第62話 迷宮の呼び声

 いつもの通り迷宮潜ラビリンス・ダイブ終わりの食事を終えて、まだ夜が深まる前の健全な時間に自室に帰ってきた。


「あー、楽しかった!」


 明日は休日。

 これから長く働くためにもしっかり休まなければ。

 まあそんなこと言っても普段からちゃんと休みは貰えているし、もう十分すぎるくらいなんだけどね。


 ベッドに倒れ込む前に、傍に置いてあったバケツを手に取る。



 そして、吐いた。



 ここ最近、ずっと吐きそうだった。

 わからない。なんでこんなに吐きそうなのかわからない。


 毎日ずっと幸せだ。

竜の翼ドラハンフルーグ】のときに憧れた人の輪のど真ん中に俺はいる。


 なのに、なんで俺は吐きそうになっている?


 さっきまで一緒にいたみんなの顔を思い出す。

 美味しいお酒とご飯。

 示し合わせたかのような笑顔と友情。


 また吐いた。


 わからない。




 ──吐きそうなのってどういうときだっけ?




「……いやいや、まさか」


 そんなわけない。

 あんなに素晴らしいことなのに。


 この部屋は落ち着かない。

 普通の宿然とした木のタイルと天井で、俺がこんなんだからあんまり豪華絢爛ではないようにしてくれているけど、それでも作りがしっかりしていて風格があるのがわかってしまう。


 どこか違う場所に行きたい。

 でも、ちょっと気を晴らそうにも外には人の目がある。


 そうだ、前はこういうとき、泊まり枝に行ってたじゃないか。


 ……ダメだ。今は繁盛してるんだった。

 毎晩行列ができているらしい。喜ばしいことだ。何も問題はない。



 じゃあ日課だ。

 毎日やっていることを無心でやれば落ち着くはず。



 明かりをつけ、机の上に置いていたノートを開く。


 このノートには全団員の名前と顔のスケッチ、今日話した事が書いてある。

 日記のような機能も兼ねている。


 最近分かったことだが、実は俺は人のことを覚えるのが苦手みたいだった。

 特に迷宮潜ラビリンス・ダイブみたいに他に集中することがあったら、そのあと人の顔が曖昧になる。


 でもまさか、同じパーティーのメンバーに向かって「えっと、すみません、お名前なんでしたっけ」と伺うわけにもいかないだろう。

 軽んじられていると思われるし、そうなったときは実際に軽んじている。



「うん、今日も楽しい一日でした」



 書き終わる。気付けば夜も深い。


 よしよし、妙に頭が興奮していた状態が落ち着いて、ちゃんと疲れてきた。

 少し目を瞑れるはず。明かりを消してベッドに寝転ぶ。

 頭の中で人の名前を反復する。


 カミラさん、ハンスさん、マルクさん、アーベル君、ベティーナさん、よしよし、ちゃんと覚えてる。顔も会話も完璧。


 ローレンツさん、エッケハルトさん、モニカさん、アウレールさん、バルトルトさん、ルーカスさん、ライマーさん、マックスさん、ギルベルトさん……



「નકામું」



 うるさいよ。


 まただ。また聞こえた。

 油断するとすぐこうだ。


「આવો」


 だから、何言ってるかわかんないって。


「અહિયાં આવ」


 いい加減にしてくれ。


 頼むよ。耳を塞いでも聞こえてくるんだって。


 そんなにされたら抗えないよ。

 体がふわふわする。浮いてしまう。


「તમારી ઈચ્છા」


 黙っててくれ。


「રાહ જોવી」


 わかったから。


「જેમ છે તેમ」


 嫌だ。そうじゃない。


「──せ!」


 こっちは楽しくやれてるんだ。

 これでいいんだ。


「લડવા માટે」


「やめてくれ」


 行けばいいんだろ、行けば。


 なんでそんなにわかったように響くんだ。

 こっちは何もわからないのに。


「──い、ヴィム!」


 せめてはっきり喋ってくれよ。

 意味ありげに声だけで誘導しないでくれ。

 まるで代弁するかのような態度を取らないでくれ。


 共感しちゃうだろ。


 いったい何がしたいんだよ。


「ઠીક છે ચાલો」


 ああもう、わかったからさ。

 ちょっと待っててくれ。今すぐに。



「目を覚ませ馬鹿野郎!」



 頬に痛みが走った。



 ハイデマリーだ。



 目の前に、ハイデマリーがいた。



「え?」


「おい! 自分が今どこにいるか、わかるか!?」


「いや、なんで俺の部屋に」



 言いかけて気付く。


 ここは、部屋じゃない。


 視界の奥に映っているのは冒険者ギルド、つまり迷宮ラビリンスの入り口だ。

 もうすっかり真夜中で、街中とはいえ人影はほとんど見えない。


 肌寒さに気付く。

 外気の香りに包まれている。


「外に出たと思ったらこんな夜中にどういうことだ!?」


「いや、普通に寝ようとして」


「そんなしっかり武器を持って、それも迷宮ラビリンスに行こうとしてるじゃないか!」


「……ん?」


 本当だ。


 ちゃんと装備を着込んでいる。

 二振りの山刀マチェットを背負っている。


 ああ、そうか。


 俺、迷宮ラビリンスに行こうとしてたのか。



「ヴィム。私の名前を言ってみろ」


「ハイデマリーだ」


「……うん。じゃあ君は誰で、ここはどこで、今は何時くらいか言ってみろ」


「えっと、俺はヴィム=シュトラウスで、冒険者ギルドの前で、今は多分、夜中くらい」


「そうだ。正気なんだね?  なら戻ろう」



 うん。


 あれ、俺、冷静じゃないか。


 夢現で何か不味いことをしたかと思ったけど、割とそうでもないみたい。



「いいやハイデマリー。俺、迷宮ラビリンスに行くよ」


「……は? いや待て待て。君は今正気じゃない。ずっと眠れていないんだろう?」


「ちゃんとベッドの上で目はつむってるって」


「それは眠れてないんだよ!」



 うん。知ってる。



「さすがにもう見守っちゃおけないよ! 帰ろう!」


「帰るって、どこに」


「どこってそりゃあ、屋敷さ! いいから来い! 私の目の前で眠れ! 見ててやるから!」


「はは。眠れるか、それ?」


「いいから!」


「本当に、そう思う?」


「それはっ……」



 まあ、言葉に詰まるよな。


 君は俺のことをよく知っている。だから。



「俺が、行きたいんだ」



 まっすぐ目を見て、言い切った。


 ちょっとズルいかなと思った。

 彼女は俺がこう言うと強くは出られないから。



「呼んでるんだ。行かなきゃ」



 強化バフはもうかかっていた。

 彼女を振り切るのなんてわけなかった。


 今はただ、潜りたい。


 いいや、違う。


 行きたいんだ。積極的に。

 自分の意志で。迷宮ラビリンスというのはそういう場所だ。


 ずっとそうだった。

 別に不快でもなんでもなかった。

 自分の本音に向き合うことから逃げてただけだった。


 まるで頭の中にあった何かの栓が、抜けたみたいだった。


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