第52話 最後の一滴
やった!
やった! やった! やった!
やりきった。成功するなんて思っていなかった。可能性を区切って区切って、あまりにも限定された条件下でようやく実現可能だった妄想だ。
それが、できた。
存在すら怪しかった光明を、掴み取ったのだ。
あとはこの光明を離さないようにしないと。
ごうごうと耳元で風が鳴る速度の中、お手玉をするみたいに両手を組み替え続けて、なんとか発煙筒を投げる。
これで屋敷に奪還の報告が伝わるはず。
今さっき出し抜いた盗賊団たちがそのまま追手になる。後ろから追ってきているに決まっている。
馬力の
俺の方も相当きてる。ほんのわずかな攻防だったけど、素人なんだから全部出し尽くしてしまったくらいにはボロボロだった。
全身が異常なくらい痛くて熱い。
さっきの
前腕の感覚がほぼない。今、馬に掴まっていられるのは
痛みの他にも猛烈な虚脱感がある。眠気にも近いかもしれない。感じたことがない類の疲労だ。
これはきっと、魔力が減っているという感覚だと思う。
疲労感だけならいい。どのくらい減っているか、あとどのくらい魔術が使えるかが問題だ。
感覚としての魔力がどういうものかがわからない。体力みたく不可視だけど、根性次第であと一絞り、ということが可能なのか。それとも水みたいにないものはないでかっちり消費されてしまうものなのか。
そもそも集中力だって危うい。
馬がこけないように猛烈な速さの中で手綱を繰って、落ちないように掴まって、抱えているハイデマリーを落とさないようにしないといけない。
どこまでもつかわからない。今すぐに何か失敗して、落馬してもおかしくない。
そうなったらすべて終わりだ。
「『
意識がはっきりする。血が巡って、口の中の切り傷からピッと血が噴く。
ここから先、どうするか。
もちろん屋敷に戻る。体勢を立て直して、もう一度防衛戦線を張る。
それが有効な手段かもわからない。
一度簡単に陥落した屋敷で、しかも今度は護衛の人も殺されてしまっている状態でどこまでハイデマリーを守れるか。
それでも他に選択肢がない。賢者の依り代が何か策を講じてくれているか、増援を呼んでくれていることに懸ける。
だから今は耐えろ。落馬するな。
鐙を挟む股関節が痛い。太ももの内部が吊りそう。
抱えるハイデマリーの重さがいい加減辛くなってくる。腕の疲れ具合と耐えるべき時間に鑑みれば、絶望感すら湧いてくる。
だけど、彼女の顔をちらりと横目で見る。生きている体温を感じる。
「『
気つけをする。数分ならまだやれる気がする。
数分乗り切れば、また次の数分を死ぬ気で乗り切る。
長距離走みたいな逃げ方は諦めた。ここからはなんどもなんども短距離を走る。気が緩みそうになるたび気つけする。
疲れと震えが手足の末端から中心にまで広がっている。右手と左手を意識するだけで、意識できない頭がぼーっとしてしまう。
「『
そうしてまた、気つけをした。
*
何度も気つけを繰り返して、落馬だけはしないようにして、それでも落馬しかかって、耐え続けた。
ようやくだ。
遠くの景色しか見えない速度の中で、ようやく、屋敷が見えた。
泣きそうになった。
背後を振り返っても、盗賊団が追い付いているようには見えない。遥か後方なんだろう。
よかった。これで、本当にあと少しで、ハイデマリーを送り届けることができる。そこから先は賢者様に任せればいい。
気を抜いてしまって、最後に落馬なんてことにならないように細心の注意を払う。ここさえ凌げれば、一旦はすべて終わるという安心感が芽生えていた。
屋敷を注視する。目標が見えれば必要な元気が湧いてくる。
本当に、あと一歩。最後の一滴を出し切れば。
「……え?」
屋敷の方角には火の手が上がっていた。
違う。これは狼煙だ。
煙が三本。意味は──
「──“来るべからず”」
意味するところは一つ。
最悪だ。
屋敷はすでに、戦闘状態に入っていた。
まだ保っているか、既に壊滅しているかはわからない。少なくとも屋敷は逃げ込める場所ではないということだ。
俺は今、完全に孤立したのだ。
“孤立”という言葉が浮かんで、選択肢が消えた。
速度を緩めて、周りの景色が目に入り始めた。
火の手があちこちで上がっていた。
聞こえるのは、声だ。たくさんの人の声。
合戦の声。
見れば、見慣れた田園風景の中のそこかしこで戦いが始まっていた。
なんだこれは。
どうしてこういうことになる?
これが賢者の卵の争奪戦ってことなのか?
「……どこに行けってんだ」
左右を見回しても敵だらけ。
のんびりと歩いている暇はない。あの戦いの目的は俺が今抱えているハイデマリー。怪しまれて、彼女が彼女であると看破されれば一気に俺が渦中のど真ん中に据えられてしまう。
馬で逃げ続けるか? もう無理だ。馬力の
大きく息をしていた。ハイデマリーを腕全体で抱えて、鐙に掴まって、それで精一杯。もう地面に倒れ込んでしまいたい。
何も残っていない。
「『
もう一度息を吐く。吸う。
「『
血が回った気がする。頭の内部に圧力がかかって、ドクンとした一瞬だけ景色の彩度が上がる。
馬も俺自身ももうもたない。
助けが要る。人とは言わない。というか人は無理。場所だ。場所がいい。少しでも有利な、隠れられる、地の利がある場所が。
──そうだ、森だ。
昔、一緒に冒険した、南の森。
「ごめん。本当に。『
命を使い捨てるかのように、馬を駆る。
仄かな光が足元から見えたのと同時に、今までと比にならない虚脱感が襲ってくる。俺の魔力もほとんど限界だった。
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