のベンチに座しているシズの後背を見つける。


「あっ、シズ……ともう一人いる?」


 シズと同じく木製のベンチに座っているのは、その白髪と円背えんばいから御年配の方と見受けられる人物だった。

 車椅子も側にあるから、あまり脚が良くない人なのかと僕は心を揺さぶられる。


 そして初対面の方かもしれないと僕が気後れしながら徐々に近づいて行くと、その足音にシズが反応して振り返る。


「あれ皆本だ。もしかしてもう帰るの?」


 僕の見間違いじゃなければだけど、シズは黒い袋を持ったままに、どこか寂しそうに俯いている。


「いや違うよ。シズが外に出てるかもしれないから、カーディガンを渡すようにって田宮さんから」

「おーありがとう。丁度ウメ婆と寒いねーって話してたんだー」

「ウメ婆……さん?」


 僕はカーディガンを様変わりしたシズに手渡しながら、隣に座るウメ婆と呼ばれた人物に目を向ける。


 その人はひたすら正面を見据えていて、僕のことになど眼中にないといった様子で鎮座していた。


 そこでふと述懐する。

 そういえば僕が入院していた時に、シズがその変わらぬ名前を叫んで、無視していた人物だとやがて合点がいく。


「暖かいね」

「ああうん、それは良かった」


 カーディガンを羽織ったシズが胸を撫で下ろすようにぬくぬくとしている。


 今ではその身体より若干大きいだけの、適正サイズになったカーディガンを眺めていると、僕はなんだか感慨深い。


「あ、ウメ婆がこれ着る? さっきくしゃみしてたし」

「……いらん、もう帰る」

「そう? 折角だからもう少し話したいんだけどな」

「ガキ同士で仲良くしときな。そのぼんやりとした小僧と乳繰り合っとれ」


 そうしてウメ婆さんがゆっくりと車椅子へ身体を移行していると、シズがベンチから車椅子のハンドルを握りに向かっている。


「病室まで連れて行くよ」

「余計なお世話だよ。放っておいておくれ」

「まあまあそう言わずに」

「……なにがまあまあじゃ」


 散々壁を作られているにも関わらず、シズがめげることなく接近する。


「そんなに私はイヤ?」

「……ガキを見てると体調が優れなくなるだけじゃ、一人で行かせておくれ」

「……それは嘘だね、ウメ婆が私達に遠慮しなくても良いのに」

「遠慮じゃと?」


 シズがその問いに答える。

 僕はただただ傍観に徹していた。


「うんだってウメ婆、子ども好きでしょ?」

「……違うわ」

「あんまり関わらないのは、子どもたちの世界を壊さないためとかかな? それと……いやごめん、これは言わない方がいいね」

「……」


 そしてシズは沈黙するウメ婆さんの車椅子のハンドルから手を離して、僕の隣に立つ。

 二人の間にも不可侵の領域が存在しているようだった。


「今日はウメ婆を尊重するよ。一人で行けるんだもんね」

「……ああ、全くお前は昔から物分かりが悪いわい。何度も話し掛けに来よってから……いい迷惑じゃ」

「いやだって——」


 シズの反論をウメ婆さんは遮る。


「——お前自身の体調を気にせいっ。こちとら同じよわいの時に一度、気を失ったことがあるからのう」

「……うん、分かった」

「用件は終わりじゃ。そこの小僧と下らんことをする方がお前も幸せじゃろうからな、こんな死に損ないがおると逢瀬を重ねられん」

「あはは。逢瀬とか、さっきの乳繰り合うとか、もう大袈裟だねウメ婆は」


 それはとても遠回しではあったけど、シズのことを気遣ってのものだったみたいだ。

 ウメ婆さんは否定はしていたけど、シズの洞察力はあながち間違いではないと感じる。


 そしてウメ婆さんは車椅子を自ら操縦し、本館の方へと向かうらしい。

 その経験がある僕からでも、随分と手慣れている様子が不謹慎に感慨深い。


「……一ついいかの?」


 するとウメ婆さんが停止して、シズにそう訊ねた。


「うん、なに?」

「もう、この病院に帰って来るなよ」

「……」


 シズは言葉選びに窮している。

 その会話はどうやら、僕がここに訪れる前に交わされたもののようだった。


 どのような内容かは二人にしか伝わらない。けれど、あまり軽々しい話題では無いみたいだ。


「——どうかな? 私はそのつもりなんだけどね」

「……そうか」


 なんとも形容し難い静寂が流れる。


「……ごめん。でも、ありがとね」

「礼は要らん……裏切るんじゃないよ」

「うん、またね」

「……ああ」


 ウメ婆さんがその場から去って行く末を、僕とシズは見送る。


 シズは大きく手を振っているけど、結局振り返ることも、その素振り気付くことすらなく、本館に入って行ってしまった。


「本当に、子どもが大好きな優しくて思いやりのあるお婆ちゃんだよ」


 最後までシズに冷酷と取られかねない態度を示していたけど、きっとシズの言う通りなんだと思う。


「……そうだね」

「もう優し過ぎて損してるタイプだもん。もっとみんなに知らしめて上げないと」

「気持ちは分かるけど、多分嫌がるんじゃないかな?」

「そうなんだよね、凄くもどかしい」


 緩やかに時間が過ぎて行く。


 それは今頃。ベッド直しをしているであろう田宮さんだったり、病室に戻ったウメ婆さんだったり、他人事に頭を抱えるシズだったり、細やかな日常を送る誰かでもある。


 もちろんそこに、ぼんやり小僧の僕も含まれるだろう。


 やがて取り止めもなく季節は移ろう。

 段階的に寒気が衰微し、梅花が到来する。


 それは。僕の隣に立ち尽くすしているシズと共に、ようやく二人で中学校の制服に袖を通す遅春ちしゅんの前触れ。

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