第54話 蕾

 奮い立たせた勢いだけで一歩ずつ進んでいた。だから何回も奮い立つ必要があった。倒れ込みたい誘惑に負けそうだった。そのたびに気つけの強化バフをかけた。


 葉の陰が地面に落ち始めている。森の中だから外の様子はわからないけれど、夜は明けたと見ていいようだ。


 視界がぼやける反面、聴覚が鋭くなっていたから、水がせせらぐ音にはすぐ気付いた。


 それでさっきまで絞りだしていた元気が湧いてくるんだから、人間の生存本能とは現金なものである。


 早足になって根を跨いでいって、すぐに湧き水が見えた。


 ここに来たのはいつぶりか。


 魔力薔薇アイソローゼズは相も変わらず群生して揺らいでいた。湧き水の小川と合わせて森の最深部を飾り立てているようですらあった。


 透明な清水を見て、飛びつきそうになった。何もかもを放り出して駆け寄って、顔を付けて思いきり喉に水を流し込みたくなった。


 だけど背負った彼女の重みが、俺の浅ましさを諫めてくれた。


 溢れる唾液を呑み込む。できるだけ柔らかい地面──魔力薔薇アイソローゼズの上を選んで、彼女を下ろした。



 呼吸は変わらず荒い。体温は上がり続けているように思う。早く水を飲ませないといけない。


 どうしたものか。


 意識のない人に水を飲ませると気管に入りそうだ。なんとか無意識に飲んでもらえるようにしないと。


 容器のようなものがあればいいけど、そんなものはない。

 周りを見渡せど、即席のコップを作れる大きな葉があるわけでもない。


 だからまあ、手段は誰でも思いつきそうなアレくらいしかないわけだけど。


「……ごめん。本当に」


 むしろそんなことを気にする余裕があるということで、自嘲気味に笑う。


 彼女に意識がないのなら、わざわざ言わなければいい話である。背に腹は代えられない。





 馬鹿みたいに水を飲んだ。顔を洗いながらだった。

 思ったよりもぼうっとしていたことを自覚した。さっきまでの足取りが半分倒れ込むような感じだったことにようやく気付いた。


 俺も相当危なかったらしい。


 もう丸一日以上、動きっぱなしだったわけである。時間感覚がないからそれすらも微妙だ。二日かもしれない。



 ようやく少し落ち着ける。



 ちょっと飲みすぎたくらいに水は飲んだ。後ろで寝ているハイデマリーの方を振り返った。

 やはり足りていなかったのは水分だったようで、水を十分に飲んだ彼女は薔薇の上で、さっきよりは落ち着いた呼吸で眠っていた。


 夢中になって介抱していたときから落ち着いたお陰で、彼女の顔が血と吐瀉物で汚れていることに気付いた。


 ──気持ちよくは、ないよな。


 俺の服も汚れているけど、水に浸してちょっと洗えば手拭いくらいにはなる。


 せめて顔だけでもと、拭ってみる。

 思ったより汚れていたみたいで、拭ったあとが見えるくらいだった。申し訳なくなって、できるだけ綺麗にするようにした。


 拭った肌が木漏れ日で照らされて、その綺麗さに驚いた。


 彼女は別人のようだった。

 いつも忙しなく表情を動かすから、穏やかに力を抜いたときの顔が、こんなふうだと知らなかった。

 頬から顎にかけて、顎から首にかけての線が流れるようだった。


 目を逸らした。


 笑った。


 あと、たぶん、二日か三日。

 そこまで耐えれば、俺の勝ちだ。


 短いという意味じゃない。二日か三日という長さは、水を飲んで落ち着いて考えたとき、あまりに途方がなかった。


 無理にでも立ち上がる。森の地面の柔らかさが殊更に際立って見えてしまった。


 今すぐにここに倒れ込みたかった。


 水が低いところに流れるように、勝手に理屈立てが始まる。

 まだ一日くらいは見つからないかもしれないから、少しでも寝た方がいいんじゃないだろうか。今から策を弄して体力を使うよりも、寝て体力と魔力を回復させて戦った方が勝算があるような。


 でも、ダメそうだな、それは。起きれない。今眠るとそれはほとんど昏倒に近い。


 寝過ごしてハイデマリーを奪われるなんてお笑い草だ。



 目を開けながら休まないといけないわけだ。下手をするとそれを繰り返す。



 これもあんまり現実的じゃない。


 体力の問題と並んで、魔力の問題が大きい。


 森に防衛線を張るならきっと罠が必須になるけど、森の地盤は固いし木を切るにも相当の膂力がいるわけで、身体能力の付与は必須になる。


 体力が残ってないし、回復はできないし、それらを補う魔力も使い尽くす寸前。


 詰んでいる。



「こういうとき、君ならどうするのかな」



 ハイデマリーを見下ろした。


 もしも立場が逆なら、彼女はすっくと立ちあがって、無尽蔵の体力で何もかもを解決してくれる気がした。


 ……いや、守ってもらうだけの価値が、俺にあるわけもないか。


 本当に、どうしよう。何の策もない。

 負ぶって森の中を逃げ回るか。最低限の強化バフを駆使すれば、なんとかできないだろうか。最後には馬を奪って馬力の強化バフで逃げる感じで。


 あ、ダメだ。奪った馬が承認宣言を受け入れてくれるかわからない。

 というか馬力の強化を使えるほど魔力が残っている気がしない。


 本当に詰んでいる、ような。



 そのとき、カサカサと足元から音が聞こえた。



 魔力薔薇アイソローゼズが揺れていた。


 トカゲかネズミが通ったのかと思ったけど、違う。自ら揺れている。


 いや……これは、丈が伸びている?


 よく見ればハイデマリーの周りの魔力薔薇アイソローゼズは、


 賢者の魔力に反応しているということなのか。


 これはどうなんだろうか。ハイデマリーの魔力を吸っているということなら、彼女の体調面にはあまりよくないことな気がするけど。


 この薔薇はやはり特殊な植物なのだ。


 謎に包まれた魔力薔薇アイソローゼズの成長過程だけど、こうして賢者の魔力を吸おうとしていることは、空気や地面の僅かな魔力を吸収して溜め込んでいるということになりそうだが──


「……ん?」


 思いついた。


 思いついてしまった。


 腰の高さまで伸びた薔薇の蕾を、千切った。

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