やっつめのかたり「秋ほのかに来たる湖にそぞろ歩き またしても化生と遭う いとわろし」

 川で鬼の化生と遭遇した時の恐怖感がまだ幾らかは残っており、朋彦とナオヨシはそれから何日かは家の周辺の散歩や山菜採りをしたり、ナオヨシに勉強を教えたりしながらのんびりと過ごしていた。

 そうする内に、朋彦達が滞在している辺りには早めの秋の気配が段々と感じられる様になっていた。

 朋彦達の家の周囲にも落葉樹が多く、どの窓からの眺めにも赤や黄の葉の鮮やかな色彩が広がり始めていた。

 朝食を食べながら朋彦は台所の窓からそんな秋の山の景色を眺め、

「だいぶこの辺も秋らしくなってきたなー。そろそろ栗とか茸とか採りに行けるんじゃないか?」

 ナオヨシに笑いかけ、また油揚げと青菜の味噌汁を啜った。

「うん・・・。そうだね・・・。」

 だがナオヨシの方は少し困った様に朋彦に笑い返すばかりで、余り気乗りしない様だった。

 大根の浅漬けへと箸を伸ばし、ゆっくりと齧りながら窓の外へと目を向けたナオヨシの脳裏に、ふとナギシダ村の秋の景色がよぎった。

 葉が真っ赤な色に染まった木々や、狭い田んぼ一面に黄色く色付き垂れ下がった稲、濃く色付いた柿の実・・・貧しいナギシダ村にも些やかな実りと恵みがやって来る秋は、本来とても待ち遠しく喜ばしいものではあったけれども。

 そんな、昼間の明るい青空の下に広がる紅葉や稲の赤や黄の色とりどりの村の景色と共に・・・祭から、村の娘から逃げ出して一晩過ごした夜の山の暗く寂しい景色もまたナオヨシは思い出していた。

「あ、化生のコト心配してんのか? 大丈夫だって。今度は腕輪に感知機能も付けたからさ。」

 ナオヨシの沈みがちな様子に朋彦は努めて明るい調子で言いながら、茶碗を持ったままの左手を上げて木の腕輪を見せた。

 あの化生との遭遇の翌日には、朋彦は腕輪の機能に半径二キロ以内に化生が存在している場合には振動や音等で知らせる様に追加したのだった。

「あ、うん。」

 朋彦の説明にもナオヨシは何処かうかない表情のままだった。

「何か心配事か? 」

「あ、心配事って言うか・・・。もう少ししたら村祭の時期だな~って。そう思ったら、何か落ち着かなくて・・・。」 

 朋彦に対して何か隠し事をしようという考えがそもそも無かったナオヨシは、尋ねられるままに素直に自分の思っていた事を口にした。

 へへへ・・・と、ごまかす様な笑いを浮かべ、そのまま再び台所の窓の外へと目を逸らした。

「へへ・・・。オレ、祭の料理や酒は楽しみだったけど、夜這いの話が皆から出るのがすっげえ怖くてさ。・・・女の子と何もしたくないのに、どうやってごまかそうかとか・・・そんなコトばかり心配してて・・・。」

