エピソード9
ゴールデンウィーク中も委員会の仕事はあり、
生徒会長からはお叱りを受けるし、橘には会えないし、連絡は来ないし。
まさに踏んだり蹴ったりだった。
そして今日はようやく訪れた休みの日。
ひとり自室で電話を掛けようか思案する。
「なんて誘えばいいのやら。こんなにひとを好きになったことなんてないからな。緊張する」
少し小さく独り言を言ってみる。
ええいままよ、と橘と書かれた部分を選んでみた。
<ツッツ――ッ! ツッツ――ッ!>
『えっち』
「はあ!? 何でだよ?」
『この声、録音してオカズにするんでしょ?』
「するかッ! 声が聴きたいっていうのはその瞬間のことだ」
『そっかそっか。それでなに?』
迷うことはない。素直に誘えばいいんだ。
「今日ふたりで出掛けないか?」
『今日ッ!? き、今日はちょっと……っ』
「用事か?」
『うんまあ……先客です』
にゃんにゃんさんは一人旅だと言っていたのに、先客?
その時俺は気づいた。とんだ勘違いをしていたことに。
橘が言った『蟻地獄』。俺はてっきり橘が蟻だとばかり思っていたが、本当は逆で、アリジゴクが橘で蟻が世の男たちなんじゃなかろうか。
男の子にだけ見える身体と言っていたから辻褄は合う。
あんな美貌の橘だ。そりゃあ遊んでいるに違いない。
くそっ……。
「その、先客さんとは親しいのか?」
『まあ親しい、かな』
「だ、だれとか、聞いても?」
『言いたくない』
黒だ。相手は確実に男だ。
「そ、そーか、そーだよな。いいんだ、気にしないでくれ」
『ごめんね、また誘って、それじゃ』
何故か急き気味に電話は切られた。
もしかしたらベッドイン寸前で、隣に男が座って待っていたのかもしれない。
そんな橘の姿を想像して死にたくなった。
<――コンコンッ!>
絶望の中で響くノック音。
「お兄ちゃん、ちょっといい?」
黒髪ショートの馬鹿な妹がやってきた。いつも通り、ピンクのキャミソールにピンクの短パンというだらしない恰好で腹をかいている。
胸の成長は停止中で、橘とは雲泥の差である。
「なんだ?」
「なに? ご機嫌ななめ?」
無駄に鋭い妹が聞いてくる。
「いいや、普段通りだ。問題ない。何のようだ?」
「スタバで飲み物買ってきてほしいんだけど」
「自分で行け」
「今ちょっとネトゲ中で手が離せないから」
この妹、俺とは真逆でこういう世俗には飲まれまくっている。
「しょうがない。何がいいんだ?」
「苺クリームフェラペチーノ」
「え?」
今変な単語が混ざっていなかったか?
「ふふーん。一応知ってんだね」
「うるさい! 買って来ないぞ?」
「んじゃコレお金ね。間違えないでよ、苺フラぺね?」
「わかった」
代金を手のひらに載せられて俺は出掛けることになった。橘とは出掛けられないというのに。
ネトゲ、ネトゲ、と連呼しながら猛ダッシュで自室に戻っていく妹を、殴ってやりたくなった。
家から一番近いスタバは駅前にしかなく、徒歩十五分、苺フラぺのためだけに歩く。
ただのお遣いってのも
店内はゴールデンウィークとあって混雑していた。
列に並びながら空き席を目で
店員に注文した抹茶フラぺを手に持ってその席に腰を下ろした。
ポケットから携帯を取り出して橘の名前を眺めていると、抹茶はいつも以上に苦く感じられた。
そんな時――。
なにやら後ろの方でザワついていることに気がついた。
気になって後ろを振り返ると、
「――――ッ!」
偉い美人がそこにいた。
一切ブレのないストレートの艶黒ロングヘア。切れ長の瞳にはクールさが感じられ、ドレスのような黒のロングワンピースが令嬢のような気品を漂わせていた。
そのひとりで座ってホット用カップを遊ばせる彼女に多くの視線が集まっている。
美しいから、というのもあるだろう。当然それはある。
だが、おそらく皆が見ている理由は別の要素だ。
四人掛けの円卓にひとりで座る彼女の傍らのボストンバッグ。
その中から取り出される本の数々は円卓の上にご丁寧に積み上げられていく。
――なんと……その全てがピンク本なのだ!
