第15話 感傷
段差を下りながら、踊り場の壁に備え付けてある小窓から
暗雲立ち込める真下の駐車場は、原色を
そのまま結論が出ずに、一階まで着いてしまう。病院から家まで帰宅する心持ちにならなくて、だからといって足踏みをするのも忍びないと、僕は遠回りしながら異なる出口へと向かうことにした。
雨天ということもあってか、シズの病室から不思議な事に誰ともすれ違わない。
普段は看護師さんや患者さんが行き交う通路を、僕が右側通行していても同様だった。
「どうしたんだろうな?」
その静寂に段々と不安を覚える。
賑やかな空間は正直苦手だけど、ここまで何も無いと、良からぬことを勘繰ってしまう。
「……あっ」
僕が気付けば、最近は久しく訪れていない憩いの場まで来ていた。
内心どこかで子どもたちの喧騒を求めていたのかもしれない。
「あれ、誰か居る」
でもそこに居たのは子どもたちではなく、遊具を整理整頓している田宮さんだった。
「……」
別段用事もないのに憩いの場を訪れたことを悟られないよう僕は、この通路から立ち去ろうと踵を返したときに、聴き慣れた声色が背後から響く。
「あっ、笹伸だ。何してるのこんな所で?」
「……」
これはもう、観念するしかない。
「……えっと、たまには気分転換に別の出口から帰ろうかなって思って」
「そう? あ、今日のシズは元気だったでしょ? 最近は調子良いみたいでね」
田宮さんが嬉しそうに話している。
その表情が僕にまで移ってしまいそうだ。
「そうですね。僕が雨音に気付かないくらい夢中でドラマの話をしていて、お陰で最新話のネタバレを喰らいましたね」
僕が事実を淡々と述べていただけだったけど、田宮さんが手を止めて、想定以上に笑ってくれた。
「はははっ。録画だけしてまだ観てなかったんだ?」
「はい。シズは午前中暇だったらしくて、その時間で僕の視聴分を追い越してたみたいで、それにお互い気付かないまま話を進めていて……って感じですね」
僕はその相違に気が付いたシズが、口元を両手で押さえてなかったことにしようとしたせいで、もう手遅れであると同時にネタバレの確信に変わった瞬間が重なり、それを再度思い出して苦笑いしてしまう。
その様子を眺めながら、田宮さんは意味深に口角を上げている。
「そういえば前にシズとの話は恥ずかしいから私に教えないって言ってたけど、それはもういいのかな?」
いつかの僕の発言を掘り返してきた。
それを田宮さんに指摘されるまで、どこかに失念していた。
「えっ? あ……、そんなこともありましたね。完全に忘れてました」
「ふふっ、だと思った。笹伸はたまにうっかりしてるときがあるよね」
「……」
ぐうの音も出ないという意味が、この一時だけ身に染みる程に理解出来る。
僕が押し黙っていると、田宮さんが何かを思い出したように両手を叩いた。
「あっそうだ。昔にね、笹伸をこの憩いの場に連れてくる口実にポチモンを観ようって、私言ったと思うけど……観てないよね」
「えっ……ああ、そう、ですね」
そんなことがあったか定かではないと、田宮さんに伝えようとした刹那、唐突に当時の記憶が呼び起こされた。
田宮さんが身体を満足に動かす事が不可能だった入院中の僕に、とりとめのない会話の中でポチモンの話題になり、そのアニメや映画の上映会をするからとここに誘われた。
車椅子に乗れるようになって、この憩いの場に田宮さんとシズも一緒になって連れて来て貰っている。
けどその日は小児科病棟の案内だけで終始して、後に訪れても上映会ではない別の催しの日ばかりだった。それはそれで、とても楽しかった。
けれど結局。当初の誘い文句が風化して行き、遂には僕も忘れてしまっていたようだ。
僕がそうして述懐していると、その間に田宮さんが黙々と、画面の側面にあるレコーダーにディスクを差し込んでいた。
「何してるんですか?」
「笹伸、雨で帰るのに躊躇してるんでしょ?
