58代~60代 池田勇人

名前 池田勇人

生没年 1899~1965

出身 広島

在職 1960.7~64.11

与党 自由民主党


・岸田文雄首相が総理大臣になって、成長と分配をスローガンにした経済政策を打ち出したときに名前が挙がっていた総理大臣。

・池田は戦前から大蔵官僚として働いていたが、政治家として頭角を現したのは戦後から。第三次吉田内閣で大蔵大臣となった。当時の秘書官には後の首相宮澤喜一もいたとか。

・1957年に現在岸田派となっている派閥宏池会を結成、経済政策を旗印とした。派閥の出現である。個人的にはメディアが叩くほど派閥は悪いことばかりではないと思うのだけれど、弊害があるのも確かで、その原点ともいえる。

・1960年、岸内閣の総辞職を受けて首相となった。もともと池田は失言(下記)などにより大衆の支持は必ずしも高くなかったが、安保闘争などでの大衆のエネルギーを見て自らの大衆に向かう姿勢を改め、「低姿勢」や「寛容と忍耐」の信条を、当時普及し始めていたテレビを通じて国民に見せ、「庶民派」をアピールした。

・そして目玉政策として「所得倍増計画」を披露し、太平洋ベルト形成や農業の近代化などをはかった。また、自由貿易導入の一方、それによって打撃を受ける労働者などの支援のため、社会政策の拡充も行った。

・しかし、首相在任中にがんを罹患、東京オリンピック(1964)の閉会式翌日に退陣を表明し、翌年八月に死去した。享年65。



・記憶力抜群で、数字を丸暗記できたらしい。

・吉田内閣のときには「貧乏人は麦を食え」「中小企業の一部倒産もやむを得ない」など、問題発言もあった。「中小企業倒産発言」に対して社会党の確認を受けた池田は「経済原則に違反して、不法投機した人間が倒産してもやむを得ない」とさらに問題発言を重ねたため、翌日閣僚の不信任決議案が提出され、可決、大臣を辞任した。

・厚生大臣に中山マサを起用した。日本初の女性閣僚である。


在職中の出来事

1960.10 浅沼稲次郎社会党委員長が刺殺される

  .12 所得倍増計画を閣議決定

1961.7 小児マヒ流行

  .12 三無事件。池田首相らの暗殺計画

1962.6 四日市公害発生

1963.2 日ソ貿易協定

  .5 狭山事件

  .8 部分的核実験禁止条約調印

  .11 新潟水俣病発生

1964.4 経済協力開発機構(OECD)に加盟

  .6 新潟地震

  .9 名神高速道路開通 

  10 東京オリンピック開催

    東海道新幹線開通

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