 十五歳の時の村祭の夜は、初心で気恥ずかしい為に村娘達の所に夜這いに行く事が出来なかったと村人達に思われ、何とかごまかす事は出来た。

 だが二回目の、十六歳の時にはナオヨシの何処を好いてくれたのか、村娘の一人アサコから言い寄られ――ナオヨシはあろう事かアサコの申し出を断ってしまったのだった。

 この事が決定的となり、ナオヨシへの村人達の蔑んだ視線はますます強くなり、「産めぬ民」という疑いも強くなっていったのだった。 

「・・・そっか・・・。」

 朋彦は食事を続けながらナオヨシの話を聞き、悲しそうに俯くナオヨシを見つめた。

 村人達に襲撃されて村を二人で脱出したあの夜からも、まだ、ナオヨシの心はあの小さく貧しい村に捕われたままなのだろう。

「おーし、そんなら、二人だけど何か祭っぽいコトしよう、何か!」

 先に食事を終えて、朋彦は箸を置きながらナオヨシに笑いかけた。

「え?  何かって・・・。」

 首をかしげるナオヨシに、朋彦は大した考えも無いまま適当な事を口にした。

「何か・・・豪華な料理食って、何かの神様にお供えして・・・。まあ、何かそんな感じで。」

「何かばっかりでよく判んねぇよ・・・。」

 朋彦の適当な言葉にナオヨシも少し呆れてしまった。

「ああ、後、ちゃんと俺等っぽい夜這い祭もアリで! 」

 微笑む朋彦の目が何となくいやらしげな輝きを宿している事をナオヨシは感じ取り、大きな溜息をついた。

「もー。朋彦さん、夜這い祭は毎日やってるじゃねえか。」

 そんなナオヨシの言葉に、朋彦はわざとらしく頭を大きく横に振って答えた。

「いやいやいやいやいやいや。祭デスヨ、祭。普段とは違う特ッ別なコトをデスネ、やりまくるワケデスヨ!!」

「特別な事って・・・。」

 朋彦の言葉に、大した性知識の無いナオヨシはまた何か想像もつかない事を朋彦にされるのかと顔を真っ赤にしてしまった。 

「ま、そう言う訳で、今日は祭の準備に食材探しに出かけようぜ。」

 食べ終わった二人分の食器を流し台へと持って行きながら、朋彦はナオヨシの方を見た。

「こないだの川の方じゃなくて、正反対の湖があるトコに行ってみようぜ!」

 必ずしも同じ場所に化生が居る訳ではないのだろうが、まだ刀を扱う技術も化生を相手にする度胸も無い為、朋彦は全く違う場所への探検を提案してみた。

 ここ何日かの地理の勉強で、朋彦もナオヨシも、地図上ではこの近辺におおよそ何があるのかは判る様になっていた。

「あ、それならいいな! 湖の近くに栗とアケビが沢山生えてるって本に書いてたし。栗ご飯食べてぇな~!」

 やっと笑顔の戻ったナオヨシの様子に朋彦も嬉しそうに頷いた。



 ナギシダ村にも少しずつ秋の気配は訪れ、狭い田畑の作物も収穫時期を迎えようとしていた。

 些やかな楽しみではあったが、秋の収穫を祝う村祭の時期がまた近付いて来る事を村人達も喜び心待ちにしていた。

 変化に乏しい辺境の山奥の村の、いつもの秋の風景があった。

 ――だが、あの夜から。

 殺気立って押し寄せたハルサブロウ達の目の前で、突然に姿を消してしまったナオヨシと不思議な行商人の事については、あの夜から誰一人として進んで口にする事は無くなってしまった。

 あの翌朝、何も出来なかった無力感に苛まれながらも、どうしても心配で気になったタカキとトヅコは、夜が明けるとすぐにナオヨシの家へと走った。

 助けに入る勇気も無いまま、かと言ってこのまま何も見も聞きもしなかった事にしてしまう事も出来ず、中途半端で居心地の悪い罪悪感だけがタカキとトヅコの胸中に淀んでいた。

 だが――夫婦が駆けつけたそこには、倒れた木材とぼろ布・・・ナオヨシの住んでいた小屋だった物の残骸があるだけで、他には何も無かった。

「・・・ナオヨシ・・・。」

 呆然とボロ小屋の残骸の前で立ち尽くすタカキと、それに震えながらすがり付くトヅコは、朝から山仕事に向かう為に通りかかった村人達の一人に問い掛けた。

 彼等も昨夜の襲撃には加わっていた筈だった。

「・・・なあ、ナオヨシは・・・。ナオヨシは・・・一体・・・?」

 昨夜の村人達――ハルサブロウ達の怒り狂った様子では、恐らくは生きてはいないだろう。

 そう思いながらも、タカキは日焼けした坊主頭にびっしょりと冷や汗を流しながら、尋ねずにはいられなかった。

「――! あ、いや・・・ナオヨシは・・・・。ナオヨシは・・・・・・・居なく・・・なった!」

 タカキの問い掛けに村人の一人は背負い籠を落ち着かない様子で何度か背負い直し、一瞬言い淀んだ後、そう言い放った。

 その言葉に勢いを得たのか、他の者も言い訳の様な話を続けた。

「そ・・・そうだそうだ・・・。神隠しだ。あの行商人様と一緒に・・・ナオヨシのヤツ、突然、居なくなっちまって・・・。」

「――そうそう!! 急に、ふっと二人共消えちまって・・・。・・・あの行商人様は、きっと神様の遣いか何かだったんだ。ナオヨシは行商人様の弟子になって神隠しに遭っちまったんだ!!」

 子供染みた言い訳を口々に言い立てる内に、村人達の中で一つの言い訳――或いは一つの昔話の原型の様なものが出来上がっていった。

 ナオヨシは神隠しに遭って消えてしまった。

 村にやって来た不思議な行商人に弟子入りして、忽然と消え――旅立って行った。

 きっとこのまま時が流れれば、ナギシダ村の小さな昔話の一つとして変質していくのだろう。

 村人達の罪を覆い隠して。

「ッ!! ・・・そんな・・・!!」

 お前達がナオヨシを追い詰めて殺したのだろう――タカキは一瞬、そう思い激昂しかけた。

 だが、狭い村の共同体の中でタカキに今更何が出来る訳でもなく、見殺しにしてしまった自分達も同罪であり――タカキはそのまま悔しそうに唇を噛んだ。

 黙り込んだタカキの様子に、これ幸いと村人達は冷や汗をかきながら後ずさり離れていった。

「そ、それじゃあ・・・。山に行かねぇとな・・・。」

「な、なあ。・・・忙しいんでなあ・・・。」

「ま、またな・・・。」

 言い訳めいた挨拶を口にしながら、彼等は逃げる様に山の方へと足早に立ち去ってしまった。

 タカキはもうそんな村人達を一瞥する事も無く、すがり付いてくるトヅコの手を握りながら悲しそうにナオヨシの小屋の残骸を見つめ続けていた。

「・・・あんた・・・。」

 何を、どう言って慰めればよいのか。

 トヅコもまたタカキと共に呆然と小屋の残骸を見ていた。

 呆然と立ち尽くす内にも少しずつ冷静さを取り戻し始めた頭の中で、タカキは先刻の村人達の言い訳が、必ずしも適当でいい加減なでまかせではなさそうだとも一応は納得し始めてはいた。

