第29話 空腹

 おかしい、おかしい。


 列なり馬車を降りて体は楽になったのに、私の体じゃないみたい。


 めくるめくフィールブロンの景色に胸が高鳴って心臓が早鐘を打っているはずなのだ。


 私は喜びに浮かれている。生まれて初めて手に入れた自由が楽しくて、嬉しいに違いない。


 だけどそう言い切れないのだ。楽しいかと自問すれば、完全に首を縦に振ることができないのだ。


 なんだこの違和感は。浮かれているんじゃなくて浮かされているみたいで、なのに私はそれを拒めない。歓迎すらしている。


 頭痛がする。


『વધુ આવો』


 耳鳴りがする。


「ハイデマリー……その、ご飯、どうする?」


 隣に人がいなければ、どうにかなってしまいそうな予感さえあった。


 そうだ、飯だ。迷宮ラビリンス飯。なにはともあれすっかり食事の時間が空いた。腹に何か入れないと。


 ヴィムは説明する代わりにちらりと屋台を見回していた。


 私は


 いつもの通りになる。ちゃんと自分の頭で考える。


「確かに、高いねぇ。こりゃ」


 やはり物価があまりにも高い。街の入り口と実はそう値段は変わらなかった。


 そこそこ良心的だったのか、あれでも。


 よく考えればそりゃそうだ、金も魔石もざっくざく出る迷宮ラビリンスの街に外から通貨を持ち込んだところで価値があるはずもない。


 ざっくり見積もるだけでも、一日三食なんてとても食べられない。


「飯、なくていいかもな」


「……へ?」


 ヴィムが素っ頓狂な声を上げた。


「その……大丈夫?」


「てめえ私をなんだと思ってんだ」


「いやその……いっつも食料を要求しているから、腹ペコな印象が」


「別に普通だぜ私は……しっかし、どうするかな、飯」


 私たちの会話とか目線が物欲しそうに見えたのだろうか、近くから声がかかった。


「そこの姉弟! ちょっと食べてかないかい!?」


 恰幅の良い屋台の店主が私たちに声をかけて、視線を捕まえるや否や手招きしてきた。


 のこのこと行ってみると、台の上に置かれていたのは不思議なくらい巨大な肉塊。


 たぷんと自重で潰れている感じからして、骨がない肉の塊のはずなのだが、となるとこの肉が骨の片側についていることの説明がつかない。


 こんな樽みたいに大きい筋肉が動かすべき何かがある、ということなのだ。


 信じられない。


 よく見れば肉塊は僅かに脈打っていた。端の断面から血が滴っていた。


 店主は堂に入った仕草で細長の刃物を取り出し、得意げに二回シュッ、シュッと指揮棒を振るように肉に沿わせる。


 屋台の奥には見えるようにくゆった焼き網グリルが置いてあった。


 流れるように削がれた二枚の肉がさっと炙られて、赤いソースが塗られる。瞬く間に三角の紙に包まれて、店主はそれをぽんと私に差し出した。


「ちゃんと弟くんと二人でな!」


 言われるまでもねえ。ってか、おい、私が一人占めするようなふうに見えてんのか。


 左手でヴィムに肉を渡しつつ自分の分をまじまじと見る。


 豚でも鶏でもない。魚にしては身が張りすぎている。というか今、ちょっとピクッとなった?


 食欲よりも好奇心が勝って、一口で一気に頬張ってみた。


 ……むう、変な味。腐っているのとはまた別の酸味を感じる。


 ヴィムの方は気に入ったらしい。無言でもっちゃもっちゃしている。


「よろしくな! 二人とも!」


 概ねこの食べ物を気に入ったらしい私たちを見て、店主はニコニコとしていた。


 慈善活動の笑顔ほど微笑ましくない気がした。


 ははぁ。


「おいヴィム、これは行けるぞ」


「はい?」


 小声で肩を組んで顔を近づける。


「私たちは撒き餌なんだよ。子供にちょっとだけ試食させて、親にせがませるって店側の戦略だ」


「……なるほど」


「よーし! そうと決まればこの市場を回りに回って試食を集めるぞ! あとで広場集合な!」


 これで飯はなんとかなる。


 悪だくみだ。旅に出てからしばらくしていなかった。


 いつもの調子になってきた。これが私の普通なんだ。


 きっとその様子は見せられたから、私はだっとヴィムと反対の方向に走り出した。





「おう嬢ちゃん! 美味しいかい!」


「うん! うまい!」


 手ぶらなふうに見せて、目をキラキラさせていれば声はかかった。


 食べ物は土地の象徴だ。雑多であればあるほど街も雑多だし、知らないものであればあるほど街も知らない。


 唐辛子の形だって違う。全部知らない香り。楽しい。


「તે પીડાદાયક નથી」


 まただよ、また、聞こえる。


 正直さっきもかなり危なかったんだ。一歩歩くたびに足の下に板を差し込まれてちょっと方向を変えられるみたいに、何かに引き寄せられている。


 水が低い方に流れるみたいに断片的で鮮明な記憶が蘇る。


 ──マリーの旦那様はどんな人なんでしょうね。


 これは、お母様か? いいや、ティナ? そうだ、ティナのやつは昔っから色ボケてて、そう、トビアスがホラ混じりの土産話でもしたらすぐに結婚―とか言い出しそうな。


 私には理解しがたいよ。


 違う、お母様だ。

 貴族だもんな、曲がりなりにも結婚はするさ。


 反吐がでる。私はそんなの嫌だ。普通は嫌って思わないらしいけど。


 頭の中が乱れている。まとまりがない。嫌なことばかり思い出す。



 何かの病気? 精神病? 長旅で錯乱した?



 考えてもしょうがない。こんなときは体を動かすんだ。


 動かないと。


 そうだ、迷宮ラビリンスだ。



 迷宮潜ラビリンス・ダイブ



 冒険者は迷宮ラビリンスに入ることそれ自体を仰々しくこう呼ぶのだ。今なら気持ちがわかる気がする。


 特別なんだ、迷宮ラビリンスは。他の建物だとか山とか海と一緒にしちゃいけない。


 行かなきゃ、迷宮ラビリンスに。ご飯を食べたら、すぐにでも。

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