俺は詳しく知らないが、エロ漫画という類なのだろうか。
表紙絵には猫族のような美少女が裸で足を開くという破廉恥極まりないものが採用されている。
ブックカバーも付けずに読み進めるとは……猛者だな。
「あ、いた。もうお姉ちゃん!」
――――ッ!!
その声の方を見て二度目の驚きを体験する。
声の主が橘だったからだ。茶の長袖ニットと紺のロングスカートという清楚なものを身に纏っていた。
以前デパートの書店コーナーで会った時といい、普段の橘は清楚スタイルなのだろうか。
いや、一番最初に出掛けたランジェリー事件では短パンを穿いていたな。
姉しか見ていない橘は俺のことに気づいていない。
姉の隣に橘が座った。
偉い美人がふたりになった。
とすると、あのひとが伝説の天才元生徒会長。
本屋で恥ずかしがる橘の代わりに俺が買ってあげたR15の本が懐かしい。
「こんなの並べないでよ、みっともない」
「あらどうして? 何を見て飲もうが勝手じゃない」
「みんな見てるから」
その言葉に周りを見渡す元会長。
周りの客がスッと違う方を見る。
「見てないじゃない」
「お姉ちゃん、やめてよぉ」
普段強気な橘とは全然違う。ああいうものに抵抗があるのか弱々だ。
お仕置き部屋ではあれほど誘ってくるというのに。
「ねえ、これとこれ、次はどっちを読もうかしら?」
妹に見せながら尋ねる姉。
片方はパパ活女子のような表紙、もう片方は……椅子に拘束のような表紙。
「ど、どうだっていい」
「つれないわね。あなたの願望はどっち?」
少しだけ拘束モノの方に目を向けて橘が言う。
「し、知らない!」
その時だった――。
少し調子に乗って眺めていた俺と元会長の目があった。
急いで視線を窓の外に戻した。
そして地獄の始まりが訪れる。
「どうも」
「はひっ!?」
隣を見ると、俺の肩をポンと叩く元会長の姿。凛と立つそのお姿に、声が裏返る。
「ずっとこっちを見ているわ、と妹に聞いてみたら知り合いだと聞いたもので。いつも妹がお世話になっているわね」
急いで橘の方を見てみると、両手を合わせて御免の仕草をさせる橘がいた。
「こ、こちらこそ、お、お世話になっておりますぅ」
「あら、まだ半分も残っているわね。ご一緒いただけないかしら?」
抹茶フラぺを全部飲み切っておけば、と後悔しても遅かった。
渋々頭を下げて偉い美人たちに合流する。
姉と妹に挟まれる位置に俺が腰掛けると、飛んでくる男たちの視線。異様に怖かった。
「ふたりは恋人同士なの?」
「ち、違うから! 委員長はそんなんじゃ……」
そこを否定されて悲しくなる俺。
その俺をじっと観察してくる姉。
「まあ、そういうことにしておきましょう。ところで、今風紀委員長をしているのよね?」
「はい」
「学園の風紀はどう? 乱れてないかしら?」
ちらっと橘の方を向いてみると、
「あぁ、この子は許可されているでしょう? 私がそうさせたから」
「そんな権限が何故?」
「それはあの理事長が実績の亡者だからよ」
「ちょっと意味が……」
「私の大学受験の際、学校側は頂点ばかりを狙うように頼んできたの。頂点といえばつまり、医学部よ。だけれど、私は薬にしか興味がなかった。だから東大理一しか受けませんと言ったら、受験料を払うからと言って私立の医学部を受けさせられたのよ」
「け、結果は……?」
「全合格よ。無駄な話よ、行きもしないのだから。それから数年後、妹が同じ高校に入学する際に言ってやったのよ。もし妹を
確かにうちの学校から東大や医学部などへの進学実績は皆無だ。規律にはうるさいが偏差値は知れている。