 一夜の内の僅かな時間でナオヨシと行商人二人を叩き殺して、その死体を処理する――そんな乱暴な事をしたにしては、小屋の残骸の周囲には全く血の跡も争った跡も無く、それらを片付けた様な跡も無かった。

 大勢村人達が居たとはいえ、短い時間の内にそれだけの事を行なう事は難しい筈だった。

「・・・・。」

 ――だが、本当に神隠しに遭ったり、あの行商人と旅立ったりしたとしても。

 ナオヨシが大勢の村人達から殺されんばかりの勢いで追い詰められ、ナギシダ村から居なくなってしまった事実には何の変わりも無かった――。

 タカキとトヅコは、ただ自分達の無力さと臆病さを噛み締めながら小屋の残骸の前でいつまでも立ち尽くしていた。



 ――そうしてナオヨシの事はまるで初めから居なかったかの様に、村人達は誰も口にする事も無くなった。

 行商人が売ってくれた塩や農機具等はそのまま使われているが、それらを目にする度、村人達は何処かもぞもぞとした居心地の悪い気持ちを感じていた。

 ハルサブロウや他に二人程、何故かひしゃげた刃の部分を無理矢理曲げ直した不格好な鍬を使っている者達も居たが、誰もその鍬の事には触れる事はなかった。

 そんな村の空気にタカキとトヅコは何も言う事も出来ず、彼等もまた日々の貧しさと忙しさとに追われナオヨシの記憶を埋もれさせていった。

 そうして、もう来月の初めになれば村祭りの開催という時期になり、タカキとトヅコは早朝から山仕事に出掛ける事にした。

 仕掛けていた罠の中身を確認したり、秋の山菜や木の実、茸等を収穫して祭や冬越しに備える為だった。

「――どうも今日は日が悪いな・・・。」

 籠の底を小さな茸や山芋が辛うじて埋める程度の、まだまだ軽い背負い籠の肩紐を結び直しながら、タカキは小さな溜息をついた。

 山の斜面の下のいつもの場所に仕掛けていた箱罠には鶉等は掛かっておらず、木の実や茸も少ししか見つけられなかったのだった。

 もう少し山の奥へ、もう少しだけ・・・と少しでも山鳥や木の実等が得られないかと分け入る内に、気が付けば随分といつもの場所から離れてしまい、二人はついには道に迷ってしまっていた。

「あんた・・・。」

 不安気にタカキへと呼び掛けるトヅコの声に振り返り、タカキは小さく溜息をついて立ち止まった。

「・・・少し休むか・・・。」

 背負い籠を地面へと下ろし、タカキとトヅコはその場に腰を下ろした。

 どの位の時間山の中を二人は彷徨ったのか、少しずつ日は傾いていき、辺りの空気も冷え始めていた。

 このまま夜になって暗くなってしまうと視界も悪くなり、ますます身動きも取れなくなってしまうと思われた。

 どうしたものかとタカキが思案に暮れていると、

「――あんた、穴倉が・・・!」

 トヅコが顔を上げ、指差した先には山の斜面に出来た小さな穴があった。

 幸いにも穴の中には熊等の危険な獣の気配は無かった。

「今日はそこで夜を明かすか・・・。」

 タカキとトヅコはそこを今夜の寝床と定めると、急いで辺りの枯れ枝や枯れ草等を出来るだけ多く集め始めた。

 体温を奪われない様にそれらを穴の中へと敷き詰め、また、焚き火の為に枯れ枝の小山を作った。

 そうして何とか一晩を山の中で過ごし、夜が明けるとまた二人は山の中を村への道を求めて歩き始めた。

 その内に、二人は小さな湖のある場所へとやって来たのだった。

「・・・こりゃあ、また・・・随分村から離れちまったな・・・。」

 立ち止まって山の斜面から湖を見下ろしながら、タカキは大きく溜息をついた。

 村には地図がある訳ではなかったが、湖や幾つかの山、谷や川等について、おおよその場所と位置関係は山の中で生活する村人達の頭には子供の頃から叩き込まれていた。

 湖から少し南に下った辺りにナギシダ村と他の村とを繋ぐ小さな道があった筈だと、タカキとトヅコは思い出した。

 そこまで出られれば、また一日程の時間は掛かるが迷わずに村まで帰る事が出来る。

「でも良かったよあんた・・・。これで何とか村まで帰れるね。」

 トヅコは嬉しそうにタカキの顔を見上げた。

 ほっとしてお互いに顔を見合わせ、少し笑うとタカキとトヅコは水を汲もうと湖へと下りていった。

 


