第46話 いっぱい引っ掛ける

「今日は何帰りなの?」

トイレから出てきたママが、席に戻る際、声を掛けて来た。この前と変わらず、美しい笑顔。それに引き換え自分の出立ちは、と彼女の目を直視できない。

「えっと、あの、ランニング帰りです…。まさかこんな日に会うなんて思ってなくて、何かすみません…。」

完全なる挙動不審者である。ところが彼女は、

「そうなんだ、スラッとしてるもんね。でもちゃんと筋肉付いてて、『アスリート』って感じ。」

と歯牙にも掛けない様子で話を続ける。身体を褒められたことに、照れと謙遜が入り混じった複雑な笑顔を浮かべていると、

「と言うかスッピンだよね?スッピンでも可愛い。」

彼女が私のキャップのツバを指で持ち上げ、顔を覗き込んできた。時間が早いせいか、店が明るいせいか、以前のような情念湧き上がる視線ではなく、まるで偶然遭遇した友人に向けるかのような、澄んだ瞳が印象に残った。

「いやいや、何を…。」

思わずキャップを深く被り直す。昼モードの瞳でも、私を惑わせるのには十分だった。流石にここではマズイ。


毎日、あの夜のことを思い出しては切なくなった数日間を経て待望の再会を迎えたにも関わらず、自分の中で全くエンジンが掛からなかった。シラフだからだろうか、マスターや常連客がいるせいか、それとも会えた喜びと期待が空回りしたのか。彼女の中で好感度が上がるような言葉が出て来る気配を感じない。何も言えずにキョロキョロしていると、私の不完全燃焼な空気が伝播したのか、あ、じゃあまたね、とママがテーブル席に戻った。


自分の手元に視線を移し、一体何をしているんだ、とビールを煽る。視界の右端で男性客と笑い合う彼女の姿を捉えながら、不甲斐なさと未練を肴に、一杯引っ掛けるどころか「いっぱい」引っ掛けることになった夜だった。



なお、

「あの日、リアクション薄かったよね。何かマズイこと言ったかな、あまり絡まない方が良いのかなって思ったよ。」

仕方ない子ね、としょぼくれる私の肩をママが小突くのは、また後日の話である。

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