61代~63代 佐藤栄作(第一次~第三次)

名前 佐藤栄作 さとう えいさく

生没年 1901~75

出身 山口

在職 1964.11~67.2

   1967.2~70.11

   1970.11~72.7

与党 自由民主党


・言わずと知れた政界の団十郎。岸信介元総理大臣の弟。2798日という連続在任記録は、大甥の安倍晋三元首相が更新するまで最長記録だった。

・1964年7月の総裁選で、池田勇人の三選を防ぐために出馬したが僅差で敗れた。しかし、まもなく池田が病に伏したため、池田自身の意志によって佐藤が、首相となった。かつて兄の岸信介が、石橋湛山の病によって急遽首相になったのを彷彿とさせられる。


・沖縄の日本復帰について強い意志を表明した。そして1972年にそれを実現した。

・1967年には「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則を表明した。これがきっかけでノーベル平和賞を受賞したのは有名な話。まったく関係ないけれど、ノーベル平和賞を初めて送られたのは、国際赤十字の創設で名高いスイスのアンリ・デュナンである。

・佐藤内閣は池田内閣のように経済最優先というわけではなかったものの、行動経済成長の流れを受けて「いざなぎ景気」という空前の好景気を迎えた。

佐藤内閣の下では、田中角栄、福田赳夫、三木武夫、大平正芳、中曽根康弘、鈴木善幸、宮澤喜一、竹下登といった、のちの政治の中心となる人物も多く要職に就いた。

・一方、世界情勢はベトナム戦争や文化大革命、スカルノ大統領の失脚、ニクソンショックなど、緊迫した状況が続いていた。


・1972年、総辞職に当たっては、「偏向的な新聞は大嫌い。新聞記者のいるところでは話したくない」と発言したことによって新聞記者たちが一斉に退出、首相ひとりがカメラに向かって演説するという、異例の会見となった。今だったら炎上するだろうか……。でも一理あるような気も……。

・1975年、料亭で倒れて意識を失い、まもなく息を引き取った。亡くなったのち、遺族代表を岸信介が、葬儀委員長を田中角栄が務める中で国民葬が行われた。大隈重信以来のことだった。



在職中の出来事(膨大です)

1964.11 公明党結成

1965.1 佐藤首相訪米、ジョンソン大統領と共同声明を出す

  .6 日韓基本条約調印

  .8 佐藤首相、沖縄訪問。戦後の首相として初めて

1966.2 全日空旅客機東京湾墜落事故

  .12 佐藤栄作、自民党総裁に。

1967.8 公害対策基本法

  .10 吉田茂没

1968.2 成田空港建設反対のデモ 

   .4 小笠原返還協定調印

  .5  いざなぎ景気、3Cの時代

1969.1 東大安田講堂に機動隊が出動

  .11 佐藤・ニクソン会談 沖縄返還を会合

1970.2 核兵器拡散防止条約調印

  .3 日本赤軍、よど号ハイジャック

1971.6 沖縄返還協定調印

1972.2 横井正一元軍曹、グアム島から帰還

    あさま山荘事件

  .5 沖縄県復活

  .6 佐藤首相退陣表明

  

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