 食材探しと湖までの行楽を兼ねて、朋彦とナオヨシは出掛ける支度をするとすぐに出発した。

 支度といっても刀と腕輪を身に着けるだけだったので、随分と身軽なものだったが。

「朋彦さん~。今日は何の弁当なんだ~?」

 今日もナオヨシが先頭に立って藪を刈り払いながら山の中を進んでいた。

 既に昼食の事をとても楽しみにしている様子で、ナオヨシは枯れ枝や蔓草に刀を振るいながら朋彦に問い掛けた。

「ごはんに梅干~、山芋の煮付けに~、豚肉の生姜焼きと味噌汁も付いてるぞ~!」

 うっすらと汗ばみ始めたナオヨシの引き締まった尻を相変わらずにやにやと眺めながら、呑気な調子で朋彦も答え、二人は湖へと向かっていた。

「そっかー。楽しみだな~。」

 ナオヨシはにこにこと笑いながら前方の込み入った木の枝を斬り払った。



 タカキとトヅコは水辺に下りてくると、懐から竹筒の水筒を取り出して水を汲んだ。

 塵一つ無く透き通った湖の水は日の光を受けてきらきらと輝いていた。

「ふう~。」

 空腹と喉の渇きを湖の水で癒し、タカキとトヅコはやっと一息つく事が出来た。

 湖から真っ直ぐ南下すれば村への山道へと辿り着ける筈だった。

「よし、もうひと頑張りだ。少し休んだら出発しよう。」

 タカキの言葉にトヅコもしっかりと頷いた。

 小休止の後、タカキとトヅコは湖の南にある筈の山道を目指して再び立ち上がった。

 ――そこに、不意に湖の方からごぼごぼという大きく不自然な空気音が聞こえ、トヅコは不審気に振り向いた。

「・・・あ! あんたっ!! あれ!!!」

 トヅコは青い顔で後ずさり、慌ててタカキの着物の裾を引っ張った。

「どうした・・・?」

 タカキが振り向くと、トヅコが震えながら指差した先――湖のほとりから、一本の白く尖った角を持つ青黒い禿頭が、ごぼごぼという呼吸音らしきものを立てながらじっと二人を見つめていた。

「け・・・化生・・・ッッ!?」

 タカキはひっと息を呑み、トヅコの体を守る様に急いで抱き寄せた。

 話には聞いた事はあったが、タカキもトヅコも化生に遭遇するのは生まれて初めての事だった。

 確か、村長が昔、山奥で熊みたいな姿の化生と遭ったと言っていた――。

 水面から顔を出している化生の青黒い顔には血走った大きな一つ目が見開かれ、にたりと笑う様に開かれた口の中には細い棘の様な牙が並んでいた。

 化生はごぼごぼとやたらに大きな空気音を喉から上げ、のっそりと水の中から全身を現した。

 その大柄な体は魚の様な鱗に覆われ、滴り落ちる水滴と共に日の光を受けてぎらぎらとした輝きを返していた。

「・・・ひっ!!」

 恐怖に震えながらもタカキは、トヅコの腕をきつく掴んだまま急いで逃げ出した。

 山の奥深くには時折化生が現れるとは言うが、よりによってこんな時に現れずとも――。

 タカキとトヅコは絶望的な気持ちを抱きながら近くの藪の中を目指して懸命に走った。



「あ、ちょっと逸れた。もう少し左の斜面を上がった方がいいな。」

 朋彦は藪を刈り払うナオヨシの後ろで、携帯端末の地図を見ながら湖までの道のりを確かめていた。

 何の目印も無く土地勘も無い山の中を藪を刈りながらの道行きだったので、真っ直ぐ進んでいるつもりでも違う方向に進みがちだった。

 そうやって湖を目指し、朋彦とナオヨシは少しずつ湖へと近付いていた。

「後二キロくらいか・・・。」

「後少しだね。」

 ナオヨシは刈り払った枯れ枝の塊を端にどけながら朋彦を振り返った。

 朋彦との勉強の成果で地図の見方も数字や距離の単位も覚え、地図上のおおよその距離感覚もナオヨシは大分理解出来る様になっていた。

 学が無くて頭も悪いと自分を卑下しがちなナオヨシだったが、短い期間の内に色々な事を覚えて身に付けている事から元々の能力は決して低くはなかったのだろうと朋彦は思った。

「そうだな・・・ハハハ・・・。」

 ナオヨシの言葉に朋彦は引きつった笑いを浮かべた。

 毎日の様に村の周囲の山の中で木を切ったり山菜等を採ったりしていたナオヨシにとっては、二キロの距離は後少しだったが、朋彦の感覚にとってはかなり先の距離だった。 

 ――!

