第30話 思わずにはいられない

 脱兎のごとく駆け出した彼女の背中が、妙に印象的だった。


 逃げるかのようなのは、悪巧みのときと同じ走り方だから。ちょっと悪いことをするときほど楽しいから、足取りは自然と浮ついた感じになる。


 そこまでわかっても違和感を拭えないのは、まるで彼女がそう見せているかのように見えてしまったから。


 彼女が、ハイデマリーが、ここにきて何か演技じみたことをするのが、ひどく不可解に映ったのだ。


 胸がざわつく。


 それだけに、広場で彼女が座って待っていたのを見て、肩の力が緩んだ。


 日はもうほとんど落ちかけて、夕暮れ時になっていた。

 フィールブロンの象徴である時計塔が建物から建物に橋を渡すほどの大きな影を落としている。


 広場に佇む彼女は絵になった。まるで用意された素材モチーフみたいに目立っていて、俺が話しかけるには躊躇われるくらいだった。


 ……まぁ、それとは別に、とても情けない理由で話しかけられなかったのだけれど。


「ヴィムさぁ……」


 成果、なし。


 一片たりとも食料を集められなかった。


「何ももらえなかったのかい?」


「……気付いてもらえませんでした」


「話しかける、くらいのことはしたの」


「……聞こえなかったみたいです」


 言い訳を聞きながら腹を抱えて笑いがこらえきれない彼女を見ていると、心配など杞憂だったのかと思う。


「まあいいや、ほら、食えよ。私はいらないから」


「あっ……え?」


 彼女は懐に浅く入れてあった何本もの串を取り出して、押し付けるように渡してきて、そのうちの一本を俺の口に突っ込んだ。


「ほら、もぐもぐしろ」


「んぐっ……」


 喉に詰まりそうになりながら、なんとか呑み込む。


「美味しいかね」


「えっ、俺は美味しいけど……その、食べない……の?」


「食欲がないから。早く食べてくれ」


 おかしい。


 やはり当たっていたのかと思う。


 ハイデマリーの様子は変だった。

 有無を言わせない横暴な感じがいつものそれと違った。


 彼女は人と話すとき、俺と違って絶対に目を逸らすことなんてしない。むしろ俺が目を逸らすと追いかけるかのように真っ直ぐ俺を見抜いてくるはずなのだ。


 心がここになかった。

 ただただ俺が食べ終わるのを横目でチラチラと見ながら待っていて、関心事がずっと向こう側にあるかのようだった。


 そうして彼女は、すっくと立った。


「──やっぱりダメだ。早く迷宮ラビリンスに行くぞ。急がないと。もう時間がないから歩きながら食べてくれ」


 俺の方を振り向かず歩きだす。


 その足取りすら普通じゃない。熱に浮かされたみたいに早足で、定まっていなかった。


「ねえ、ハイデマリー、どうしたの?」


 返答がない。

 押し付けられた串を放り出して、彼女を追いかけた。


「どうしたの!」


 焦って大声を出した。それでようやく振り向いてくれた。


「どうしたって、何が」


「そのっ、フラフラしてるって。食べなくても、休んだ方が……」


「そんな暇ないだろ。行くぞ」


「ねえ! ちょっと!」


 俺に構わず、彼女は不安定な足取りでずいずい進んでいく。

 走ってはいないから追いつけないほどじゃない。小走りにすればついていける。


 だけど、置いていかれると思った。


 夕闇の向こう側のような、どこかに行ってしまう気がした。


 気付けば、彼女の手を取っていた。


「……何」


 何って、それは。


「ちょっと様子が、おかしかったから」


 しどろもどろになりながらなんとか引き留めようとする。


 何故引き留めようとしているんだ、俺は。


 体調だとか常識だとかじゃなくて、猛烈に止めなければならない危機感を覚えていた。


「おかしい? 私が?」


「そうじゃなくて、様子が。変っていうか。疲れてるっていうか──」


 できるだけ長く喋ろうとした矢先。


 彼女はまるで俺の言葉の何かに引っかかったみたいに、語気を強めた。



「──今、私を変って言ったか?」



 強い意志を帯びた双眼は、怒気を孕んでいた。


「ヴィム、君までそういうことを言うの?」


「ちがっ……そうじゃなくて」


「やっぱりずっとそう思ってたんだ。そうだよね。言ってみろよ。私のどこが変なんだよ」


「ごめん、そうじゃなくて、その」


「謝るなよ。それが本心なんだろ。早く教えてくれよ。私にはわかんないんだよ。私は普通にしているだけなんだよ」


 怒らせてしまったことを理解して、体がぎゅっと縮まる感じがした。


 久しくそうなっていなかったけど、この旅に出る前にはしょっちゅうなっていた気分が蘇った。

 考えが止まって、謝るだけになって、すべてが過ぎ去るのを待つだけの気分に入りかけた。


 こうなったら俺はもう謝るか黙るかしかできない。


 そうやって切り抜けてきた。


 顔を伺おうとした。


 ここまで来て、フィールブロンにまできて、それも初めてできたかもしれない友達相手にそんなことをするなんて、情けないやら悲しいやらで、だけどどうしようもないから。


 けれど、そこで止まった。



「……教えてくれって、言ってるだろうが」



 剣幕というべき彼女の表情は、俺を責めるときでさえも、グラグラとした足元の不安定さに怯えているようだった。


 彼女が怯えているとわかったら押し寄せるような恐怖が霧散し、急速に縮まった視界が解かれた。余裕ができた。


 引き留めたことは間違いではないと確信する。中立になればいくらか考えることもできる気がする。


 会話をしようと思って材料を探した。

 自分から話を振りにいくなんてやったことがないから、どうにか手持ちの中で、彼女に関して何か考えたことを投げられないかと必死で考えのまとまりを探した。


 それは案外浅いところにあった。前からずっと疑問に思っていたことで、言葉にするには漠然としすぎていたけど、今聞くべきこととして外れているわけではなさそうだった。



「なんで、そんなに焦っているの?」



 口から素直に出たのは、そんな言葉だった。

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