ポチモンを垂れ流しとくから観るかなって。ほら、約束は果たしたいし、ねっ?」
田宮さんが親指を立てて、揚々とウインクをしながらそんなことを僕に言う。
「いやいや田宮さんり今更いいですよそんな。もうここで入院している訳じゃないし、そもそも小児科とは僕、
「何を水臭いこと言ってるの。笹伸がずっとシズのお見舞いに来てることくらい、ここの看護師さんはみんな知ってるからね」
そう反論して、田宮さんは僕を手招きする。即座にかぶりを振って拒否する。
「大丈夫だよ笹伸。……本当の事を言うと、元々ここにいるみんなとその予定だったの。
でも誰も来なくてね、仕方なく整頓してただけから。笹伸が観てるともしかしたらそのうち来るかもなんて、私の中で思惑があったりなかったり……だからそのついで、だよ」
テレビ起動時の待機時間。
感度の悪いリモコンを持って音量を下げようと準備していながら、田宮さんは本当のことなのか、僕に気遣ったことを言ったのか分かりにくいことを連ねる。
「いやそれでも……」
「あとさ、ちょっと話したいこともあるんだよね……シズの事で」
「……それは、ずるいですよ」
仮にこの話を袖にしたとすると、それがどんなに他愛のないものでもきっと、僕は色々と深読みしてしまって、食事も睡眠もままならなくなるのは明白だった。
田宮さんもその事を重々承知した上での提案とあってか、申し訳なさそうにしている。
もしかすると僕の予想よりも性急な話なのかもしれない。
「でも分かりました、少しだけですけどね」
僕は田宮さんに了承を伝えながら、その田宮さんが居る方角へと歩み寄る。
「ありがとね」
「それでシズの話って何ですか?」
目の前の画面には、視聴に関する注意書きの後に配給会社のロゴが映し出されていて、漠然と映画なんだと僕は感慨無く体勢を崩していた。そこに田宮さんが答えてくれる。
「うん。今すぐじゃなくても良いんだけど、もしシズが中学校に登校出来るようになったときのことというか……これは笹伸にしか訊けなくてね……」
シズのための重要な相談事だ。
「シズ、もう学校に通えそうなんですか?」
「いや、まだ時間掛かると思う。けどこのままの体調が続けば、多分三年生になる頃には通えるようになるんじゃないかな」
「……それは、良いことだと思います」
僕は率直な感想を述べる。
田宮さんも殊勝に頷く。
「シズにはまだ内緒ね」
「はい……あまり期待させるようなことは言わないように、ですね?」
「うんそう。あ、ポチモンの本編始まるよ」
田宮さんが僕の隣に来ると、画面を指し示して僕を促す。
お馴染みのナレーションが流れた後に、暗闇の中で怪しげな研究をする悪役が現れて、高笑いするとともに稲光が鳴り響いている。
「これ映画ですよね? ポチモン映画ってシリーズものじゃないですか、どれですか?」
僕は最近の作品と比較して、画質が違うことから、初期の映画シリーズだと推測する。
「『ギルアの逆誕』、二作目だね。
私が子どもの頃によく観てたんだよね」
「随分前ですね。でも僕、ギルアがパッケージデザインのゲームが家にあるので、親近感はありますね」
僕は何気なく言うと、なにやら田宮さんがとてつもない顔をしている。なにか癇に障るようなことを喋ったのかと疑問に思っていると、恐るおそる質問訊ねられる。
「それってもしかして、カタカナ表記のやつじゃない?」
「えっ? ああはい。携帯ゲーム機のESでプレイ出来るやつです」
僕がそのように答えると、田宮さんが額を抑えながら
「笹伸、それリメイク作品だよ。
私、そのゲーム元祖の漢字世代だからね」
「あ、そうなんですか? 全然知りませんでした」
なんで昔の地方都市が舞台なんだろうと心に引っ掛かりはしたけど、普通に新作として購入した気がする。
「しかもES……ゲームガールカラフルじゃないの? 嘘っ……でもそうか、笹伸が産まれたのって
「はい」
「それでポチモンシリーズは世紀を跨ぐ少し前から始まって、このギルアが二作目だから——」
「——僕はまだ産まれてないですね」
そうして
世代格差とはこうも人を動揺させるものなのかと、直後のオープニングバトルシーンを眺めながら僕は学ぶ。
「私が子どもの頃に産まれてないんでしょ?