 と、そこに不意に、二人の腕輪が小刻みに震え始めた。

「化生が居んのか?」

 自分の腕輪の振動する様子に立ち止まり、ナオヨシはこの前の鬼の化生との遭遇を思い出し、不安気で泣きそうな表情で朋彦を見た。

「このまま帰るか・・・。」

 朋彦は溜息をつき、腕輪に触れて振動を解除した。

 わざわざ戦いに行かなくても避ければいい。追い掛けて来たら戦うぐらいでいいか――と、朋彦はナオヨシの腕輪にも触れて警告の振動を止めた。

「一応、何処に化生が居るかだけは確かめとくか。」

 朋彦は道具袋の中の蛙人形を握ると、携帯端末の地図に化生の感知機能を付け足した。

 化生を示す赤い点は、自分達が今から向かう湖のすぐ側で点滅していた。

「帰るか・・・。今日のお出掛けは中止だな・・・。」

 わざわざ化生の居る場所に行く必要も無い。朋彦は溜息をついて肩を落とした。

「――っ!!!!」

 ナオヨシも溜息をつきかけた所で、ふと、微かな山彦の様な音が山の向こうから聞こえてきた事に気が付いた。

「人の声・・・?」

 ナオヨシが耳を澄ませて山の向こうへと顔を向ける様子に朋彦は首をかしげた。

「誰か居るのか?」

 朋彦には聞こえなかったが、この様な山奥にあるナギシダ村で生きてきたナオヨシには山の様々な音を聞き分ける事が出来るのだろう。

「何かよく判んねぇけど、人の声が山彦みたいになってるみたいだ・・・。」

 ナオヨシの言葉に朋彦はもう一度蛙人形を握り、今度は地図に人間を感知して表示出来る様にした。

 化生が居て、人間の声が山彦で聞こえて来て――。

 朋彦は何となく嫌な予感を感じながら、携帯端末の画面へと目を落とした。

「・・・まずいな・・・。誰か襲われてんのか・・・?」

 画面の中には化生を表す赤い点が一つと、人間を表す青い点が二つ・・・湖の側に表示されていた。

「どうしよう・・・! 助けないと!」

 ナオヨシはそうは言ったものの、刀を持つ手は緊張に震え始めていた。

「そうだよなあ・・・。誰だか知らないけどこのまま見捨てていくのもまずいしなあ・・・。」

 心底困ったという表情で朋彦はまた溜息をついた。

 朋彦もナオヨシも、自ら刀を振るって化生と対峙する様な度胸も技術の心得も無かったが、そうかと言ってこのまま見知らぬ人間を見捨てて逃げる程の人でなしでも無かった。

「・・・化生から少し離れた所に移動して、何かマジナイの一つでも放ってみるか・・・。」

 離れた場所から化生の様子を伺って、蛙人形の力でビームか何かを放てば何とかなるんじゃないか――いや、何とかなって欲しい・・・。

 ナオヨシと――何よりも自分の心を落ち着かせる為にそんな事を口にし、朋彦は携帯端末の地図上に示した場所への瞬間移動の力を発動させた。

 一瞬にして辺りの景色が切り替わり、二人が現れたのは湖の近くの藪の中だった。

「――いゃぁぁ!! あんたぁぁ!!」

 朋彦とナオヨシが辺りを見回していると、すぐに藪の向こうから若い女性の悲鳴が聞こえてきた。

「逃げろ! トヅコっ・・・!! 」

 息も絶え絶えの様な男の叫び声がそれに続き、朋彦は刀を握る手が強張った。

「まずいな・・・。誰か襲われてんのか・・・。」

 とにかく今の状況を確かめようと、急いで朋彦は生い茂った木の枝を掻き分けた。

「トヅコ・・・? トヅコ姉さん・・・?」

 隣のナオヨシの肩が大きく震えるのが朋彦の目に入った。

「村の奴等か・・・?」

「うん・・・!」

 朋彦の問いに答えるとすぐ、震える手で刀を握り締めてナオヨシは急いで藪の中から飛び出していった。

 村の奴等に会いたくないのならお前だけでもここで待ってろ――と、朋彦がそう言う間も無くナオヨシは走り出し、慌てて朋彦も自分の刀を手にして後に続いた。

 二人が声のする方に向かうと、湖の側に生い茂る木立の下で血を流す右足を押さえて蹲る男と、それを弄る様に襲う鱗に覆われた鬼の化生、そして男を庇う様にすがり付く女の姿があった。

 鱗姿の鬼の化生は男女を一気に殺すつもりが無い様で、水かきの付いた両手を威嚇する様に大きく広げ、軽く叩いたりわざと狙いを外したりしていた。

「・・・・タカキ兄さん・・・? トヅコ姉さん・・・?」

 息を切らしながら駆けつけたナオヨシが立ち止まり、小さく呟いた。

 急に立ち止まったナオヨシの大きな背中にぶつかって朋彦も止まり、背中越しに化生の様子を伺った。

「・・・・ナ、ナオヨシ!?」

 トヅコと呼ばれた女性が突然現れたナオヨシの姿に安堵と――怯えの様な感情を同時に浮かべた様だった。

「・・・ナオヨシ、生きてたのかお前? ・・・それに行商人様!?」

 足の怪我の痛みに顔をしかめながらタカキと言うらしい男性が、ナオヨシとその後ろに居た朋彦を見て驚きの声を上げた。

 タカキとトヅコの向けた視線の先に化生はすぐに気付き、ごぼごぼと大きな空気の漏れる様な唸り声を上げ、ナオヨシと朋彦を新たな獲物と認め襲い掛かって来た。

「ナオヨシ!!」

 タカキが青い顔で思わず叫び声を上げた。

 鱗姿の化生は血走った一つ目を見開いてナオヨシへと水かきの広がる手を叩きつけたが、腕輪の展開した防御壁に阻まれてナオヨシを傷付ける事は出来なかった。

 化生がナオヨシの防御壁へと注意を向けた隙に、その横合いから朋彦はへっぴり腰で震えながらも刀を最大出力の赤いボタンを押して振り下ろした。

 化生の胴体を狙ったものの手の震えで狙いがずれ、朋彦の斬り付けた刀は化生の片腕に長い裂傷を作るに留まった。

 ごぼぉぉぉと、恨みがましい空気音を細い牙の並ぶ口から漏らし、血走った一つ目が朋彦を鋭く睨み付けた。

 人間や動物等を食べもせずただ傷付けるという化生の本能に基づいて、タカキとトヅコに対しては弄って遊んでいたのだろう。

 だが、怪我を負わされ今度は本気で人間達を仕留める気になった様で、腕に大きく出来た裂傷から黒い煙を噴き出し始めるのにも頓着せず、化生は激しい力で朋彦とナオヨシへと殴りかかって来た。