だが、それなら規律にうるさくない別の高校へ行けばいいのでは。
「そんなことしなくても別の高校行くって言ったのにぃ」
「ダメよ。あなたは私の世界で一番大切な宝物。私と同じ制服を着て、同じところを卒業して欲しいの」
「そういうこと、ですか」
俺が納得すると、橘は下を向いた。
姉の我儘がこれほど妹を苦しめているとは。
ただ、悪い姉ではないことも事実だ。どうしたものか。
「その様子だと、あなた妹を更生しようと?」
「最初はそうでしたが、今は思ってません」
「それはよかった。妹の過去がこうさせているのだから」
「そ、その過去! 教えてもらえませんか!」
立ち上がって尋ねると、力強く俺の袖を引っ張り、睨みつけてくる橘。
その橘にちらりと視線を向けた元会長が言う。
「妹の口からちゃんと聞きなさい。言ってくれないのなら、言ってくれるようになるまで信頼されなさい」
「……はい」
そう言って俺は腰を下ろした。その時見た橘はずっと下を向いていた。
「ところであなた、どっちがいいかしら?」
「ええっ!?」
橘に提示された選択肢が、今度は俺に飛んできた。
二冊の本、拘束モノがそそる。
「い、いやあ、わ、私はこういうのはちょっと」
「そういう風には見えないけれど?」
顔を近づけられて汗が流れる。
「お姉ちゃん! もうやめてってば」
「ふふ。ちょっとお手洗いに」
そう笑顔で言って歩いていった元会長。
ふたりになってすぐにヒートアップする。
「委員長! 何さっきの! おねえ――姉にわたしの過去聞いたりなんかして!」
「助けてやりたいんだ!」
「放っといてって言ったでしょ! それに姉の前だとしおらしいじゃん!」
「仕方ないだろ! 怖いんだから!」
「どうだか……っ。わたしよりおねえ――姉の方がいいんでしょ?」
「違う……っ。ってその姉っていうのやめないか?」
それにもワケがあるのか、嫌な顔をする橘。
だが、何かを決めたような瞳を向けて、
「じ、じゃあそうする! お姉ちゃんの方が気に入ったんだよね?」
「バカ言うな! 俺は橘の方がいい!」
少しヒートアップし過ぎて周りの視線に気づけなかった。俺たちはともに赤い顔をして下を向く。
「夫婦喧嘩は終わったのかしら?」
「お姉ちゃん!? お手洗いは?」
「あら? 私はするとは一言も言ってないわ。お手洗いに、と言っただけよ。おかげでよく観察できたわ」
「ずっと見てたの!?」
「ええ。あなたの嫉妬姿、愛らしかったわぁ」
「――――ッ!!」
真っ赤っかになりながら両手で顔を隠す橘。
「そ、そろそろ帰ります。妹が待ってるんで」
「あらそう。残念だわ。妹さんはどこで?」
「家です。飲み物を頼まれただけなので。苺のフェラペチーノを」
「「………………………………」」
あああああああああ! 言い間違えたぁぁぁあああああ! バカ妹のせいだぁぁぁぁああああああ!
目を丸くした美人がふたり俺を見る。
「あなた……」
「はひっ、なんでしょう?」
「いいセンスしているわね。気に入ったわ」
「ええぇっ!?!?」
驚いた俺に、元会長は立ちあがって律儀に頭を下げた。
「この子のこと、どうかよろしくお願いします」
「お、お姉ちゃん!? 何言ってんの!」
「こちらこそ」
「委員長っ!?!?」
頭を下げる俺と元会長の間で、あたふたするにゃんにゃんさんでした。
あまりの出来事に動揺した俺は苺フラぺを買うことなく、玄関を開けてからそのことに気づき「あほんだらぁぁあああ」とバカな妹に罵られたことは内緒の話。
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