私と笹伸……同い年だからシズもか。そんなに
そこでシズの名前が出てきたことで、当初の予定から話が脱線していることを悟り、僕は田宮さんがその年齢差に落ち込んでいる所申し訳ないけど、内容を改める。
「……田宮さん。そのシズのことに戻しますけど、わざわざ僕に伝えるってことは、良かった、で済むだけじゃ無いですよね?」
「……」
田宮さんはそのことに言い淀みながらも姿勢を正す。暫くして一度、深呼吸を試んでから僕に話し掛ける」
「いずれは中学校に登校出来そうまで言ったよね?」
「はい、そのあとからです」
「うん。それでシズ通えるようになってからの事なんだけど……笹伸、単刀直入に訊くけど、その中学校に行って、シズは大丈夫なのかな?」
「……」
大丈夫、と言う単語に詰め込まれた意味に、僕は幾つか見当が付いていた。
その中学校には、シズの事情を知る同級生は皆無だ。
もしシズと同じ小学校出身の同級生が居るなら、周りに巧く説明も出来て、シズも僕と同じ小学校からの生徒と接しやすかったかもしれない。
けど、残念ながら誰もいないみたいだった。
だから僕以外の生徒からすると、入学以来一度も顔を合わせた事のない、見知らぬ不登校の女生徒と認識されていると思う。
ただでさえ受験が控えて気が立っているこの時期に、そんなシズが生徒に歓迎されるとは、ちょっと想像し難い。
「はっきりに言って、シズがクラスで孤立してしまっても不思議はないと思います。
シズと僕は同じクラスなんですけど、とりわけシズのことが話題に挙がることはないし」
僕は紛れも無い事実を続ける。
「意図的に避けているというんですかね。
だから隅っこにある机椅子に、シズの名前が記されたシールが貼られているだけの存在になっている……のが、現状ですね……」
田宮さんが驚きもせず頷く。こういう反応が返ってくることは、どうやら想定内だったようだ。
「うん……そうなるよね。シズ本人がどうするかに一任するつもりではあるけど、私個人の意見としては、その輪の中にシズを入れるのは、心配かな……」
「……」
田宮さんの
もしかしたらシズの両親から何度か相談を受けた上で、事情を一番把握しやすい僕に質問しているのかもしれない。
そういえばいつだったか、シズの両親と会った時に、何やら僕に聞きたいことがありそうな雰囲気を纏っていたけど、結局はぐらかされたことがあった。それはこのことなのかもと勘繰ってしまう。
仮にそうだとしても、なかなか当該の生徒である僕に、その親が直接聞き出すのは
そこでその仲介を田宮さんが買って出ているとしてもおかしくなく、寧ろ前向きに引き受けている様子の情景が浮かんでくる。
その真偽は不明だけど、僕の知る田宮さんは、とてもお人好しで患者さんに寄り添い、優しさと厳しさの飴と鞭を持ち合わせる、何より子どもを愛する小児科の看護師さん。
子どもの未来を第一に考える人だ。
「一応、なんですけど」
「んっ? 何?」
だからということではないかもしれない。
けれど、もしシズが中学校に行く事を決めた時に、僕は不安要素ばかりを列挙しているのは、これは僕個人的に好ましくはなかった。
「僕もクラスで認知はされているけど、殆ど一人でいるんですよね」
「ああそうなんだ。でも、学校は勉強をする所だし、笹伸が過ごしやすい環境がちゃんとあるなら、引目に感じることはないよね」
励ましでもあり肯定でもある意見を田宮さんが僕に送ってくれる。
とても嬉しいことだけど、今は僕のことではなくシズの今後について。そちらを優先させなければならない。
「それでシズと少し話したことが前にあって、もしシズがクラスで一人だったとしても、僕も一人だから大丈夫だ……みたいな事を言っていて」
「おー、うん?」
田宮さんが疑問符を浮かべるように、斜め上を仰いで腕を組み、細い眉を
そのまま数秒経ってから
「いやごめん。なんか思った内容と違ったから。私てっきり『僕もいるから大丈夫だ』とか、ドラマでありそうな台詞をシズに言ってあげたのかと思ったら……ふふっ」
「……それどこの美男子ですか? そんなの絶対似合いませんよ、僕には」
僕が自虐的に話してそっぽを向くと、何がそんなに楽しいのか。田宮さんが僕の脇腹を