「・・・っ!」

 ナオヨシと朋彦は体を捩ってぎりぎりで化生の拳を躱し、今度は二人掛かりで刀を斬り付けた。

 ナオヨシの振るった刀は狙いが外れ、化生の水かきを一枚斬っただけだった。

 だが朋彦の方は、先に朋彦が斬り付けていた片腕にもう一度刀が掠り、化生の片腕は地面の上に転がり落ちた。

 化生の体から滴る水で濡れた草むらの上に転がった片腕は、忽ちの内にどす黒い煙へと分解されて消滅した。

 ナオヨシも朋彦も一刻も早くこの場から逃げ出してしまいたかったが、タカキとトヅコを見捨てて行く事も出来ず、汗で滑る刀を何度も握り直して、恐怖感と緊張感に強張る体を無理矢理動かし続けた。

 腕輪の防御壁の力で化生の拳や爪の攻撃は朋彦達の目の前ぎりぎりで悉く弾かれていた。

 それらが決して自分達には届きはしないと、朋彦とナオヨシは頭では一応は判ってはいた。

 だが、自分の体のすぐ目の前に迫る鱗だらけの拳や鋭い爪を見るだけでも、恐怖感や嫌悪感で二人の精神力はどんどんと削られていった。

「・・・このっ!!」

 何度目かの化生の拳をナオヨシは刀で受け止めると、そのまま力比べの様に化生と組み合ってしまった。

「っ・・・! っ!! 」

 泣きそうになりながらも死に物狂いで刀を支えるナオヨシの腕の筋肉が緊張で膨れ、がくがくと震えていた。

 ナオヨシの方の刀の切れ味はどうやら最小出力のままにしていた様で、化生の片方だけになった拳は刃に直接触れているのに傷は殆ど付いていなかった。

「ナオヨシ――!!」

 本来ならばナオヨシに刀の切れ味を上げる様に指示するべきなのだろうが、朋彦の方もまたそんな余裕は無く、とにかくナオヨシへ助太刀に入る事だけを考えていた。

 朋彦は化生がナオヨシに集中している隙をついて、汗に滑る刀をきつく握り直すと思い切って地面を蹴った。

 ナオヨシと向かい合っていた化生の横合いへと飛び込むと胴体へと刀を深々と突き刺し――そのまま刀の能力と自分の腕力に任せて化生の体を縦に斬り裂いた。

「~~ッッ!!」

 ゲェェェッと、何処か蛙を連想する様な悲鳴を上げて、やっと化生は黒い煙を全身から撒き散らしながら地面に倒れた。

「・・・・は・・・。」

 縦二つに胴体を切り裂かれて倒れた化生から後ずさって離れ、朋彦はがくがくと震える手で刀を握り締めたままその場にへたり込んだ。

 ぜえぜえと肩で息をしながら朋彦がナオヨシの方へと顔を向けると、

「・・・たたた・・・・助か・・・・った・・たた・・・。」

 ナオヨシもまた歯の根が合わない程にがちがちと口や体を震わせながら、化生の拳を受け止めた体勢のまま刀を握り締め、ずるずるとその場に尻餅をついて座り込んだ。

「あ・・・!」

 朋彦は両足を開いたまま地面に座り込んだナオヨシの姿に、急速に精神力が回復し始めるのを感じた。

 ここからの位置だと丁度ナオヨシの太腿や褌の股間がよく見えてとても絶景かな!!

 冷や汗にびっしょりと濡れた筋肉質な肌の質感もとっても艶やかでなまめかしけれッ!!

 そんな事を心の中で叫びながら、朋彦は暫くの間ナオヨシの姿を凝視していたのだった。



 朋彦もナオヨシも、タカキもトヅコも・・・暫くの間、誰もがその場に呆然と座り込んだままだった。

 そうする内に朋彦はナオヨシを眺めていたお蔭で、何とか気力だけはいち早く回復していた。

 刀を納めて道具袋に仕舞い込むと、朋彦はよろよろとふらつきながら立ち上がった。

 ナオヨシの様子から彼等はどうやらナギシダ村の人間の様だったが、大怪我をしているのをそのまま放置しておく訳にもいかず、朋彦は取り敢えず手当をする為に、座り込んだままのタカキとトヅコの方にゆっくりと近寄った。