「ちょっと、くすぐったいです。や、やめて下さい」
「笹伸が珍しく可愛らしいこと言うんだもん。ほんと昔から
田宮さんは、画面の向こうで伝説となった自然を
「別に、可愛らしくはないと思いますけど」
僕は少々不貞腐れながら答えた。
複雑な年頃の影響だと思う。
「ごめんゴメン、でもそうだよね。ねえ笹伸、私は一つ忘れてたことがあったよ」
「なんですか?」
「うん、凄く単純なことだった——」
田宮さんは僕の頭を撫でながら、先程までの神妙さなどなかったかのように、
「——シズには、病院じゃなくてもちゃんと笹伸が居てくれるんだったね」
「……」
「確かにそれなら、中学校の人間関係に置いて、シズは大丈夫だね。だってその子はとても誠実だから……あ、ちょっと誠実過ぎるかもしれないけどね」
それに僕は虚を突かれ、同時に照れくさくもあって言葉が紡げずに、ただただ茫然としていた。
「……私がシズを心配したのはね笹伸。あの子、病院の人達と友好的だったのは笹伸も知ってるでしょ? でも学校だと、とても大人しい子になるんだよね。
私が話を聞いた限りの想像だけど、クラスの同級生だと遠慮しちゃうんだろうね」
それは僕の知らないシズの過去。
「既に学校での関係性が築かれているから、崩さないように壊さないように、そしてシズ本人が邪魔な存在にならないようにってね」
「そう、なんですか」
全てに共感する訳じゃないけど、そうしてしまう理由は分かる気がする。
友人関係とは一人追加されるだけでも、その均衡が崩れてしまうかもしれない、脆い信頼で成り立っている。
それが僕のせいとなると、耐えられない。
「だから多分、シズと対等にいる同い年の子は、笹伸だけなんだろうね。
シズのご両親が、笹伸と同じ中学校に進学させたのは、そういう理由もあると思うよ」
「……その僕、自分自身がとても頼りにならない自信しかないのであれですけど——」
正直、シズが僕と同じ中学校に進学したことが、こうして弊害を生んでいると考えていた。そしてそれは厳然としてあるだろう。
けれどシズのその決断を、僕の部屋で高らかと宣言したシズを裏切りたくはなかった。
「——シズがそこに居てくれると、僕は根拠は無いけど嬉しいです。だって何をしてくるか分からなくて、退屈しないんです。初めて逢ったときからずっと……」
「……そっか。うん、私の勘は間違ってなかったみたいだね」
田宮さんは年の差を感じさせない、無邪気な表情で僕を捉えている。
「……」
田宮さんと同じく大人になってこんな立ち振る舞いが出来るとは、未来の僕には到底無理だろうと、苦笑するしかなかった。
画面では四つ巴の飛空戦が繰り広げている。物語の一つ目の山場みたいだ。
「んんっ? なんかめちゃくちゃカッコイイシーンが流れてるー」
「本当だっ」
「なんか絵が古い?」
「コイツ知ってるわー。強いヤツ」
「ギルアって言うんだぜ」
それに惹き寄せられたのか否か、小児科の患者さんと思わしき子どもたちが徐々に集結して来る。田宮さんも気が付いたようだ。
「あ、ごめん笹伸、話の途中だけど——」
「——いえ、僕ももう帰りますから」
僕と田宮さんだけで観ていたポチモン映画に、既に子どもたちが声援を送っている。
そこに僕が居座るのは邪魔になるだろう。
無理矢理始まった上映会だけど、最後まで観れないことを惜しむくらいには、この映画に僕は興味を持っているみたいだ。
田宮さんは、やんちゃを働く子どもを一人捕まえながら、僕に喚起する。
「ごめんね、気をつけて帰ってね。くれぐれも事故には遭わないように」
「はい、一度思い知らされてるので」
僕も自虐を話せるくらいには立ち直ってきたなと切に思う。田宮さんは頷くと、もう一言添える。
「今日はありがとね。シズのこと、笹伸と話せて良かったよ」
「はい……僕もです」
そうして田宮さんはその子の対応の為に僕の隣から離れて、本来の持ち場に戻る。
僕はいつもの出口へと向かい、その最中にバッグから濃紺色の折り畳み傘を手繰り、それが
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