 へたり込んだままのナオヨシも体を起こし、這う様にしながらも朋彦の後を追った。

 タカキは化生の鋭い爪によって、右足の太腿から足首にかけてざっくりと一筋大きな裂傷を負っていた。

 幸い血は止まりかけてはいた様だが、このままでは深い山道を歩いてナギシダ村まで帰る事は無理だった。

「・・・でも・・・二人共、生きてて良かった・・・。」

 命は何とか助かった二人の様子にほっとしながら、ナオヨシは握り締めたままだった自分の刀にやっと気付き鞘に収めた。

 ナオヨシのその動作に、タカキとトヅコは確かに一瞬怯えて体を小さく震わせていた。

 そんな二人の様子に気付き、ナオヨシは悲しそうに見つめながらもそれ以上は近寄らずに立ち止まった。

「えーと、ナギシダ村の人・・・だよな?」

「はい・・・。タカキと言います。・・・こっちは妻のトヅコです。」

 タカキ達から少し離れて立ち止まったナオヨシに同情的な視線を送った後、朋彦が尋ねるとタカキは緊張した面持ちで頷いた。

「行商人様・・・。助けて頂き有難うございました・・・。」

 上半身を起こすタカキを支えながら、トヅコも朋彦に頭を下げた。

「いや、その・・・。どういたしまして・・・。」

 朋彦はタカキ夫婦に頭を下げながらも、自分達から少し離れて立っているナオヨシへ再び気遣いの目を向けた。

「・・・えーと、あの・・・。出来れば、俺達の事は村に帰っても黙っててくれると有り難いんだけども・・・。」

 朋彦の言葉に、タカキとトヅコは黙って頷いた。 

「・・・朋彦さん・・・。タカキ兄さんの怪我、オレにしてくれたみたいに治せないかな・・・?」

 朋彦の後ろから不意にナオヨシが声を掛けてきた。

 あの夜、村人達に総出で殺されそうになったというのに、ナオヨシの表情は穏やかで、村人達への怒りも憎しみも無く・・・ただ、ひどく寂しく悲しそうだった。

 朋彦は何となく、ナオヨシのタカキを見る目が、とても優しく懐かしそうな感情を湛えている様な気がした。

 しかしその事は口に出さず、

「まあ、出来ない事も無いけどさ・・・。」

「ありがとう。朋彦さんはやっぱりすごいな~!」

 困惑しながら答えた朋彦へ、相変わらず無邪気にナオヨシは笑った。

 どんな傷薬を作り出したものかと懐の中に手を入れながら、朋彦は少しの間思案した。

 ナオヨシの時の様な高性能の万能薬は流石に大袈裟だったし、タカキの具合も一刻を争う程でもなかった様なので、傷を消毒しゆっくりと時間をかけて治療する液体の薬――というイメージで簡素な茶色いガラス瓶に入った中位の性能の薬を朋彦は作り出した。

 ありきたりなドリンク剤の様な瓶の中身をタカキの右足に垂らすと、すぐに完全に出血が止まり、裂けていた傷が少しずつくっついていった。

 タカキもトヅコも、そして治療を頼んだ当のナオヨシも、その効果に驚き、ただただ呆然と傷口を見つめるだけだった。

 タカキの傷の状態が落ち着くまでの間、朋彦はタカキ達から少し離れて立っているナオヨシの側まで戻った。

「オレの時も、あんなすげぇ薬を使ってくれたのか?」

 タカキの様子を心配そうに見つめながら、ナオヨシは傍らに戻ってきた朋彦へと問い掛けた。

「あー・・・うん。大体そんな感じ・・・かな・・・。」

 朋彦は曖昧に微笑みながらナオヨシに答えた。

 どんな怪我や病気も一瞬で治療する程の万能薬を使ったと答えたらナオヨシはどんな顔をするだろう・・・とも思ったが、そうした品物がタカキ達に知られるのも余りよくないと思い、朋彦は黙っておく事にした。

 そうする内にも傷薬の治療効果は終わった様で、タカキが怖々と自分の太腿の傷をさすったり抓ったりしている様子が見えた。

「具合はどうですかね・・・。」

 朋彦はタカキとトヅコの所に引き返してきた。

 朋彦の背後にナオヨシも少しだけ距離を置いて付いて来ていた。

「はい! もうすっかり良くなりました。有難うございます!」

 タカキは立ち上がると朋彦に深々と頭を下げて礼を言った。

 深く出来ていた太腿の大きな裂傷も薄くなり、赤い線の様な傷の跡が残っている程度で、立ち上がってももう痛み等は無い様だった。

 タカキの怪我が治った様子にトヅコも嬉しそうに涙ぐんでいた。

 朋彦の背後に立つナオヨシも、ほっとした様に息を吐き、笑顔を浮かべていた。

 背後のナオヨシのそんな様子に気付いた朋彦は、ぼそっとタカキ達へと呟きを放った。

「・・・礼は――ナオヨシにも、な・・・。」

 そもそもナオヨシが山彦で聞こえてきたタカキ達の声に気付かなければ、化生を避けてそのまま家に帰ってしまっていたのだった。

 ナオヨシは村人達を恨んではいない様だったが、朋彦としては「産めぬ民」と蔑み集団で殴り殺そうとしたあの夜の事については未だに釈然としない感情が残っていた。

 そんな朋彦の何処か冷ややかな感情の混じる言葉に気付いているのかいないのか、タカキとトヅコは素直にナオヨシの方へと一度頭を下げた。

「ナオヨシ・・・。有難う・・・。」

 それからタカキは少し離れて立っていたナオヨシの前へとやって来ると、今度は深々と頭を下げた。

「――それに・・・すまなかった・・・。助けてやれなくて・・・。」

 タカキのその言葉にナオヨシは一瞬肩を震わせた。

「あんた・・・。」

 トヅコもタカキの横へとやって来て不安気な目でタカキを見上げ、それからナオヨシへと頭を下げた。

「兄さんも姉さんも、そんな・・・。いいよ・・・。助かって良かったよ・・・。」

 ナオヨシは頭を下げ続けるタカキ達を悲しそうに見た後、少しだけ顔を逸らし小さく俯いた。

「・・・お前を助けられなくて・・・すまなかった・・・。」

 タカキとトヅコもまた、ナオヨシへと顔を上げる事が出来ずにただ謝り続けていた。

 きっと、村人達の中にあってこの夫婦は、ナオヨシの事をそれ程には蔑んではいなかったのだろう。 

 あの襲撃の夜も、きっと村人達の殺気立った勢いをむしろ恐れ、ただ遠巻きに事態を見守るしか出来なかったのだろう・・・。

 ナオヨシも、タカキ夫婦も・・・そして村人達でさえも、きっと・・・ただ、弱いだけなのだろう。

 女と交われない「産めぬ民」として――ナオヨシを生贄として攻撃する事でしか、自分達を守れない村人達や、それに抗う事も出来ずただ流されるだけのタカキ夫婦。

 親の死んだ後は村人達のお情けで生き延びたものの、あのままでは「産めぬ民」として村人達の憎しみを一身に受けて殴り殺されるしか術の無かったナオヨシ。

 誰も悪い訳ではなく――しかし、誰もが等しく、少しずつ悪いのだ。

 朋彦は何ともやりきれない気持ちのまま、ナオヨシ達のやりとりを黙って見つめていた。



 一応治ったとはいえタカキの怪我の跡を気遣いながら、朋彦達はゆっくりとした足取りで湖から南に下って行った。

「・・・これは水。後は木の実。取り敢えず村までは一日ぐらいだしこれで食いつないでくれ。」

 山の中を小一時間程歩き小さな山道に出た所で、朋彦は道具袋の中でタカキ夫婦二人分の竹筒に入った水と布袋に入った木の実を作り出して手渡した。

 特に何の能力も付与していない竹筒の水筒も布袋も、この辺りで普通に手に入る物をイメージした物だったので他の村人に見つかっても怪しまれる事は無いと思われた。

「そんな・・・。ここまでして頂く訳には・・・。」

 朋彦の差し出す水筒と布袋に、タカキは慌てて頭を横に振った。

 朋彦は小さくため息をつき、半ば無理矢理にそれらをタカキの手に押し付けた。

「あんたらの為じゃない。ナオヨシの為だ。」

 理想を言えばナギシダ村の近くまでタカキとトヅコを送り届けるべきなのだろうが、あんな目に遭わされた村には朋彦は寄り付きたくはなかったし、ナオヨシにもなるべく村の事は思い出させたくはなかった。

 タカキ夫婦の村までの短い道中へ贈り物を押し付けるのは、朋彦とナオヨシの自己満足とも言えなくもなかった。

 タカキとトヅコは僅かの間、戸惑いながらお互いに顔を見合わせた後、水筒と布袋を受け取った。

「お世話になりました・・・。」

 タカキ夫婦は朋彦を見、――それから戸惑いながらナオヨシの顔を見上げた後、大きく頭を下げた。

 ナオヨシはそんなタカキ夫婦に何も言えないまま、ただ、下げられた頭を見下ろしていた。

 ナオヨシが幼い頃には村の他の子供達と共に面倒を見てくれたタカキを、とても頼もしく大きく思っていたけれども――。

 今改めて見下ろすタカキの姿に、何処か気の毒で物悲しい思いが湧き起っていた。

「・・・気・・・気を付けて帰ってね・・・。あ、後・・・飴・・・有難う・・・。すげぇ美味かった・・・。」

 既に涙声になりかけて俯きながら、ナオヨシはタカキとトヅコに声をかけた。

「ナオヨシ・・・。」

 ナオヨシの言葉にタカキは驚いた様に顔を上げたが、俯いたままのナオヨシにその顔は見えなかった。

 タカキとトヅコはそれ以上ナオヨシに言葉をかける事も出来ず、朋彦から貰った水筒と布袋を懐に仕舞い込むと再び朋彦へと深々と頭を下げた。

「それでは・・・。」

 それから二人は村を目指して歩き始めた。

「帰るか・・・。」

「うん・・・・・・・。」

 朋彦の促しにもナオヨシはただ生返事をするだけで、タカキ夫婦が見えなくなるまでのしばらくの間、ずっとその場に立って見送っていた。

 朋彦も特に急かす事はせず、ナオヨシと共にタカキ夫婦の姿を見送った。

「・・・・・っ・・・・・っ・・・!!」

 道の向こうに夫婦の姿が見えなくなると、ナオヨシは立ち尽くしたまま唇を噛み締めて震えていた。

「・・・・。」

 朋彦はそっとナオヨシの手を握った。

 ナオヨシは朋彦の手を握り締め、声も立てず静かに泣き続けた。

 朋彦は黙ったままナオヨシの手を強く握り返した。

 ナオヨシがひとしきり泣いた後、朋彦は道具袋から手拭を引っ張り出し、ナオヨシの顔へと手を伸ばした。

 ナオヨシは手拭をひったくる様に受け取ると乱暴にごしごしと顔を拭き、朋彦を見た。

 泣き腫らして目も鼻も真っ赤になっていたが、ナオヨシは何処か晴れ晴れとした表情で、

「帰ろう、朋彦さん! オレ達の家に!」

「ああ・・・! 帰ろう!」

 朋彦も穏やかに笑いながらナオヨシを見上げた。

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